第五話
部屋に戻ってボクはノートを開いた。書き留めておきたい言葉がどうしてもあった。桃山さくらの言葉だけを書く。会話メモの規則に従って、ボクは次の二行だけを書いた。
『…役じゃなくても、私』
『…なんでもない。忘れて』
書いた後で前のページを一枚めくった。読み合わせの夜の『…台本の周りを演じるものです』の下に今夜の二行を書き加えた。三つの言葉が上下に並んだ。それだけのことだった。ただ、それだけの並びが夜中の二時の海よりも、少しだけ静かに見えた。
七日目は肝試しだった。
案は星野部長のもの。
「文芸部は夜の神社で、今宵の思い出を一文ずつ書いてくる」
ボクたちは一致して拒否したが拒否の時間は十五秒ももたなかった。
神社の参道は昼間よりむしろ明るかった。石段の下から参拝客が三組上がってきて、鳥居の下を通り抜けていった。灯籠の灯りがボクたちの影を参道の真ん中に引っ張っていった。
最初の怪異は暗闇の中の影だった。ボクが最も先に叫んだ。
「うわっ、なに、なに!」
「それは待ち合わせで立ってた人」
「人だったんだ! 暗くて見えない!」
三つ目の怪異はボクの足元の石段に置き去りの黒いビニール袋だった。ボクは二メートルの距離から石を投げた。袋は動かなかった。桃山さくらが静かに近づいて、袋を持ち上げて、ごみ箱に持って行った。ボクはその背中を見て、彼女の背中がいつものどの役よりも大きく見えた。
四つ目の怪異はまなみだった。
「バカ兄!」
石段の上から、まなみが降りてきた。半袖に短パン、両手に持っているのは濡れた虫取り網だった。
ボクは叫んだ。
ボクが叫んだ。
「お前、なんでここに!」
「招待された」
「されてない!」
「されてないけど、来た!」
「バカ兄、帰る前に、こわい話しよ?」
「帰る」
帰るは効かなかった。
ボクたちは神社の縁側に並んで座り、こわい話を一つずつ聴いた。
黒田賢太郎の「実家の段ボールが、ひとつ、勝手に窮屈になってた話」
海原みつきの「母の短歌の下の句を子どもが書き換えてた話」
星野部長の「文学賞の選考会で、原稿用紙が一枚足りなかった話」
どれも、この夏のボクたちの話より、ずっとこわかった。
最後に桃山さくらの番が来た。
「私はね、こわい話が一個しかわからないの」
「いいね、それ!」
「こわい話は、『わからない』って言ってるうちに、だんだん、わからなくなるって言うんだよ」
「桃山さん、それはこわくない!」
「わからないから、こわいの」
ボクは彼女を指差して、しばらく黙ってから言った。
「桃山さん、わからない方が、いっそ、わかりやすい」
「…そう?」
「そう」
ボクたちが笑ったとき、桃山さくらは、思い出したように言った。
「役で怖がったほうが楽しいので」
言ったが最後、ボクの手首を、掴んだ。ボクは空いている手で、蚊取り線香の火を確かめて、置き去りの袋を回収する役を振られた。
「なお、それ、俺の手首を取ってる」
「わかってる。今、取ってる」
「取ったまま?」
「取ったまま」
神社の参道の灯りの下を、ボクたちは、並んで歩いて戻った。桃山さくらの掴んでいる手首の温度は、その夜、ずっと、海の水温と同じだった。
線香花火は、浜辺でやった。みなもが自分の分まで持ってきて、配った。玉が落ちる瞬間、みんなの頭が、いっせいに下に下がった。みなもは「玉が落ちる前に願い事」と言い出して、全員が黙って玉を見た。ボクは「願い事」と「玉が落ちる」のどちらに集中すればいいのかわからなくて、どちらもできなかった。ひなたは最後まで書き物を続けていて、話しかけられると「いま、一文、書いた」とだけ答えた。
みんなが寝たあと、ボクは食堂の片付けをしていた。テーブルの上に、桃山さくらのスマホが置いてあった。画面が上を向いて、震えていた。ボクはそれを取り上げて、桃山さくらの部屋の前に置いて、静かに引いた。廊下の外に、桃山さくらの声がした。
「はい……なんでしたっけ」
声は、普段より、少し低かった。ボクは廊下の角に立って、動けなくなった。桃山さくらの部屋のドアの隙間から、かすかに光が漏れていて、光の中で、桃山さくらがスマホを持って、画面を見て、それから、伏せた。
ボクは廊下の暗いところに立ったまま、その一連の動作を全部見た。見た上で、何も理解できなかった。
朝、桃山さくらは「合格しました」と言った。汐鳴座の夏の外部公演の、オーディションだった。研究生のまま、本公演に出られる枠。みつきが「すごい!」と跳ねて、黒木が「おめでとう」と言って、ひなたが「で、いつ?」と聞いた。
「文化祭の初日です」
台所が、一瞬、静かになった。ボクは「すごいじゃないですか」と言った。本心だった。本心を言うと、桃山さくらは少しだけ笑って、「うん」と言った。その「うん」は、劇団で使う、どの台詞よりも綺麗に聞こえた。綺麗に聞こえたから、ボクは綺麗な台詞だと、疑わなかった。
夏休みが終わって、食堂の片付けが終わって、ボクたちはバス停に集まった。バス停の、海に向いたベンチの上に、桃山さくらのスマホが、また、置いてあった。ボクは、その画面を覗き込む前に、先に、声をかけた。
「忘れ物、二つ目」
「……なお」
「なに?」
「私、決めました。二学期、決めます」
桃山さくらは、スマホを、伏せた。伏せたまま、握り込んで、握り込んだまま、笑った。
「……なおは、先に言わないで」
ボクは「先に」と「なにを」のどちらを聞くべきか、わからなくて、どちらも聞けなかった。バスが来た。バスの中で、桃山さくらは窓の外の海をずっと見ていた。海は、その日も、夜でも明るかった。花火の色はもう残っていなかったが、それを残っていると書くべきか、消えたと書くべきか、ボクにはまだ決められなかった。決めたのは、ずっと後だった。




