第一話
十月の海は、文化祭の旗が映る赤だった。昇降口から坂を下った防波堤の沿道に、各クラスの旗がはためいて、その赤が夕方まで水面に落ちて、海の上を旗が泳いでいるように見えた。ボクたちはその赤を一週間前から毎日少しずつ濃くしてきた。濃くなる赤を毎朝眺める仕事というのは、感慨よりも先に確認作業に近かった。
今日も赤い。
よし。
それだけだった。
だが、朝の海はいつもの赤のまま、何も教えてくれなかった。教えてくれたのは部室に届いた一枚のメモだった。
「本日、朗読劇ご覧いただけますか。初演です。よろしくお願いします。桃山さくら」
一言だけのメモが机に置かれていた。
下には小さく丸がついていた。丸の中に「動員」と書いてある。意味がわからなかった。意味がわからないものをボクは机に置いたまま、階段を降りた。
降りた先ですべてがわかることになる。
文化祭当日の朝、旧校舎三階の部室は軽音部のドラムの遠い音に揺れていた。
「藤代、その表紙、歪んでねえか?」
「直します」
「直して。表紙の歪みは客の心の歪みに直結するの」
「心の歪みの原因は部長の言い方では」
「言い方は歪んでない。事実を言ってるだけ」
星野部長は当日のMCを任されていて、原稿を持たずに台詞を全部覚えていた。代わりに台本の端には、客席を笑わすための地の文が鉛筆でびっしり書き込まれていた。
ボクが覗くと星野部長は隠した。
「見るな。MCの種明かしは芸人の聖域」
「脚本家には見せられん?」
「脚本家は自分の庭の種明かしは自由にするくせに、他人の庭には土足で入るから」
藤代達矢は開演前に配役表をもう一度眺めていた。
「凪」の二文字のところを指でなぞっている。名前がついた役を、人は着物みたいに着る。
昨日までの「部の後輩」は藤代達矢に着られていなかった。
「先輩。俺、最後のセリフ、一枚で言えます」
「一枚?」
「原稿、一枚だけ持って上がる。後は覚えた。名前ついた役だから覚えられる」
藤代達矢の覚え方に因果関係はない。
名前と記憶力は関係ない。
だが、それを訂正する理由もなかった。
ボクは頷いた。
藤代達矢は「よし」と言った。
無表情な人が言う「よし」は声の温度だけが少しだけ先に来る。
ボクは前日の夜のことを思い出す。文化祭前日の放課後、部室で小道具の最終確認をしていた時、桃山さくらは窓際の椅子に座って、赤い靴を磨いていた。舞台用の赤の革の靴だった。布で擦る音が部室の静けさに規則正しく混ざっていた。
「…磨いておくと、舞台の上で光の反射が変わるの」
「そんなに変わる?」
「…変わります。靴って客席から見ると、役の心臓の位置くらい目立つんですよ。歩く度に光るから」
「心臓が光る役って、この脚本にはいませんが」
「…いないです。でも、次の役にはいるかもしれない」
桃山さくらは、そう言って、片方の靴をボクの方へと差し出した。
「…桜田くんも磨いてみますか。脚本家に小道具の感覚を持っておくといいですよ」
「脚本家に靴を磨くスキルが必要になる場面ってありますか?」
「…あります。灯りの消えた舞台で靴だけが光ってたって思った瞬間に、役が全部終わってる。磨いた人にしか、わからない終わり方です」
ボクは言われた通りに布で擦った。擦った感触は布が革の上を泳いでいるみたいで、靴の赤が少しずつ深くなった。桃山さくらは隣でその様子を見て、小さく笑った。
笑い方が妙に嬉しそうだった。
「…覚えておきますね。桜田くんが赤い靴を磨いたことを」
「覚えておいて、どうするの?」
「…ずっと後で思い出すために」
思い出すためにというのは、役者によくある言い方だった。役者は思い出すために、今を記録する。ボクはその記録の方法がたまに羨ましかった。ボクはノートという道具が要るのに、桃山さくらは磨いた靴の感触だけで、後を記録できる。
桃山さくらは部室にいなかった。
開場の準備。
受付の割り振り。
小道具の最終確認。
そのすべてを桃山さくらは前日までに仕上げていた。今日の彼女の仕事は開演三十分前の舞台裏での最終調整だけで、その前の時間は「体調を整える」という名目で自由にされていた。自由にされた人は、おそらく、自由ではなかった。
ボクはその時は、まだ、気づかなかった。
開演三十分前、袖にいたのは、ボク、星野部長、藤代達矢、海原みつき、それに受付から逃げてきた水萌まで含めて、五人だった。桃山さくらは、まだ来ていなかった。
「桃山さんは?」
「あ、言ってなかったっけ」
「何を?」
「さくら、今日、劇団の通し稽古なの。公演前の最後の通し。夏の外部公演、本番が今日なの」
海原みつきが言った。ボクはその言葉を聞いた瞬間、意味が二つに割れた。割れた片方で、桃山さくらが今日、朗読劇のために何を捨てたのかが遅れて届いた。
夏のオーディションに合格して、研究生のまま本公演に出る。
その本番が文化祭の初日。
うちの朗読劇と正面から重なっていた。この二つが重なることは、桃山さくらにはずっと前からわかっていた。わかっていて、彼女は誰にも言わず、うちの脚本の演出助手を続けて、小道具を磨いて、動員の丸をつけて、朝、ボクにメモを置いた。
「文化祭の朗読劇と重なってるの?」
「重なってた。で、さくらは朗読劇を選んだ。今朝、劇団に連絡した。先生、怒ってると思う。でも、さくら、絶対こっちに来るって」
海原みつきは笑って言った。笑い方が心配そうだった。心配そうな笑い方というのは、矛盾しているのに、海原みつきの特技だった。
「で、代役、やるわ、私。台本あるから」
「あるの?」
「さくらのが。書き込み入り。さくらが、『もしもの時のために』って、預けてたの。私、休み時間にこっそり読んでた。だから大丈夫。何回も読んでる」
海原みつきはカバンから台本を出した。桃山さくらの字が余白にびっしり入った台本だった。海原みつきはそのページをボクに見える角度で開いた。
開いた頁の余白に見えた。
細かい字が、一行だけ。
『文化祭の日は晴れますように』
祈りだった。ただの祈りだった。役者が本番前に書くようなおまじないみたいなものだった。
ボクはそれを祈りだと読んだ。
祈りだと読んだ正しさが後で、何度も訂正を求めてくることになるなんて、その時のボクは知らなかった。晴天の祈りの下には、さらに小さな字が、もう一行あった気がしたが海原みつきがページをめくったので、読めなかった。読めなかったものは、読めなかったものだ。それがボクの規則だった。
「待って。じゃあ、桃山さんはどっちも捨てる選択肢を選ばなかったの?」
「捨てたのは劇団の方。三年分の目標だったのに」
「なんで?」
「聞きたい? 桜田くんが聞いたら、答えが変わるから、聞かないほうがいいの」
海原みつきはそれ以上、何も言わなかった。
聞いたら答えが変わる。
そんな答えはボクには想像がつかなかった。想像がつかないものを、ボクは聞かずに置いた。
置いたものが開演二十分後に扉を開けて入ってきた。




