第三話
客が引いていく途中で、水萌が受付の席から部室まで戻ってきて、ボクに一枚の紙を差し出した。
学校のノートを破った紙。
その裏には、鉛筆で一行書かれていた。
今日の朗読劇の感想
ヒロインの声がいない
いつもより聞こえた。
「これ、読者感想ノートに書こうとしたら、部室、鍵かかってたから」
「なんで、感想がその言い方なんだ」
「言葉を選んだんだよ。バカ兄でも読めるように」
「読める。読めたけど、意味が、まだわからない」
「わかるようになるために、次があるんじゃん」
水萌は、それだけ言って、紙をボクの手に押しつけて、焼きそばの匂いのする廊下へ戻って行った。ボクはその一行をポケットに入れた。入れた紙は折り畳まずに、平らのまま入れた。折り畳むと、折り目に意味ができてしまう気がした。
客席の中に鯨友先生がいた。
椅子の最後列で手を合わせていなかった。
手を合わせる代わりに、口の形だけで何かを言っていた。読唇なんて、ボクにはできなかった。
ただ、その口の形が、「うまかった」だったらいいなとボクは思った。
袖の暗がりの床に赤い靴が残されていた。
桃山さくらの舞台で使う小道具だった。今日の上演用に桃山さくらが前日、自分で磨いて置いていった靴。
磨いたのをボクも覚えていた。
ボクも一枚だけ磨いた。
靴は誰にも拾われず、床に二つ並んで止まっていた。
靴というのは止まっているものだ。
履く人の足の大きさと歩く人の速度を全部記憶した上で、止まっているものだった。
赤い色は海の旗の赤と同じ赤だった。
旗は夕方に畳まれる。
靴は畳まれなかった。
ボクはそれを拾わなかった。
拾う権利がボクにはまだ、なかった。
後夜祭は中庭だった。学内放送が流れて、在校生が中庭に集まった。
三年生の挨拶があって、軽音部が演奏した。ボクは中庭の片隅でその輪の外にいた。
星野部長が差し入れのミルクティーを一本投げて寄越した。
「飲め。糖分はあんたの脳みその一番の友達だから」
「失礼ですね」
「で、どうするの?」
「何がですか?」
「桃山だよ」
ボクはミルクティーの蓋を開けた。
開ける音が返事の代わりになった。
星野部長はそれ以上、そのことについては何も言わなかった。
「次は三年生のことを忘れるなよ」
三年生の星野部長は後夜祭のこの時間を最後の文化祭として過ごしていた。
ボクはそのことに今日、初めて正面から気づいた。
「部長は最後の文化祭でしたね」
「そうよ。で、あんたは、初めての文化祭をポスターで始めて、階段で終わった」
「階段?」
「さっき、旧校舎の階段で、立ち尽くしてたでしょ。あれ、訊かなくてもわかる」
星野部長はミルクティーを飲みながら、客席の輪の方を見た。
「あんた、さっきの舞台上で脚本を一回だけ、違う風に読んだね」
「ばれましたか」
「脚本家が生き残りの台詞を増やしたのは初めて見た。あんたの脚本は今日、初めて、生きてた。ただし」
「ただし?」
「ただし、それは桃山がいなかったからだよ。あんたは人の不在からしか、人の存在が読めないの。それは小説家の才能じゃない。恋愛の未熟さだよ」
そう言って、星野部長は三年生の輪に戻って行った。
残されたボクはミルクティーの甘さを正確には測れなかった。
輪のすぐ外で藤代達矢がボクに気づいて、歩み寄ってきた。藤代達矢は手に持った配役表の写しを折り畳まずに差し出してきた。
「先輩。『凪』っていう名前の役を来年もやらせてください」
「来年もボクが書くの?」
「じゃあ、来年、俺が凪を書きます。先輩が書いた凪は俺が引き取るっていうことで」
「引き取る?」
「はい。あと、今日の紙の音、止められませんでした。来年までに練習します。ページをめくらずにすむように、全部覚えます」
無表情な人は、約束の時だけ、声の温度が先に来る。
ボクはその約束を覚えておくことにした。




