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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
三月
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49/51

第二話

 ボクは小道具と袖の担当だった。開演までの一時間、ボクは舞台袖で灯りの電球を、もう一度確認した。接触は直っていた。テープももう要らなかった。


楽屋の方から水萌(みなも)の声が聞こえてきた。


「お兄!」


振り返ると、水萌(みなも)が花束を抱えて立っていた。百円ショップの袋がまだ手にぶら下がっている。花束は少し傾いていた。


「おめでとう、お兄」


「何が?」


「何がじゃないよ。今日、本番でしょ。お兄の台本でしょ」


「脚本だけど」


「同じでしょ」


水萌(みなも)は花束をボクの胸に押しつけて、それから楽屋の方を顎で指した。


「さくらさん、来てるよ。鏡の前にずっと座ってる」


「そう」


「靴、見た?」


「見たの?」


「見たよ。さくらさん、しばらく動かなかったよ。それから、ちょっと笑った」


ボクは何も言えなかった。


「バカ兄はそこで突っ立ってるだけ?」


「袖の仕事がある」


「バカ兄!」


水萌(みなも)は、そう言って走っていった。ボクは花束を持ったまま、しばらく、楽屋の方を見ていた。


 本番前、ボクは楽屋に顔を出した。桃山さくらは鏡の前に座っていた。衣装はまだ着ていない。赤い靴は鏡台の上に、真っ直ぐに置かれたままだった。


「あの、小道具の確認で」


「…うん」


彼女は振り返った。

声は戻っていた。

少し掠れていたけれど、戻っていた。


「…靴」


「うん」


「…知ってたの」


ボクは頷いた。


「昨年、袖に落ちてた」


「…五か月?」


「うん」


桃山さくらは何も言わなかった。それから、机の上から消しゴムを取って、なにげなく、指でいじり始めた。


落ちた。


ボクが拾って机に置いた。


また、落ちた。


ボクが拾って机に置いた。


三度目は、彼女が手を滑らせたように見えた。


ボクは拾った。


そして、何も言わなかった。


よく落としますねとは言わなかった。一年前、ボクはそれを言った。彼女はその一言を、ずっと覚えている。今、同じことを言ったら、同じ場所に戻ってしまう気がした。ボクは拾って、黙って、机の上に置いた。


桃山さくらはボクの手を見ていた。


それから、俯いて、小さく、息を吐いた。


「…桜田くん」


「はい」


「…出番、終わったら、ちょっといい?」


「はい」


その時、海原みつきが飛び込んできた。


「さくらちゃん! 声、大丈夫? 無理しないでね! あたし、最前列で録画するから。三脚持ってきたから!」


「みつき、三脚はさすがに怒られるよ」


「怒られてから考える!」


海原みつきの後ろから、星野部長がミルクティーを片手にのぞいた。


「よお、桜田。客席、埋まってるぞ。あんたの脚本、評判いいからな。あと、鯨友先生も来てる。一番後ろで、なんか、腕組んでる」


「鯨友先生が?」


「あの人、あれだろ。古文の。名前の話ばっかする」


星野部長はそう言って、笑った。


開演十分前。ボクは袖の定位置についた。客席は思ったより埋まっていた。文芸部の席。水萌(みなも)は最前列の端。星野部長と黒田賢太郎。海原みつきは三脚を抱えて、係の人に注意されていた。一番後ろの列に、鯨友先生の大きな背中。


照明が落ちた。


幕が上がった。


そこから、二時間。


ボクは袖で、自分の書いた芝居を見た。


最初の場面は、村の朝だった。娘が灯りの油を継ぎ足している。海の音。男が荷物をまとめている。二人は目を合わせない。


「…行ってしまうんですね」


桃山さくらの声が袖まで届いた。


ぞくりとした。

三週間前、稽古場で聞いたのと同じ声だ。

いや、違う。

もっと、遠い。

もっと、広い。

市民ホールの客席を、その声がまっすぐに渡っていく。三百人分の空気を押して、渡っていく。


ボクの書いた言葉がボクの手を離れて、会場の全部になっていく。


ボクは台本を握った。握った手が汗で濡れていた。


中盤、男が娘に別れを告げる。

ボクのいちばん削った「ああ」。

黒田賢太郎の「ああ」は三週間前より、ずっと短かった。

短いのに長く響いた。


「…灯りを消しません」


「消してくれ」


「…いやです」


その「…いやです」で客席の誰かが、鼻をすする音がした。ボクは袖で、自分の顔が熱くなるのを感じた。


そして、最後の場面。


男はもういない。

舞台には娘がひとり。

灯りの前に立っている。

客席に、背を向けて。


照明が少しずつ、落ちていく。ボクの書いた、あのモノローグが始まる。


灯火の娘


「…あなたは海の方へ行きました」   


灯火の娘


「…わたしは村の方を見ていました」   


灯火の娘


「だから、最後まで目が合いませんでした」   


灯火の娘


「…目が合わないまま、一年が終わりました」  


灯火の娘


「…わたしは灯りを消しません」   


灯火の娘


「消したら、あなたが帰ってくる場所がなくなるから」


灯火の娘


「…それだけが、わたしの言えない一言でした」


客席が静かだった。水を打ったようにという言い方を、ボクは小説でしか使ったことがなかった。今、初めて本当の意味を知った。


娘は灯りを持ち上げる。客席に背を向けたまま。手の中の小さな灯りをゆっくり、ゆっくり消していく。


座長が何度も止めた。

あの「ゆっくり」で。

躊躇うように。

指が震えるように。


ボクは袖で息を止めていた。


灯りが消えた。


暗闇。

三秒。

四秒。


その暗闇の中で。


桃山さくらが振り返った。


客席に背を向けたまま、台本通り、背を向けたまま、そのまま、顔だけを袖のほうへ向けた。


ボクの方へ。


袖の暗がりに立っている、ボクの方へ。


そして、言った。


「…孝介くん」


客席がざわめいた。


「アドリブ?」


誰かが言った。

前列で、水萌(みなも)が、はっと息を呑む音が聞こえた。海原みつきの三脚が小さく、がたんと鳴った。


ボクだけがわかった。


あれは役じゃない。


台本に、あの名前はない。

ボクが書いたのは「男」だ。役名すらない。名前のない男に、あの娘は名前を呼んだ。


あの声は灯火の娘のものじゃない。


桃山さくらの声だ。


暗転。


拍手が、爆発した。


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