第一話
九月の海は、夕方だけ金になった。朝のうちは夏の名残でまだ白く、昼も同じ青をしているのに、三時をすぎる頃から急に光の角度が変わって、水面の一枚が金箔を貼ったように光る。
放課後の部室の窓からは、その金色が半分だけ見えた。半分しか見えないから、残りの半分を勝手に想像する。ボクはその勝手な想像が脚本で一番得意なはずだった。
二学期が始まって、一週間で世界の速度が変わった。
文化祭が十月の最終週に決まって、実行委員会の掲示が昇降口に張り出されると、学校中の空気が「準備」という色に染まった。
文芸部の朗読劇『潮鳴りのわすれもの』は桃山さくらがもぎ取ってきた枠で配役もほぼ決まっている。
ヒロインは桃山さくら。
主人公はボクが読むことになった。
脚本家が読むのは禁じ手だと星野部長に言われたが、他に誰がいるのという静かな圧力に負けた。
そして、桃山さくらは二つの舞台を掛け持ちしていた。
昼は、うちの朗読劇の演出助手。
放課後は部室で打ち合わせ。
その後、バスで公民館へ行って、汐鳴座の稽古。
文化祭の準備と夏の外部公演に向けての本稽古。
スケジュール表を劇団側と学校側で並べて書くと、隙間がほとんどなかった。
気づいたのは『声』だった。
九月の二週目、部室で台本の読み合わせをしている時、桃山さくらの「ありがとうございます」が少しだけ掠れた。掠れ方は一瞬で、次の言葉はいつもの通りだった。
ボクは聞いた。
聞いたけれど、それを「掠れた」と処理するまでに三秒かかった。三秒あれば会話の中では話題はもう次の岸に着いている。
「…じゃあ、この一文は言い直しますね」
桃山さくらは自分の掠れに、何の説明も加えずに、次の台詞を言った。
それから、痩せていることにも気づいた。気づいたというのは正確ではなくて、制服の袖口が夏休み前より手首のほうに落ちているのに気づいた。袖の位置で人の体型を判定する観察眼にボクは自分で少し驚いた。他人の感情には効かない観察眼がこういうところにだけ正確に働く。
「食事とってます?」
「…食べてますよ。なんですか、その質問?」
「脚本の台詞です。主人公がヒロインに言うやつ。今、実験しました」
「…不自然すぎます。実生活で言わない台詞を実生活で言わないでください」
桃山さくらは笑って、湯呑みを持ち直した。笑い方はいつも通りだった。いつも通りだということをボクは確認のように何度も見返していた。確認作業は異変を見つけるためのものではない。異変がないことを確かめるためのものだ。そう決めていた。
同じ頃、文芸部に激震が起きた。
廃部の基準は「部員三人未満」。うちの部員は部長の星野ひなた、ボク、そして幽霊部員がひとり。名前だけの部員で、部長曰く「二年の藤代。蒸発している」。その藤代達矢が文化祭の週に向けて、突然現れた。
「お世話になっております。藤代です」
旧校舎三階の部室のドアを開けて入ってきたのは背の高い無表情な生徒だった。無表情というより、表情を送る前に省エネモードに入るタイプだった。
「なんで急に?」
「文化祭のこの演目、脚本がうちの校舎で一番早く話題になったから」
「うちの文芸部が?」
「廊下の噂で。『文芸部の朗読劇、脚本が本気』って?」
「脚本が本気という噂だけがひとりで歩いてるのか?」
「歩いてる。速いよ。俺より速い」
これで文芸部は三人になり、廃部の危機は消えた。喜ぶべきことだったが、ひとつ問題があった。藤代達矢の朗読が絶望的に棒なのだ。これはまだ確かめていないのだが、確かめる前から予感だけはあった。無表情で入ってくる人間が朗読で表情豊かである可能性は統計的に低い。
知らんけど。
もうひとつ問題があった。文化祭の宣伝用ポスターのキャッチコピーだ。星野部長が「脚本家なんだから、お前が書け」と言うので、ボクは書いた。
『海の見える町の、忘れた言葉をさがす物語』
星野部長はそれを三秒見て、言った。
「テスト前夜に教科書を開いた顔してる」
「酷い」
「『さがす』て。誰が。どこで。何を。情報が全部逃げてる」
「ぼかしは文学的手法で」
「逃げは手法じゃない。じゃあ私が書くよ。『読まずにはいられない、隣の席の物語』」
「それ、うちの朗読劇の内容と関係あるんですか?」
「関係ないけど、人を呼べる。あんたのは関係ありすぎて呼べない」
結局、ポスターには星野部長の文が使われ、ボクの文は部室の黒板の片隅に消されるまで二日間残った。二日間、誰にも読まれず。
その金曜日、古文の授業で鯨友先生がまた比喩を言った。
「人は源氏物語と一緒で、名前をつけてもらえないと存在できないんだ」
黒板には「作者不詳」という四文字が書かれていた。先生はそれを指して、
「この四文字、あんないい物語の足音を消す呪いだ。書き手は覚えてるのに、読み手は呼びようがない。呼べない者は記憶の隅に追いやられる。だから、名前をつけることは存在を救うことなんだ」
教室は静かになった。ボクはノートにその言葉を書いた。書きながら、部室の幽霊部員。いや、元幽霊部員のことを思い出した。藤代達矢は「藤代」という名前を持って現れたのに、うちの部ではずっと「幽霊部員」と呼ばれていた。呼び名が本人より先に部室に住み着いていた。




