第一話
拾ったスマートフォンはボクの机の上でまるで拾われた子犬みたいに伏せていた。
桃山さくらのものだ。
後夜祭の庭でボクが拾った。
赤い靴が舞台袖に残されていたのと同じ日、彼女はこれを落としていった。
画面にはヒビひとつ入っていない。
落としたというより、置き忘れたに近い。
それくらい、今日の彼女は何かを手放していた。
その夜、ボクは自分の部屋で拾ったばかりのスマホを見つめていた。
画面を点けるとロック画面が出る。
写真があった。
授業中の教室。
窓から入る午後の光。
机に突っ伏して眠っている、男子生徒の横顔。
それが、ボクだった。
最初はよくわからなかった。自分の横顔を他人が撮っている。
その他人のスマホをボクが拾っている。
この二つの事実がどうも噛み合わない。噛み合わないまま、ボクはベッドの端に座って、その写真を眺めていた。
「なんで?」
声に出して、一人で首を傾げた。考えられる可能性を順番に並べてみる。
第一に、記録。
文芸部の観察記録かあるいは演劇の資料か。役者というのは人の表情を細かく観る生き物だ。眠っている人間の顔も資料になるのかもしれない。それなら、筋は通る。
第二に、ネタ。
ボクは小説を書く。彼女は演じる。同じ「物語を作る」側の人間として、互いの隙を撮っておくというのは、ありそうな話だ。実際、ボクだって桃山さくらの仕草をノートに書き留めたことがある。
第三に⋯⋯。
第三は、考えかけてやめた。その先を考えるには、材料がボクの手元に足りなかった。
「黒歴史にされるのか⋯⋯」
これがその夜、ボクがいちばん真剣に悩んだことだった。文化祭の打ち上げでこの写真が誰かのスマホに共有されて、「桜田、寝てる」と笑われる。そういう未来がわりと鮮明に見えた。つまり、ボクは一番怖いことを、一番的外れな形で怖がっていた。
この時点では、そんなことにさえ気づいていなかった。
翌朝、リビング。水萌がトーストを頬張りながらスマホをいじっている。制服のリボンが曲がっている。
ボクが直そうとすると、バシッと手を払われた。
「触らないでよ、バカ兄」
「曲がってる」
「バカ兄に言われたくない」
ボクは自分のトーストに手を伸ばしかけて、やめた。その代わりに、ポケットから拾ったスマホを取り出す。
「みなも⋯⋯」
「なに?」
「もしさ、クラスの女子が男子の寝顔の写真をスマホの待ち受けにしてたら」
水萌が顔を上げた。
トーストが口の端から半分ぶら下がっている。
「それ、誰の話?」
「仮定の話だ」
「絶対、仮定じゃない」
「仮定だ」
水萌はトーストを皿に置いた。それから、ボクの手の中のスマホをジッと見た。
何か気づいたように目を細める。
「それ、誰のスマホ?」
「返すのを忘れてただけ」
「バカ兄、待ち受けの写真、撮ったことある?」
「ない」
「じゃあ、誰かのスマホ。見たの?」
ボクは黙った。
水萌は、はあぁとため息をついた。
十四歳のため息は四十代のそれより重い。
「バカ兄。女子が好きでもない男子の寝顔を待ち受けにすると思う?」
「観察記録かもしれない」
「するわけないでしょ」
「劇の資料だ」
「もっとない」
「じゃあ、黒歴史に」
「バカ兄!」
水萌が立ち上がった。
それから、ボクの手から桃山さくらのスマホをひょいと取り上げる。
画面を点けて写真を見る。
「うわっ!」
「なんだ」
「なんでもない」
「なんだよ」
「なんでもないってば」
水萌はスマホをボクに返した。それから、自分のスマホをいじりながら、ぽつりと言った。
「これ、撮った人、お兄のこと、けっこう好きだよ」
「なんでそうなる?」
「だって、こんな写真、好きじゃないと撮らない」
「それはお前の解釈だろ」
「バカ兄の解釈より、よっぽど普通だよ」
そう言って、水萌はリビングを出ていった。
ボクは手の中のスマホをもう一度見た。
眠っている自分の横顔。
そこで、思い切って、扉の向こうに声をかけた。
「みなも。恋愛相談に乗ってくれないか?」
扉が少しだけ開いた。
水萌の顔が隙間から出る。その顔は呆れ半分、心配半分だった。
「バカ兄は読者より鈍いね」
「読者より?」
「そ。バカ兄の小説の読者、みんな、バカ兄より、ずっと、わかってるよ」
扉が閉まった。
ボクはその言葉の意味を、この時、まだ、半分も理解していなかった。
ボクは小説を書く。
物語の中なら、その言葉がどこに置かれるべきかはわかる。
誰が言うべきで、誰が聞くべきで、その次に何が起きるべきか。そういうことは、いつもわかる。
でも、現実の「好き」は台本を持っていない。
その夜、ボクは返せていないスマホを枕元に置いて眠ろうとした。
眠れなかった。
だから、部屋の電気をつけてノートを開いた。
会話メモ。
ボクの癖だ。誰かの言葉を、後で小説に使おうと、一字一句、書き留める。自分の気持ちは書かない。書くのが、怖いからだ。自分の言葉を書くと、それが嘘か本当か、わからなくなるからだ。
そのノートのいちばん新しいページには文化祭の日の言葉が並んでいる。
「文化祭、楽しかったね」
「ポスターのコピー、バカだけど、嫌いじゃないわ」
「桜田くん、よく泣くなあ」
それから、一行。
「…なんで、あなたはいつも、私を遠ざけるの」
その一行をボクは何度も読んだ。読めば読むほど、わからなくなった。誰に向かって言った言葉なのかなんて、ボクにはわからなかった。
わかろうとして、わからない。
その夜のことをボクはずっと覚えているのだろう。




