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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
十月
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27/51

第四話

 中庭の輪から離れて、旧校舎の階段でボクは携帯電話を拾った。


三階と二階の間の踊り場。

床に落ちていた。


白い。

四角い。


誰のでもないようで誰かのだった。

ボクは画面を見て、持ち主を確かめるためにそれを持ち上げた。


画面が点いた。

画面は点いた。


ロック画面の写真だった。

写真には教室が映っていた。


昼下がりの教室。

窓際の席。

机に突っ伏して寝ている生徒が一人。


ボクだった。


ボクはその写真の中の自分を三秒見た。


三秒は会話の中では永遠の長さだ。

三秒の間にボクはこの写真を撮ったのが誰なのかを考えた。

考えるまでもなく、わかってしまった。

授業中に隣の席からこの角度で、ボクの横顔を撮れる人はこの学校に一人しかいなかった。


桃山さくら。


ボクはスマホを握った。

握ったまま、踊り場に立った。

窓の外の海はもう暗くて、文化祭の旗は畳まれていた。

海は旗の色を返すのをやめていた。

写真の撮影日が画面の隅に出ていた。


六月。


六月の教室だった。

あの日、ボクは窓際の席で昼休みに寝ていて、誰も起こさずにいてくれた。

起こさなかったのは、桃山さくらだった。

窓をそっと閉めてくれた人だった。その人はボクが寝ている間に、この角度からボクの横顔を撮っていた。


 階段の下から足音が来た。桃山さくらだった。ジャージのままだった。桃山さくらは踊り場のボクを見て、足を止めた。ボクはスマホをかばんの中に放り込んだ。


「…桜田くん。文化祭の朗読劇」


「はい」


「…みつき上手だった?」


「上手だったね。桃山さんだったら、もっと上手だったと思う」


「…そうかな」


「そうだよ。でも」


「…でも?」


ボクはそこで言葉を切った。切った先の言葉が喉の奥に残った。

残った言葉は、「でも、今日、あなたの声が聞きたかった」だった。

ボクはその言葉を呑み込んだ。呑み込んだ言葉が後で、自分の脚本の中に一行として出てくることになるってことを、その時はボクはまだ知らなかった。


「…もう、帰ろ」


桃山さくらが言った。

二人で旧校舎の階段を降りた。昇降口の前で桃山さくらは海の方を向いた。

海はもう見えなかった。

夜の海はただの暗さだった。


「…桜田くん」


「はい」


「…今日ね。私、劇団に行こうとしなかった」


「知ってる」


「…先生には謝った。でも、後悔はしてない。今日の、あの舞台」


「うん」


「…あの舞台、私、出たかった」


ボクは、その言葉を聞いた。聞いたのに、その意味の重さを測り損ねた。

測り損ねたというのは、正確に言うと、ボクはその言葉の重さを自分の脚本の中の台詞と同じ重さだと思った。台詞というのは、言われた瞬間に意味が届く。

だが、桃山さくらの「出たかった」は台詞ではなかった。今日一日の走ってきた時間と、潰した稽古と、謝った先生の顔と、全部を背負った結論だった。ボクはその重さをまだ、測れなかった。


「送るよ。バス停まで」


「…うん」


バス停「汐見坂下」までの道を二人で歩いた。桃山さくらの足音と、ボクの足音と、遠い海の音だけが坂道にあった。途中の防波堤の前で、桃山さくらが少しだけ速度を落とした。四月に彼女が台本を掲げて独りで稽古していた場所だった。

桃山さくらはそこを見て、何も言わずに歩き出した。

ボクも何も言わずに隣を歩いた。

二人の間で、言わないことが一つずつ積もって、坂道の分だけ重くなった。


バスが来て、桃山さくらが乗った。ドアが閉まって、バスが去って、ボクは一人、坂の上に戻った。戻りながら、ボクはノートを開いて、会話メモに二行だけ書いた。


今日のあの舞台、私、出たかった』


なんで、あなたはいつも、私を遠ざけるの


書き留めた後で、ボクはその二行の下に、自分の言葉を書こうとして、止まった。

会話メモの規則は他人の言葉だけを書くだった。

自分の言葉は書かない。

書かない規則をボクは今日も守った。

守った上で、ボクはその二行を上下に並べて、しばらく眺めた。


二行の間に、暗黙の返事がなかった。

返事がないというのは、ボクがまだ書いていないからだった。

書いていないのに、返事を求められている。

それが、日常という台本の書きにくさだった。


夜の海は旗の赤を全部返して、ただの暗さに戻っていた。

ボクはその暗さの色をノートに書こうとして、やめた。

書けなかった。

その暗さにはまだ、名前がついていなかった。

名前がつくのはずっと、後のことだった。

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