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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
九月
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22/51

第二話

 放課後、部室でボクは言った。


「藤代。あんたの役の名前を台本に書き加えた」


「俺の役、名前なかったんですか?」


「『部の後輩』という役名だった。今から『凪』です。台本の二ページ目と最終ページに登場します」


「俺の名前で役名ができるのか?」


「先生が言ってた。名前をつけてもらないと存在できないんだって」


「古文の先生?」


「古文の先生」


藤代達矢は「凪」と書かれた配役表をしばらく眺めてから、小さく「よろしくお願いします」と言った。あの日あれほど表情を送らなかった顔に、初めて微熱みたいな表情がついたのを、


ボクは見た。


名前というのは安価な道具だ。効果の割にたった二文字で済む。


星野部長はその様子を縁側。部室には縁側はないが、窓際の椅子に座ってミルクティーを飲みながら見ていた。


「脚本が書けなくて、代わりに役者の名前をつけてるね」


「脚本も書いてます。ラスト以外を」


「ラスト以外を書いた脚本って、知ってる?」


「知りません」


「手榴弾だよ。ピンが抜けてるやつ」


星野部長はミルクティーを置いて、ボクのノートの上に、指でトンと乗った。


「あんた、ラストが書けないんじゃない。『好きだ』の一言が書けないんだよ。三年間それで通してきたでしょ。あんたの小説」


「三年間って、高校に入ってまだ一年半です」


「中学も入れてる。読んでたから」


星野部長の「読んでた」は、いつも過去形で降ってくる。読者というのは、こういう風に、いきなり過去を知っている。


「モデルに会いに行きな」


「モデル?」


「あんたのヒロインのモデル。モデルの言うこと、モデルの声の聞こえ方を、ちゃんと聞きに行くの。座って想像するだけなら、誰でも書ける。現場に行くから脚本家なんだ」


星野部長はそれだけ言って、ミルクティーに戻った。ボクは「会いに行く」という言葉を当たり前に受け取って、当たり前に忘れた。当たり前に忘れたものが後で回ってくる。それはいつものことだった。


 汐鳴座の公民館ホールには翌週の土曜日に行った。


台本の進みが遅く、星野部長の「現場に行くから脚本家」という言葉が一週間かけて意味を持ってきた。桃山さくらには「見学に行ってもいいですか」と事前に言ってあり、彼女は「…はい。ただし静かに」とだけ条件をつけた。静かに見学するくらいなら、ボクは得意だ。小説家の基礎体力である。


公民館ホールは体育館を三分の一にした大きさで、床に床鳴り用の板が敷いてあった。稽古は三時から。到着した時点で、すでに始まっていた。端の折り畳み椅子に座ると、みつきがパイプ椅子を音を立てないように運んできた。


「ここ、一番見えません。だから一番見学に向いてます」


理屈がわからなかったが、言われた通りに座った。


ステージの上で桃山さくらが立っていた。


夏休みに何度か見た「汐鳴座の桃山さくら」は学校の桃山さくらよりも背筋が伸びて、声が遠くまで行く人だった。今日の彼女は、それとはまた違っていた。今日の彼女は、歩き方が遅い。一歩ごとに、足の裏が床の板を確かめるように歩く。台本を手に持っていない。持たなくても言える段階まで来ていた。


役名は「灯火の娘」。


物語はこうだった。


海の町に灯りを点す仕事をしている娘がいる。灯台守の娘ではなくて、もっと小さな、神社の参道の灯籠に火を入れる仕事の娘だ。

娘の家族が一人、二人と亡くなっていく。あるいは、去っていく。台本には「亡くなっていく」とも「去っていく」とも書かれていなくて、ただ、朝起きると、朝食の席の湯呑みが一つ減っている。娘は減った湯呑みを数えることで、家族を数える。減り続ける湯呑みを数えながら、娘は毎晩、参道の灯りを点しに行く。


ラストの場面だった。


黒田賢太郎が「死に行く誰か」の声だけを演じた。姿は見えない。舞台袖の暗がりから、声だけが来る。娘、桃山さくらは、その声に普通に話しかける。普段通りに。いつもの夜のように。「今日も、風が強いですね」と。声は答える。桃山さくらは頷く。それから、長い「間」があって、桃山さくらは客席に背を向けた。


背を向けたまま、灯籠の火を、ひとつ、消した。


会場の空気が一気に薄くなった。ボクは呼吸を忘れていた。火の消えた後の参道の暗さが客席まで届いてくるような、そんな錯覚があった。桃山さくらは客席に背を向けたまま、微動だにしなかった。その背中の静止が今まで見たどんな台詞よりも大きくて、ボクは椅子の縁を握ったまま、自分の脚本のラストを、急に思い出した。


思い出したというのは正確ではなかった。

手に入っただった。


ボクの脚本の主人公はラストで何を言えばいいのか、ずっとわからなかった。「好きだ」という一言が、ボクには書けなかった。ボクの中でその言葉は、まだ誰にも向けられていない前提の言葉で、誰かに向けるには軽すぎて、自分の中に置くには重かった。


だが、今の「灯火の娘」は、何も言わなかった。ただ火を消した。言葉よりも動作の方が伝わることがある。

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