第三話
帰り道、海原みつきが押し込むように話しかけてきた。
「桜田くん。私ね、ずっと言いたかったの」
「はい」
「私は桜田くんの脚本のファンです」
その瞬間、歩調の半歩後ろを歩いていた桃山さくらが止まった。
止まり方が尋常ではなかった。コンクリートの上に足の裏が貼り付いたように、ぴたりと止まった。夕方の海が金の時間でその金色の中で、桃山さくらの顔だけが青かった。
「ファンですか?」
「そう。『潮鳴りのわすれもの』の書き出しの一文、もう暗記してる。『海は言葉を一度だけ預かる。返すのは十年後でもいい。』」
「覚えてくれたんですね」
「だから、言おうかなってずっと悩んでたんだけど、今日、思い切って言うわ」
「え」
「ねえ、さくら。続編とか、ないの?」
一拍の沈黙の後、桃山さくらの足が復活した。
「続編ですか?」
「続編! ヒロイン、誰? 私?」
「みつき、私の前で言う?」
「言うよ。仲間なんだから」
海原みつきは笑って、ボクの肩を軽く叩いた。
「冗談だよ。私はあんたの脚本のファンだけど、あんた自身のファンじゃないから。勘違いしないでね。そっちの『好き』じゃないよ」
「どっちの『好き』だって言うんだ?」
「え、こっちの。脚本の。構造を愛してる感じの好き」
「構造を愛される脚本家になりたいです」
「なりなよ。で、続編は?」
桃山さくらは海原みつきの「続編」が終わってから、初めて口を開いた。
「桜田くんの脚本は続きを書かなくても、次を書くものですよ」
「どういうこと?」
「一作終わっても、書き手の中には、まだ、次の題材が溜まってるってことです」
言いながら、桃山さくらはボクを見なかった。海の金を見ていた。海の金は、その日、長く続いた。
十月の文化祭の準備が本格的に迫ってきた頃、桃山さくらは台本の余白に何かを書くことが増えた。
書く場所はうちの部室での打ち合わせ中。桃山さくらの鞄の底には、いつも汐鳴座の台本が入っていて、うちの台本とは別の余白の多い方の台本だ。打ち合わせの合間に、桃山さくらはその余白に、消しゴムを削るみたいに細かい字で何かを書き込む。ボクは覗かない。
覗くのは見ることに含まれるのかどうか、まだ自分の中で決着がついていない。
ある日、決定的な場面があった。
打ち合わせが長引いて、部室に二人になった。窓の外の海が金の時間で、部屋の中まで薄い金色が入ってきた。桃山さくらは台本の余白に書き込みながら、急に咳をした。
咳は一度きりだった。
それで終わった。
ボクは台本の進捗を訊こうとして、口を開いて、やめた。開いた口で、別の言葉を言った。
「桃山さん」
「…はい」
「疲れてないか?」
言った瞬間、ボクは自分の言葉に驚いた。驚き方が変だった。驚くのは桃山さくらが返事をするかどうかじゃなくて、自分が「疲れてないか」という質問を口から出せたことだった。
桃山さくらの筆が止まった。
筆は台本の余白の上で止まって、それから、ゆっくりと沈んだ。筆の先が余白に触れたまま、桃山さくらは、しばらく何も言わなかった。金色の光の中で、桃山さくらの目が少し潤んでいるように見えた。見えたというのが、また、ボクの中の解釈の対象になった。
「…今、なんて言ったの?」
「疲れてないかって」
「…そう」
「急ですみません。変な訊き方でした」
「…違う」
桃山さくらは首を横に振った。首を振りながら、 笑った。
その笑い方は普段の「劇団の笑い方」ではなかった。
「…急だったからです。ずっと、誰にも訊かれなかったから」
ボクはそこで、初めて気づいた。この人は今まで、誰にも訊かれていなかったのだ。
汐鳴座でも。
家でも。
学校でも。
常に「大丈夫」という答えの形に収まっていた。収まっている人に、「疲れてないか」は燃料を送る言葉じゃなくて、形を壊す言葉になる。
「ごめん」
「…謝らないで」
桃山さくらは目を拭く暇もないくらいの速さで、台本を持ち直した。
「…ありがとう。この一言、私、台本に書き加えておきます。後で、読み返すことがあるかもしれないから」
その「後で」がいつなのか、ボクは訊かなかった。訊かないほうがいい気がした。
あの「後で」は多分、ボクにはまだ早い時間だった。
その夜、家に帰ってボクはパソコンに向かった。
『潮鳴りのわすれもの』のファイルを開く。ラストのシーンだけが空白だった。カーソルが点滅していて、点滅はボクを急かさなかった。急かしてこない文というのは、いつも書くべき文だ。
「好きだ」は書けなかった。今日も。
今日も書けなかった。
ボクの中のその言葉はまだ、向ける相手も向ける形状も決まっていなかった。
ただ、「灯火の娘」のあの背中が目の裏に残っていた。客席に背を向けて、火を消す。何も言わない代わりに、何かを残す主人公がいる。ボクの主人公もラストで言葉を探すのをやめて、別の方法で伝えていいのかもしれない。伝わるかどうかは、読み手が決めることだから。
書き手の仕事は、伝えることではなくて、渡すことだ。渡すものの名前を、ボクはまだ知らない。
カーソルの点滅をしばらく眺めた。
それから、ボクは一行だけ書いた。
『あなたが、いなければ困る』
書いた後、一秒だけ、保存する前に消そうかと思った。
弱い文だった。
「好きだ」に比べたら、断然弱い文だった。だが、消さなかった。消さなかったのは、弱い文でも、書けた自分が三年ぶりにいたからだった。
窓の外では、十月に入る夜の風が海の匂いを少し冷やして運んできた。九月の海はもう金色を終えて、代わりに、一足早い秋の色を、暗闇の中に用意し始めていた。
ノートを開いて、会話メモの最後のページに、一行だけ書き留めた。
『…ずっと、誰にも訊かれなかったから』
書き留めた後で、ふと気づいた。この一行は台本に使える言葉ではなかった。使えるかどうかを考えてから書くのがいつもの会話メモの規則だった。使えるかどうかを考えずに書いてしまったのは初めてだった。
消さなかった。
消さないで閉じた。




