第一話
三月の海は、薄青かった。一年前と同じ色だった。桜のツボミがまだ固いまま、坂の途中の枝に並んでいる。その下を歩くと、海の方から少しだけ暖かい風が来る。二月の鉛色が嘘のように消えている。波は低くて、光を細かく返していた。
一年前、ボクはこの坂を自転車を押して下りていた。あの朝、防波堤の上に制服の女子が立っていた。台本を掲げて一人で稽古をしていた。
「あなたのことが、好きです」
声はまっすぐ海に飛んでいた。ボクは足を止めた。振り返った彼女と目が合って、彼女は台本を胸に抱えて逃げた。ボクはその背中にこう言ったのだ。
「発声、腹式で綺麗ですね」
我ながら酷い。
あれから一年、ボクはその一言を何度も思い出した。
何度思い出しても酷い。
だけど、その一言から、全部が始まった。ボクの一年はあの木の陰にしゃがみこんだ背中から始まっている。
そして、その一年が今日で終わる。
台本は公民館の楽屋にあった。海原みつきと座長と劇団の事務の人があちこちを探してくれた。救急隊の人が外せなかったので、担架と一緒に運ばれ、救急車の中に置き去りにされ、その後に病院の事務所から公民館に戻されたらしい。楽屋の段ボールの底に、他の研究生の台本と一緒に無造作に入っていた。
ボクはそれを机の上で開いた。
開いた瞬間、息が止まった。
余白が真っ黒だった。
いや、黒いのはボクの書き込みだ。
ボクが書いた「間」の秒数。ボクが書いた点線。
ボクが書き写した桃山さくらの息の長さ。
その全てに鉛筆の細い字で書いたボクのものだ。
その、ボクの字の隙間に⋯⋯。
別の字があった。
丸っこくて、少し右上がりの字。
「娘はこの男のことが好きなんだと思う。だから、灯りを消さないんだと思う。好きだと言えない人は灯りを消すことでしか、その人を呼べないから」
「ここは息を吸わない方がいい。吐きながら言った方が痛い」
「灯りは海の方を向いていない。村の方を向いている。この娘は海にいる誰かを待っているんじゃなくて、村にいる誰かを待っている」
「『嫌です』は断っているんじゃない。まだ、いてほしいという意味」
ページをめくる度に彼女の言葉が出てくる。どこまでも、役の気持ちとして書いてある。灯火の娘の心の内として。だから、これは台本のメモだ。役者が自分の役のために書く。ごく普通の役作りのメモだ。
そう読もうとして、ボクは最後のページで止まった。
ラストの独白のページ。ボクが彼女のために書いたモノローグ。その行間の一番下の余白に。
一枚の紙が貼ってあった。
テープで。
四隅を丁寧に。
ボクの字だった。
「好きだ」
昨年の十二月、クリスマスの夜。駅前のイルミネーションの下で、ボクがポケットから出した、脚本の殴り書き。セリフが一つだけ書いてある紙。あの紙がここに貼ってあった。
そして、その紙のすぐ下に。
大きな丸が一つ。
その横に小さく。
「間違い」
ボクはしばらく動けなかった。
あの丸は、十二月の夜、桃山さくらがメモ帳に描いた丸だ。「友達だから」とボクが言った時、彼女が紙に描いて、その横に小さく「間違い」と書いた。
あの丸。
それが、ここにある。
なぜ?
なぜ、彼女はそれを台本に貼ったのか。
演出メモだ⋯⋯これは演出メモだ。この独白は独白じゃない。客席に背を向けて言う言葉だから、宛て先は舞台の外にある。だから、ここには「間違い」がある。ボクの脚本は間違っていた。独白に宛て先を作ってしまった。彼女はそれを指摘しているんだ。
そうだ。そうに決まっている。脚本家として、ボクは間違えた。彼女はそれをわざわざ貼って教えてくれた。優しい人だ。どこまでも優しい人だ。
ボクは台本を閉じてカバンに入れた。
その判断がボクの最後の誤読だった。だけど、その時のボクはそれを知らない。知らないまま、ボクは病院へ向かった。
病院の窓の外にも海があった。二月の鉛色はもう抜けて、少しだけ明るくなっていた。
ボクは台本を桃山さくらの枕元に置いた。
彼女はそれを見て、目を丸くした。それから、両手でそっと抱き上げた。胸に抱えて、しばらく、動かなかった。
メモ帳を取り出す。声はまだ、完全には戻っていなかった。
ありがとう
ボクは頷いた。
あの余白
見ました?
桃山さくらは顔を上げた。
「すいません。脚本家として、直すべきところ、ありがとうございます。独白の宛て先を直します」
桃山さくらはしばらくボクを見ていた。それから、メモ帳に書いた。
直さないで
「え?」
あのままがいい
ボクは首を傾げた。
「でも、宛て先が……」
桃山さくらは首を横に振った。そして、また書いた。
あの独白はあのままでいいの
直したら意味がなくなる
ボクはわからなかった。わからないまま、「わかりました」と言った。
この時のボクはいちばん近くにいた。彼女の言葉はボクの手の中にあった。それでも、ボクは読めなかった。
桃山さくらは二週間、完全に休んだ。学校も、劇団も、全部休んだ。医者は「安静」の一言だけを、二回繰り返した。
その二週間、稽古は続いた。
代役は、海原みつきだった。彼女は研究生だから、当然といえば当然だ。だけど、海原みつきは毎日、稽古の前に、ボクのところへ来て、こう言った。
「桜田くん、さくらちゃんの動き、教えて。わたし、さくらちゃんの真似じゃなくて、灯火の娘をやりたいの。でも、さくらちゃんが作った灯火の娘を壊したくないの」
ボクは台本を開いて説明した。彼女がどこで息を吸って、どこで止まって、どこで目を落とすか。ボクはそれを全部知っていた。知っていたことに自分で驚いた。
海原みつきは頷いて、やってみせた。うまかった。本当にうまかった。声も、間も、立ち位置も、ほとんど同じだった。
それなのに、ボクは袖で聞いていて、わかった。
違う。
声が違う。
同じセリフなのに、同じ秒数なのに、同じ強さなのに。ボクの書いた言葉が海原みつきの口から出ると、どこにも宛てられていない。宛て先のない言葉が真っ直ぐ、客席の誰もいない空間へ落ちていく。
桃山さくらの言葉はいつも、どこかへ向かっていた。宛て先なんてないはずなのに、いつも、誰かに向かっていた。
ボクは袖で一人で、それを聞いていた。そして、初めて、思った。
彼女はずっと、これを一人でやっていたのか。
その夜、家に帰って、ボクは靴箱を開けた。
奥の方に紙に包んだものが、一つ入っている。開くと、赤い靴が出てくる。小さめのヒールの低い舞台用の靴。
昨年の十月、文化祭の後夜祭の後。体育館の袖に、それは残されていた。誰も拾わなかった。ボクが拾って、部室に置いて、家に持って帰って⋯⋯そのまま、五か月。
持ち主はわかっていた。わかっていて返せなかった。返したら、何かが終わってしまう気がして。
「それ、なに?」
水萌が廊下から覗いていた。
「靴」
「見ればわかる。なんで持ってるの?」
「返そうと思ってて」
「五か月?」
「うん」
水萌はため息をついた。それから、ボクの顔をじっと見て言った。
「バカ兄。それ、返す日だよ」
妹はいつも一番短い言葉で一番痛いところを刺してくる。
公演は三月の第一日曜日。
市民ホール。
研究生公演『潮鳴りのわすれもの 改』
朝、ボクはホールの楽屋に着いて、まず、彼女の鏡台の前に赤い靴を置いた。紙を開いて真っ直ぐに並べて。メモは書かなかった。何を書いても、余計な気がしたから。




