第二話
ボクは小道具と袖の担当だった。開演までの一時間、ボクは舞台袖で灯りの電球を、もう一度確認した。接触は直っていた。テープももう要らなかった。
楽屋の方から水萌の声が聞こえてきた。
「お兄!」
振り返ると、水萌が花束を抱えて立っていた。百円ショップの袋がまだ手にぶら下がっている。花束は少し傾いていた。
「おめでとう、お兄」
「何が?」
「何がじゃないよ。今日、本番でしょ。お兄の台本でしょ」
「脚本だけど」
「同じでしょ」
水萌は花束をボクの胸に押しつけて、それから楽屋の方を顎で指した。
「さくらさん、来てるよ。鏡の前にずっと座ってる」
「そう」
「靴、見た?」
「見たの?」
「見たよ。さくらさん、しばらく動かなかったよ。それから、ちょっと笑った」
ボクは何も言えなかった。
「バカ兄はそこで突っ立ってるだけ?」
「袖の仕事がある」
「バカ兄!」
水萌は、そう言って走っていった。ボクは花束を持ったまま、しばらく、楽屋の方を見ていた。
本番前、ボクは楽屋に顔を出した。桃山さくらは鏡の前に座っていた。衣装はまだ着ていない。赤い靴は鏡台の上に、真っ直ぐに置かれたままだった。
「あの、小道具の確認で」
「…うん」
彼女は振り返った。
声は戻っていた。
少し掠れていたけれど、戻っていた。
「…靴」
「うん」
「…知ってたの」
ボクは頷いた。
「昨年、袖に落ちてた」
「…五か月?」
「うん」
桃山さくらは何も言わなかった。それから、机の上から消しゴムを取って、なにげなく、指でいじり始めた。
落ちた。
ボクが拾って机に置いた。
また、落ちた。
ボクが拾って机に置いた。
三度目は、彼女が手を滑らせたように見えた。
ボクは拾った。
そして、何も言わなかった。
よく落としますねとは言わなかった。一年前、ボクはそれを言った。彼女はその一言を、ずっと覚えている。今、同じことを言ったら、同じ場所に戻ってしまう気がした。ボクは拾って、黙って、机の上に置いた。
桃山さくらはボクの手を見ていた。
それから、俯いて、小さく、息を吐いた。
「…桜田くん」
「はい」
「…出番、終わったら、ちょっといい?」
「はい」
その時、海原みつきが飛び込んできた。
「さくらちゃん! 声、大丈夫? 無理しないでね! あたし、最前列で録画するから。三脚持ってきたから!」
「みつき、三脚はさすがに怒られるよ」
「怒られてから考える!」
海原みつきの後ろから、星野部長がミルクティーを片手にのぞいた。
「よお、桜田。客席、埋まってるぞ。あんたの脚本、評判いいからな。あと、鯨友先生も来てる。一番後ろで、なんか、腕組んでる」
「鯨友先生が?」
「あの人、あれだろ。古文の。名前の話ばっかする」
星野部長はそう言って、笑った。
開演十分前。ボクは袖の定位置についた。客席は思ったより埋まっていた。文芸部の席。水萌は最前列の端。星野部長と黒田賢太郎。海原みつきは三脚を抱えて、係の人に注意されていた。一番後ろの列に、鯨友先生の大きな背中。
照明が落ちた。
幕が上がった。
そこから、二時間。
ボクは袖で、自分の書いた芝居を見た。
最初の場面は、村の朝だった。娘が灯りの油を継ぎ足している。海の音。男が荷物をまとめている。二人は目を合わせない。
「…行ってしまうんですね」
桃山さくらの声が袖まで届いた。
ぞくりとした。
三週間前、稽古場で聞いたのと同じ声だ。
いや、違う。
もっと、遠い。
もっと、広い。
市民ホールの客席を、その声がまっすぐに渡っていく。三百人分の空気を押して、渡っていく。
ボクの書いた言葉がボクの手を離れて、会場の全部になっていく。
ボクは台本を握った。握った手が汗で濡れていた。
中盤、男が娘に別れを告げる。
ボクのいちばん削った「ああ」。
黒田賢太郎の「ああ」は三週間前より、ずっと短かった。
短いのに長く響いた。
「…灯りを消しません」
「消してくれ」
「…いやです」
その「…いやです」で客席の誰かが、鼻をすする音がした。ボクは袖で、自分の顔が熱くなるのを感じた。
そして、最後の場面。
男はもういない。
舞台には娘がひとり。
灯りの前に立っている。
客席に、背を向けて。
照明が少しずつ、落ちていく。ボクの書いた、あのモノローグが始まる。
灯火の娘
「…あなたは海の方へ行きました」
灯火の娘
「…わたしは村の方を見ていました」
灯火の娘
「だから、最後まで目が合いませんでした」
灯火の娘
「…目が合わないまま、一年が終わりました」
灯火の娘
「…わたしは灯りを消しません」
灯火の娘
「消したら、あなたが帰ってくる場所がなくなるから」
灯火の娘
「…それだけが、わたしの言えない一言でした」
客席が静かだった。水を打ったようにという言い方を、ボクは小説でしか使ったことがなかった。今、初めて本当の意味を知った。
娘は灯りを持ち上げる。客席に背を向けたまま。手の中の小さな灯りをゆっくり、ゆっくり消していく。
座長が何度も止めた。
あの「ゆっくり」で。
躊躇うように。
指が震えるように。
ボクは袖で息を止めていた。
灯りが消えた。
暗闇。
三秒。
四秒。
その暗闇の中で。
桃山さくらが振り返った。
客席に背を向けたまま、台本通り、背を向けたまま、そのまま、顔だけを袖のほうへ向けた。
ボクの方へ。
袖の暗がりに立っている、ボクの方へ。
そして、言った。
「…孝介くん」
客席がざわめいた。
「アドリブ?」
誰かが言った。
前列で、水萌が、はっと息を呑む音が聞こえた。海原みつきの三脚が小さく、がたんと鳴った。
ボクだけがわかった。
あれは役じゃない。
台本に、あの名前はない。
ボクが書いたのは「男」だ。役名すらない。名前のない男に、あの娘は名前を呼んだ。
あの声は灯火の娘のものじゃない。
桃山さくらの声だ。
暗転。
拍手が、爆発した。




