第三話
ボクは袖で動けなかった。照明が上がって、役者たちがはける。海原みつきが泣きながら走ってくる。水萌が立ち上がっている。星野部長が腕を組んで、ボクの方を見ている。
ボクは袖の一番暗いところに立っていた。
桃山さくらがはけてきた。
衣装のまま。
赤い靴のまま。
顔が赤い。
息が荒い。
ボクたちは袖で二人きりになった。
「…桜田くん」
「はい」
「…あの」
「はい」
「…今の、」
桃山さくらは、そこで止まった。何かを言おうとして、言えなくて、手をぎゅっと握った。
ボクはその手を見ていた。それから、思った。
これは、演技だ
いや、違う。
これは、演技かもしれない
いや、違う。
どっちでもいい
いや、違う。
どっちでもいいわけがない
ボクは鯨友先生の言葉を思い出した。昨年、古文の授業で、先生は窓の外の海を見ながら言った。
「人は源氏物語と一緒で名前をつけてもらえんと存在できんだ。光源氏は名前がないんだ。名前がないから、どこにでもいて、どこにもいない。お前らも、誰かに名前をつけてもらえ」
一年間、ボクは彼女のことを「桃山さん」と呼んでいた。それは名前じゃない。
名字とさんだ。
ボクは一度も彼女の名前を呼んだことがなかった。
「さくらさん」
「…うん」
「君のさっきのセリフ」
「…うん」
「ボクの台本にない」
桃山さくらは目をそらさなかった。
「台本にないセリフを君は言った。それをボクは演技だと思えない」
袖の暗がりで彼女の顔が見えた。
「ボクが好きなのは役じゃない」
息を吸った。
「桃山さくらだ」
そう言った、瞬間。
桃山さくらの、目のふちから、涙が落ちた。
一滴。
また、一滴。
化粧が少し滲んだ。
彼女はそれを拭わなかった。
それから、笑った。
泣いて、笑って。
そして、言った。
「…赤い靴、返して」
ボクは意味がわからなかった。
「え?」
「…赤い靴。返して」
「それ、君の」
「…うん、私の。だから、返して」
ボクは彼女の顔を見た。それから、楽屋の方を見た。赤い靴は鏡台の上にある。
ボクが朝、置いた赤い靴が。
「返すって、ボクが持ってるのは、あの」
「…知ってる」
桃山さくらは頷いた。
「…昨年、袖に置いてったの。探したの。見つからなかったの。それから、ずっと、知ってたの」
「知ってた?」
「…知ってた。桜田くんが拾ったの。部室に持ってったの。うちに持って帰ったの。ずっと、知ってた」
ボクは声が出なかった。
「…返して。五か月預かってもらったから」
桃山さくらは涙をそのままに笑っていた。
「…あとで、取りに来るから。それまで、ちゃんと、持ってて」
ボクは頷いた。
それだけ、頷いた。
袖の外で水萌がボクを呼んでいた。
「バカ兄!」
そう呼ぶ声が聞こえた。
海原みつきの号泣も、星野部長の笑い声も聞こえた。
その全部が遠かった。
遠くて、静かで、ボクは生まれて初めて、誰かと言葉を交わした気がした。台本の上じゃない。小説の上じゃない。日常の舞台の袖で。
公演の翌週、卒業式があった。体育館の壇上で、星野部長が答辞を読んだ。長い、長い答辞だった。途中で、先生方がみんな、笑っていた。毒舌をちゃんと混ぜてきたからだ。最後の一文だけは笑いが起きなかった。
「私は、私が読みたいものをこれからも書きます。誰かに読まれるためじゃなく、誰かに届くように」
式の後、校舎の階段で星野部長に会った。
「よお、桜田」
「部長、おめでとうございます」
「どうも。なあ、あんた、わかったのか?」
「はい⋯⋯」
星野部長はミルクティーを、ずずっと飲んで苦笑した。卒業式の日も同じ紙パックだった。
「私、言ったよな。あんたの脚本はヒロインが誰を好きか書いてあるって」
「はい」
「あれ、正解だったろ」
「はい」
「よかったな。じゃあ、一つだけ、あたしからの宿題な。次、書く時はちゃんと名前をつけなよ」
それだけ言って、星野部長は行った。
黒田賢太郎は玄関のところで、他の研究生と写真を撮っていた。ボクが近づくと、彼は写真を撮るのをやめて、こっちを向いた。
「桜田」
「黒田さん、おめでとうございます」
「どうも。俺の持論は覚えてるか?」
「演出家は役者に恋をするな。でも、脚本家は恋した方がいい」
「そう。それだけだ」
黒田賢太郎はそれだけ言って、また写真の輪の中に戻っていった。
校門を出たところで鯨友先生に会った。
先生は腕を組んで、海の方を見ていた。
「桜田」
「はい」
「脚本、読んだぞ」
「ありがとうございます」
「ラストの、あれ。あれはな、名前だ」
「名前ですか」
「そうだ。あの娘は名前を呼んだろ。台本にない名前を。あれがこの芝居の一番大事な一行だった」
先生は少し笑った。
「名前をつけてもらえないと、人は存在できない。お前もようやく、名前をつけられるようになったな」
ボクは何も言えなかった。
ただ、頷いた。
校門の前に桃山さくらが立っていた。
制服のまま、カバンを持って、海の方を向いて。
「…桜田くん」
「うん」
「…今日、赤い靴、持ってきてないでしょ」
「うん。まだ、家にある」
「…そっか」
桃山さくらは少し笑った。それから、くるりと振り返った。
風が吹いた。
三月の暖かい風だった。
海の匂いが坂の下から上がってくる。
「…返事、まだしてないから」
ボクは頷いた。
「うん」
「…だから、まだ、返さなくていいよ。赤い靴も」
「うん」
「…それじゃ、また、月曜日」
「うん。また、月曜日」
桃山さくらは歩き出した。肩までの髪が風で少し揺れた。
ボクはその背中を見ていた。
一年前、同じ坂の上で、ボクは同じ背中を見て、「発声、腹式で綺麗ですね」と言った。
あの時、ボクは何も読めなかった。
今もまだ、読めていない。読めていないけれど、読もうとしている。読もうとしている、そのことが、一年前と一番違うところだ。
海は薄青かった。
桜のつぼみはまだ、固いまま。だけど、もうすぐ、咲く。
返事はまだ来ていない。
来ていないけれど、来ることはわかっている。
返事が来るまでの、この数日が、ボクの書いた一番長い小説じゃない文章になる。




