第二話
桃山さくらが校門の方から走ってくるのが見えた。ジャージから制服に着替える時間もなく、息を切らして袖の暗がりに飛び込んできた。肩で息をしていた。その肩がボクを見つけて、少しだけ落ちた。安心のための落ち方ではなかった。観察を終えたという落ち方だった。
「間に合った」
「間に合ってないよ」
ボクは静かに言った。
ボクの中では正しい言葉だった。
「劇団に行け」
袖の空気が止まった。
星野部長がボクを見た。
海原みつきがボクを見た。
藤代達矢が初めて表情を作った。
ボクはそのどれも見ていなかった。
ボクは桃山さくらを見ていた。
「今から行けば、通しの半分には間に合う。バスで十二分だったはず」
「…桜田くん」
「脚本家として言うんだ。主演がいない公演より、主演がいない稽古の方が劇団にとって損失だ」
「…訊いてるの? 脚本家として」
「脚本家としてだよ。この公演をボクが蹴る。今日の上演は中止でも代役でもいい。だから」
桃山さくらは袖の暗がりの中で、ボクを見た。ボクはその目を見返した。見返したのに、その目が何を言っているのかなんて、わからなかった。わからなかったから、ボクは懇願するような声で言った。
「行って」
桃山さくらの声は低かった。低くて、よく通った。客席からは聞こえないくらいの大きさで袖にいる全員の鼓膜にだけ届いた。
「…なんで、あなたはいつも、私を遠ざけるの」
言葉はそこで終わった。
桃山さくらは走り去った。袖の入り口の式台の転換の音がして、それきりだった。
走り去った音が開場の喧騒より大きく聞こえた。ボクはその音の後に残った静けさの中で、自分の言った言葉をもう一度、頭の中で読み返した。読み返す度に意味が少しずつずれていった。
脚本ならここに注釈をつける。
「劇団に行け」は推薦の意。「蹴る」は犠牲の表明。
読み手はボクの好意を正しく受け取るはずだった。
正しく受け取るはずだった。
「おい」
星野部長の声だった。
星野部長は開演五分前のその瞬間に、MCの声でボクの耳に言った。
「あんたの脚本、今、ヒロインが誰を好きか、一文で書いてあるよ」
「なんですか? それ」
「『劇団に行け』の一文の裏に、さくらが読んだことが書いてある。あんたは書いてない。あんたはただ、書かなかっただけ」
「書いたつもりです」
「あんたは書いたつもりで、書いてない。それが台本と日常の違いなのよ。台本は書いたものが全部届く。日常は書いたつもりしか届かない」
星野部長はそれだけ言って、ステージに上がった。
開場は満席だった。
正確には、満席ではなくて通路に椅子が足りない状態だった。うちの朗読劇の動員予想は、星野部長曰く「部員の親くらい」。
だが、客席は他クラスの生徒で埋まっていて、後ろには立見ができていた。受付のクラスメイトが袖に伝言してきた。
「桃山さんがめちゃくちゃ人を連れてきたって。昨日の放課後、一クラスずつ回ってた」
桃山さくらは裏で声を掛けていた。
一人一人の机まで行っ「朗読劇、見てくれますか」とその人だけの声の大きさで頼む。
頼まれた人は断れない。
断れない人を三十人集めると客席が変わる。
桃山さくらはその方法をボクに一言も相談せずに、実行していた。
自分の捨てた舞台に客を呼んでいた。
幕が上がった。
朗読劇というのは脚本の上では上手くいく。
台本は書いたものが全部届く。
だが、幕が上がって、ボクが主人公の最初の台詞を言った瞬間から、ボクの脚本はボクのものではなくなった。
藤代達矢の「凪」が最初のセリフを言った。
「先輩。海、見えますか?」
棒だった。
完全に棒だった。客席の三列目の笑いが会場を通り抜けて、後ろの壁に当たって戻ってくるのが、ボクには見えた。
藤代達矢は緊張で指が原稿から離れなくて、ページを捲る度に、紙の音がマイクに入った。紙の音は拡声器を通すと、台風の夜のシャッターみたいに大きかった。
「先輩。海、見えますか?」
二度目だった。
藤代達矢は緊張のあまり、同じ台詞をもう一度読んだ。
ページが戻っていた。
「見えるよ。さっきも見えた」
「そうですか。よかった」
六行の会話が三行で終わった。藤代達矢は読み終えた気になって、ページを捲った。捲ったページが、間違えていなければいいがとボクは思った。
間違えていた。
藤代達矢は三ページ先を読み始めた。
客席の笑いが大きくなった。笑っている。
間違えているのに笑っている。
正しい朗読より、間違えた朗読の方が客を笑わせた。
星野部長が袖で、マイクを握る準備をした。
握った。
「すみません、ここで一言。脚本家の桜田くんにお訊きします。この後の展開は脚本のどのページにありますか?」
客席が笑った。
ボクは答えた。
「三ページ戻って、二ページ目の下です」
「お聞きの皆さん、脚本家が即答しました。安心して、続きをお楽しみください」
藤代達矢は三ページ戻った。
戻りながら、藤代達矢の肩が少しずつ下がっていった。
ボクはステージの上から、その肩を見ていた。
脚本家にできることは台詞を増やすことだけだった。
ボクは次のボクの台詞を一段階だけ、多くした。
藤代達矢の「凪」が返すはずの短い相槌をボクの台詞の方が引き受けた。
引き受けた分だけ、藤代達矢が読む分量が減った。
減った分量の分だけ、藤代達矢の肩が戻ってきた。
ボクが脚色するなどと、誰も思わなかった。
客席は脚本がそうなっていると思った。
脚本家の免罪符である。
海原みつきのヒロインは正確だった。
台本の上の指示をすべて守った。間も、強勢も、詰める箇所も、全部正しかった。ただ、声が違った。桃山さくらの声は海の音と同じで、ボクの台詞の輪郭をまっすぐ拾い上げてくれた。海原みつきの声は上手で、丁寧で。だが、ボクの台詞を拾い上げてくれなかった。ボクの台詞をおかえりと言ってくれなかった。
ボクの主人公がラストで「あなたがいなければ困る」と言った。
その台詞は桃山さくらの声のために書いた台詞だった。
桃山さくらの「間」を計算して、彼女が返す「はい」の長さを計算して、彼女が袖に引っ込むまでの三秒を計算して書いた台詞だった。
代役の海原みつきが「はい」と返しても、ボクの心臓は、何も言わなかった。
台上で、ボクは客席を見た。客席のどこかから、小さな声が聞こえた。「ヒロインの人、今日出ないの?」。
その問いに対する答えをボクは持っていなかった。
ボクが「劇団に行け」と言ったせいで。
この客席に来た人たちの半分は桃山さくらの声を聞きに来ていた。
桃山さくらが回って回って集めてきた客は桃山さくらの声のために来ていて、桃山さくらはその声を、今日は出せなかった。
それでも、彼女は客を集めた。
自分が聞かれない客席に客を集めた。
その意味の重さがボクに届いたのは、幕が下りてからだった。
届いた時には、もう遅かった。
上演は成功した。
幕が下りて、客席の拍手が来た。
来たけれど、ボクの耳にはその拍手が他人事に聞こえた。
他人事というのは、正確に言うと、他人の褒められ事だった。ボクはお辞儀をした。藤代達矢も、海原みつきも、星野部長もお辞儀をした。ボクだけが、袖の暗がりの方を見ていた。




