第五話
数日後のことだった。稽古の帰り道。バス停「汐見坂下」で、ボクと桃山さくらは同じバスを待っていた。二月の夜。海はもう見えない。暗くて、音だけが聞こえる。鉛色だった海が、夜になると、黒い布みたいになる。
「桃山さん、スマホ」
「えっ」
「落ちてる」
バス停のベンチの下に、彼女のスマホが落ちていた。ボクは拾って、渡した。画面が、一瞬、光った。ロック画面。
ボクは見てしまった。
昨年の秋から、ずっと見てしまったまま忘れていた。
授業中に寝ているボクの横顔。教室の窓際の席で。ボクはそのことを、桃山さくらに言っていなかった。言うタイミングを、ずっと失っていた。
「…ありがとう」
彼女はスマホを受け取って、ポケットにしまった。それだけだった。ボクは何も言わなかった。昨年拾った時に見てしまったこと。ロック画面が寝ているボクだったこと。ずっと胸の奥に、しまってあったこと。
でも、その夜、ボクはつい、言ってしまった。
「あの、桃山さん」
「…うん」
「スマホの、ロック画面」
「…うん」
「あれ、消さなくていいんですか?」
桃山さくらは止まった。
バス停の灯りの下で。
息が白い。
白い息が宙で一瞬止まって、それからゆっくり消えた。
「…見たの」
「え?」
「…あれ、見たの」
ボクは頷いた。
「昨年、拾った時、ごめん、一瞬。授業中に寝てるところなんて、撮られてるとは思わなくて」
桃山さくらは何も言わなかった。ただ、ボクの顔をじっと見ていた。バスのヘッドライトが坂の上から近づいてくる。眩しくて、ボクは目を細めた。
「黒歴史ですよね。消してください。あんなの、撮られてたら恥ずかしい」
桃山さくらは笑わなかった。
「…消さない」
「え?」
「…消さない」
彼女はそれだけ言ってバスに乗った。ボクも乗った。並んで座った。窓の外は黒い海が流れていく。桃山さくらは窓の方を向いたまま、何も言わなかった。ボクは自分の言ったことが何か彼女を傷つけたのかを考えた。考えたけれど、わからなかった。
あれがボクの最後の誤読だった。
ロック画面の写真をボクが見たこと。それをボクが何とも思っていないこと。桃山さくらはその二つを同じ夜に知った。ボクはその意味を知らない。知ろうとしなかった。
通し稽古は二月の最後の土曜日だった。
本番の二週間前。ホールには本番と同じ照明が入った。客席には誰もいない。座長と海原みつきとボクが、真ん中の列に座っている。舞台上には役者、八人。研究生公演は、研究生だけの小さな芝居だ。それでも照明が入ると、がらんとしたホールの空気が変わった。寒さが少し遠のいた。
桃山さくらは最初から出ずっぱりだった。灯火の娘はこの芝居の軸だ。出番のない場面でも、舞台の端で灯りを守っている。
立ちっぱなしで、二時間。
座る場面がほとんどない。
通しは順調だった。海原みつきがときどきメモを取る。座長は腕を組んで、じっと見ている。ボクは台本を膝の上に開いて、桃山さくらのセリフを目で追っていた。
ボクの書いたセリフ。
ボクの書いた間。
それが彼女の口から出る度に、ボクは少しずつ、自分の書いたものが遠くなっていくのを感じていた。
中盤、男が娘に別れを告げる場面。
「…行ってしまうんですね」
「ああ」
「…わたしは、ここにいます」
男は黙り込む。
「…灯りを、消しません」
「消してくれ」
「…嫌です」
その「…嫌です」が、その日はいつもと違った。
声が掠れていた。最初から掠れていた。ボクは気づいていた。この一週間、桃山さくらの声は少しずつ掠れていった。風邪かなと思っていた。二月だしと思っていた。海原みつきがのど飴を渡していた。黒田賢太郎が「無理するな」と一度だけ言っていた。桃山さくらは毎回、「大丈夫」と答えていた。
ボクはその「大丈夫」を信じていた。役者が大丈夫と言うなら、大丈夫なんだと。だって彼女は、うまい役者だから。大丈夫じゃない時でも、大丈夫に見せられる人だから。
ボクはそこでも間違えていた。
最後の場面。
灯火の娘が男を見送る。
男はもういない。
舞台の上手から下手へ。
娘は一人で灯りの前に立っている。
客席に背を向けて。
「…行ってしまうんですね」
相手役のいないセリフ。
桃山さくらはそれでも一拍置いた。
ボクが書いた、二秒の間。
息を吸って。
それから言う。
「…わたしは、ここにいます」
その声が途中で途切れた。
ボクは顔を上げた。舞台上で、桃山さくらの体が傾いでいた。灯りを持った右手が、ゆっくり下がっていく。膝が折れる。ゆっくり、ゆっくり。まるで稽古で何度も直された、あの「ゆっくり」みたいに。彼女は、倒れた。
「桃山さん!」
ボクは立ち上がっていた。パイプ椅子が倒れる音。海原みつきの悲鳴。座長の「救急車!」という声。舞台上で役者たちが駆け寄る。照明が一瞬白く振り切れて、それから全部、止まった。
ボクは舞台に上がった。人垣の隙間から、桃山さくらが見えた。仰向けに倒れている。顔は白い。眩が閉じている。息はしている。しているけれど、浅い。
それでも、彼女の右手は離していなかった。
台本を。
あのボロボロの書き込みだらけの台本を。倒れる瞬間に落としてもおかしくない。手を開いてもおかしくない。なのに彼女はそれを胸の上で抱えていた。守るみたいに。まるで、それが彼女の体の一部みたいに。
ボクはその手を見て、動けなくなった。
「桜田くん、どいて!」
海原みつきがボクを押しのけた。救急隊の人が来た。担架が来た。桃山さくらは運ばれていく。台本は彼女の胸の上にあった。救急隊の人が外そうとして、外せなくて、そのまま運んだ。誰も、止めなかった。
救急車のサイレンが公民館の駐車場で鳴り始めた。二月の夜。鉛色だった海が、もう見えない。真っ暗でサイレンの赤い光だけが、ホールの壁に回っていた。
ボクはホールに一人、残された。パイプ椅子が一つ、倒れている。舞台上の灯りは、まだついていた。誰も消さなかった。それは、灯火の娘が守っていた灯りだった。彼女がいなくなった舞台に、まだ、灯りだけが残っていた。
次の日、ボクは海原みつきと病院に行った。
診断は過労だった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
喉にも、心臓にも、どこにも異常はない。ただ、体が限界を超えていた。先生は「安静」と言った。「二週間は、ちゃんと寝かせてください」
二週間。
本番までちょうど、二週間。
ボクは病室のドアの前に立った。海原みつきが「入る?」と聞いた。ボクは「先に」と言った。海原みつきが入っていった。しばらくして出てきて、「入ってあげて」と言った。
病室は静かだった。窓の外に、海が見える。二月の、鉛色の海。ベッドの上で、桃山さくらは起きていた。白い寝巻きで。ボクが入ると、彼女は少し笑った。声は、まだ出ない。出ないかわりに、枕元のメモ帳に何か書いた。
来てくれたんだ
ボクは頷いた。
「うん」
桃山さくらはまた何か書いた。
台本、どこ
「え?」
私の台本
あれがないと稽古できない
ボクは答えられなかった。台本はあの夜、彼女と一緒に運ばれた。救急隊の人が外そうとして、外せなかった。今どこにあるのか、ボクは知らなかった。
「探す。必ず見つけて、持ってくる」
桃山さくらは頷いた。それから、またメモ帳に書いた。今度は長かった。
公演 二週間後
私出るから
出られなかったら
あの台本は燃やして」
ボクは首を横に振った。
「燃やさない」
じゃあ、持ってきて
「うん」
ボクは病室を出た。廊下で、海原みつきが待っていた。彼女は何か言いたそうだった。言わなかった。ただ、ボクの手のひらを見て、それから顔を上げた。
「桜田くん」
「ん?」
「台本、あれ、さくらちゃんの宝物だから。絶対に見つけて」
「うん」
ボクは病院を出た。外は、まだ雪になっていなかった。空が、海と同じ、鉛色をしていた。もうすぐ雪が降る。降る前の、この重たい空。ボクは自転車に乗って、公民館へ向かった。台本を探しに。あの、彼女が倒れる最後の最後まで離さなかった台本を。
そして、その台本の余白に何が書かれているのかを、ボクはまだ知らない。
「赤い靴」の下に。
あの紙の丸の下に。彼女が何を書き、何を書かずに残したのかを。
公演まで、二週間。
病室のベッドの上で、桃山さくらは、台本ごろ、台本の余白を指でなぞっている。そうだ。ボクはそう思う。思うことしかできない。ボクはまだ、台本を見つけてすらいない。だけど、彼女の指がなぞっている、その行の先に、ボクの知らない一行があることだけはわかっていた。




