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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
二月
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46/51

第四話

 稽古の合間に、黒田賢太郎がボクの隣に来て、缶コーヒーを差し出した。黒田賢太郎は三年生で、劇団の研究生の中では一番古い。桃山さくらの稽古相手も、最初は彼だった。並ぶと絵になる。背が高くて、顔が整っていて、声が低い。ボクが「お二人、似合いますね」と口を滑らせたのは、昨年の五月だった。


「桜田」


「はい」


「お前さ、演出家と脚本家の違いはわかってるか?」


「なんとなく」


「なんとなくでいい」


黒田賢太郎はコーヒーを一口飲んで、舞台の方を見た。

桃山さくらが袖で台本を開いている。


「演出家は役者に恋をするな。でも、脚本家は恋した方がいい」


「それは?」


「俺の持論だ。忘れていい」


そう言って、黒田賢太郎はまた缶コーヒーを飲んだ。

それきり何も言わなかった。ボクはその言葉がなぜか喉に引っかかって、その日、家に帰っても抜けなかった。


演出家は役者に恋をするな。でも、脚本家は恋した方がいい。


ボクは自分がどっちなのか、わからなかった。

おそらく、どっちでもない。脚本を書いて、演出を見習っている中途半端な高校生だ。役者の下にいるというには、ボクはまだ何も削れていない。削るどころか、桃山さくらのところだけ余白を真っ黒にしている。


その、稽古の終わりだった。


最後の場面。灯火の娘が男に背を向けて、灯りを消す。その「消す」瞬間の所作を座長が何度も止めた。


「もっと、ゆっくり。躊躇うんだ。消したいのに、消せない。その指の震えがこの芝居の全部だ」


桃山さくらは何度やっても、座長の納得する「ゆっくり」が出なかった。

彼女はうまい役者だ。

だから、うまくやろうとする。

その「うまさ」がこの場面では邪魔をしていた。

震えるはずの指が震えない。躊躇うはずの手が迷わずに灯りへ伸びる。


座長は少し考えて、ボクの方を見た。


「桜田くん。君、書いた人間だろ。ちょっと、手を貸してやってくれ」


「え?」


「手を取って、動かしてやってくれ。君の中にこの場面の時間があるはずだ」


ボクは固まった。

桃山さくらも固まっていた。舞台の真ん中でボクたちはしばらく動けなかった。

座長はそれきり客席に戻って、パイプ椅子に腰を下ろした。

海原みつきが遠くで、なぜか両手で顔を覆っていた。


「桃山さん」


「…うん」


「手いいですか?」


「…うん」


彼女は右手をボクの方に差し出した。手のひらを上に向けて。まるで、何かを受け取るみたいに。ボクはその手を両手で包んだ。冷たい。やっぱり冷たい。

この人は、いつもどこかに海の温度を持っている。


「あの、灯りを持つ時は、こう、上からじゃなくて」


ボクは彼女の手をそっと灯りの方へ動かした。


「下から支えるみたいに。ゆっくり。そう、その⋯⋯途中で一回、止まって」


「…止まる」


「うん。止まって、息を吸って。それから、また動かす」


彼女の手がボクの手の中で止まった。

息を吸うのがわかる。

肩がわずかに上がる。

ボクが台本に書いた。


あの二秒の間。


彼女はその通りに間を取った。ボクが書いた通りに。


「それで、いいです」


「…うん」


ボクは手を離した。離した後で、自分の手のひらが熱いのに気づいた。桃山さくらの手は冷たかった。なのに、ボクの手は熱い。わけがわからなかった。風邪かもしれないと思った。二月だから。


これはボクが今回で一番間違えた判断だった。


彼女はボクに手を取らせた。自分から差し出した。それは役のためだった。芝居のためだった。灯火の娘の指の震えのために。ボクがその手を離した時、彼女がどんな顔をしていたか。ボクは見ていない。見ようとしなかった。見たら、きっと、演技だと思えなくなるから。


「はい、じゃあ、もう一回、通して」


座長の声で稽古は再開した。桃山さくらはボクに背を向けて、灯りの方へ歩いていく。今度はその手がちゃんと震えていた。座長は頷いていた。海原みつきはなぜか、目を真っ赤にしていた。


 その夜、ボクは部室に寄った。部室にはあの感想ノートが置いてある。昨年の四月から、ボクの小説の習作を置く度に、誰かが感想を書き込んでいくノート。最初は「三ページ目の、朝の描写が好きです」という一行だった。それが、いつのまにかびっしりと埋まっていた。ボクはそれを読者の感想だと思っていた。名前は書いていなかったから。


その日、ボクは部室の机の上に見覚えのない紙が一枚、置いてあるのに気づいた。研究生公演の配役表だった。役名と役者の名前が印刷されている。


灯火の娘、桃山さくら。

男、黒田賢太郎。


その下に、手書きで何かが書き足されていた。海原みつきが走り書きした稽古のメモだ。


「灯火の娘の最後の間、二秒。息は吸わずに吐く。座長の指示」


その文字を見て、ボクははっとした。


字がそっくりだった。


感想ノートの丸っこい字と同じだった。はね、はらい、行の詰まり方、全部。同じ人が書いていた。


ボクは感想ノートを開いた。最後のページ。昨年の十一月のボクの習作に対する感想。


「この小説のヒロインはずっと誰かの後ろを歩いています。並べないから。隣になれないから。だから後ろから、その人の背中を見ている。それだけの一年を書いてくれて、ありがとう。私も同じです」


ボクはその一文を何度も読んだ。


「私も同じです」


誰のことを言っているんだろう。


いや、これは感想だ。

読者の感想だ。

小説のヒロインに共感しただけだ。

誰かが誰かの後ろを歩いている。

その誰かが誰かはわからない。

わかるはずがない。

ボクはそう自分に言い聞かせて、ノートを閉じた。


閉じたけれど、家に帰ってからも、あの字を思い出していた。丸っこくて、少し右上がりの字。どこかで見た。いや、毎日見ている。桃山さくらが板書を写す時の字。


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