第四話
稽古の合間に、黒田賢太郎がボクの隣に来て、缶コーヒーを差し出した。黒田賢太郎は三年生で、劇団の研究生の中では一番古い。桃山さくらの稽古相手も、最初は彼だった。並ぶと絵になる。背が高くて、顔が整っていて、声が低い。ボクが「お二人、似合いますね」と口を滑らせたのは、昨年の五月だった。
「桜田」
「はい」
「お前さ、演出家と脚本家の違いはわかってるか?」
「なんとなく」
「なんとなくでいい」
黒田賢太郎はコーヒーを一口飲んで、舞台の方を見た。
桃山さくらが袖で台本を開いている。
「演出家は役者に恋をするな。でも、脚本家は恋した方がいい」
「それは?」
「俺の持論だ。忘れていい」
そう言って、黒田賢太郎はまた缶コーヒーを飲んだ。
それきり何も言わなかった。ボクはその言葉がなぜか喉に引っかかって、その日、家に帰っても抜けなかった。
演出家は役者に恋をするな。でも、脚本家は恋した方がいい。
ボクは自分がどっちなのか、わからなかった。
おそらく、どっちでもない。脚本を書いて、演出を見習っている中途半端な高校生だ。役者の下にいるというには、ボクはまだ何も削れていない。削るどころか、桃山さくらのところだけ余白を真っ黒にしている。
その、稽古の終わりだった。
最後の場面。灯火の娘が男に背を向けて、灯りを消す。その「消す」瞬間の所作を座長が何度も止めた。
「もっと、ゆっくり。躊躇うんだ。消したいのに、消せない。その指の震えがこの芝居の全部だ」
桃山さくらは何度やっても、座長の納得する「ゆっくり」が出なかった。
彼女はうまい役者だ。
だから、うまくやろうとする。
その「うまさ」がこの場面では邪魔をしていた。
震えるはずの指が震えない。躊躇うはずの手が迷わずに灯りへ伸びる。
座長は少し考えて、ボクの方を見た。
「桜田くん。君、書いた人間だろ。ちょっと、手を貸してやってくれ」
「え?」
「手を取って、動かしてやってくれ。君の中にこの場面の時間があるはずだ」
ボクは固まった。
桃山さくらも固まっていた。舞台の真ん中でボクたちはしばらく動けなかった。
座長はそれきり客席に戻って、パイプ椅子に腰を下ろした。
海原みつきが遠くで、なぜか両手で顔を覆っていた。
「桃山さん」
「…うん」
「手いいですか?」
「…うん」
彼女は右手をボクの方に差し出した。手のひらを上に向けて。まるで、何かを受け取るみたいに。ボクはその手を両手で包んだ。冷たい。やっぱり冷たい。
この人は、いつもどこかに海の温度を持っている。
「あの、灯りを持つ時は、こう、上からじゃなくて」
ボクは彼女の手をそっと灯りの方へ動かした。
「下から支えるみたいに。ゆっくり。そう、その⋯⋯途中で一回、止まって」
「…止まる」
「うん。止まって、息を吸って。それから、また動かす」
彼女の手がボクの手の中で止まった。
息を吸うのがわかる。
肩がわずかに上がる。
ボクが台本に書いた。
あの二秒の間。
彼女はその通りに間を取った。ボクが書いた通りに。
「それで、いいです」
「…うん」
ボクは手を離した。離した後で、自分の手のひらが熱いのに気づいた。桃山さくらの手は冷たかった。なのに、ボクの手は熱い。わけがわからなかった。風邪かもしれないと思った。二月だから。
これはボクが今回で一番間違えた判断だった。
彼女はボクに手を取らせた。自分から差し出した。それは役のためだった。芝居のためだった。灯火の娘の指の震えのために。ボクがその手を離した時、彼女がどんな顔をしていたか。ボクは見ていない。見ようとしなかった。見たら、きっと、演技だと思えなくなるから。
「はい、じゃあ、もう一回、通して」
座長の声で稽古は再開した。桃山さくらはボクに背を向けて、灯りの方へ歩いていく。今度はその手がちゃんと震えていた。座長は頷いていた。海原みつきはなぜか、目を真っ赤にしていた。
その夜、ボクは部室に寄った。部室にはあの感想ノートが置いてある。昨年の四月から、ボクの小説の習作を置く度に、誰かが感想を書き込んでいくノート。最初は「三ページ目の、朝の描写が好きです」という一行だった。それが、いつのまにかびっしりと埋まっていた。ボクはそれを読者の感想だと思っていた。名前は書いていなかったから。
その日、ボクは部室の机の上に見覚えのない紙が一枚、置いてあるのに気づいた。研究生公演の配役表だった。役名と役者の名前が印刷されている。
灯火の娘、桃山さくら。
男、黒田賢太郎。
その下に、手書きで何かが書き足されていた。海原みつきが走り書きした稽古のメモだ。
「灯火の娘の最後の間、二秒。息は吸わずに吐く。座長の指示」
その文字を見て、ボクははっとした。
字がそっくりだった。
感想ノートの丸っこい字と同じだった。はね、はらい、行の詰まり方、全部。同じ人が書いていた。
ボクは感想ノートを開いた。最後のページ。昨年の十一月のボクの習作に対する感想。
「この小説のヒロインはずっと誰かの後ろを歩いています。並べないから。隣になれないから。だから後ろから、その人の背中を見ている。それだけの一年を書いてくれて、ありがとう。私も同じです」
ボクはその一文を何度も読んだ。
「私も同じです」
誰のことを言っているんだろう。
いや、これは感想だ。
読者の感想だ。
小説のヒロインに共感しただけだ。
誰かが誰かの後ろを歩いている。
その誰かが誰かはわからない。
わかるはずがない。
ボクはそう自分に言い聞かせて、ノートを閉じた。
閉じたけれど、家に帰ってからも、あの字を思い出していた。丸っこくて、少し右上がりの字。どこかで見た。いや、毎日見ている。桃山さくらが板書を写す時の字。




