エピローグ
四月の海は、一年前と同じ薄青をしていた。
水平線のすぐ手前に、桜の色が薄っぺらく浮かんでいて、それが波の照りなのか、本当に流れてきた花びらなのかは眺めているうちにわからなくなる。
防波堤の下で波は今日も穏やかに崩れて、潮の匂いは変わらないのに、風が運んでくるものだけが少しだけ新しい。
坂の途中から見下ろせば、海はただ広くて、一年前のボクはこの音に負けて、そこで足を止めてしまった。今年のボクは止まらずに下りきる。
ボクは三年になった。文芸部には一年生の二人の新入部員が入った。一人は「昨年の朗読劇が伝説だと聞きました」と言い、もう一人は「ポスターのコピーが壊滅的だと聞きました」と言った。
どちらが本当の目的なのかは訊かないことにした。部室の窓からは海が半分見える。黒板には新しい企画の案が並んで、奥の棚には感想ノートがまだ続いている形で置いてあった。廃部という二文字を書く人はもういなくなった。
ボクたちは三年生になった。桃山さくらと海原みつきと同じクラスになった。担任は昨年と同じく、古文の鯨友先生だった。
そして、出席番号順でも、クジでもないのに、隣の席には桃山さくらが座っていた。ボクたちは顔を見合わせて、それを奇跡と呼ぶことにした。席順の紙を配り終えた鯨友先生が通りすがりにボクの肩をポンと叩いた。
「席順は潮の満ち満ちに従うと決めてるんだ。文句があるんなら、海に言え」
そして、わざとらしく声を落として、こう付け足した。
「海の見える学校に鯨がいる。世の中はそういう名前の話でできている」
昨年のクラスで席替えがなかったのも、今年も隣の席になったのも、この男の思惑だろう。
いったい何を考えているのかはわかからないが⋯⋯おそらく今年も席替えはないのだろう。
先生が去った後、隣で彼女が小さく笑った。その仕草も昨年と同じで、肩下で結んだ髪の先が少しだけ揺れた。ボクはカバンの中のノートのありかを確かめた。
昼休み、彼女の消しゴムがまた机の縁から落ちた。拾って渡すと彼女は困った顔で言った。
「…数えるのはやめたの」
「三回で区切りをつけた方がいい?」
「…それ、昨年も言いました」
昨年のボクが本当に言ったのかどうかはわからない。だけど、耳まで赤いのは昨年もきっと同じだった。彼女は受け取った消しゴムを机の真ん中の落ちない場所に置き直した。
ノートの新しいページには、昨日の日付から書いてある。
「四月七日。防波堤。さくらが『返事する』と言った」
この会話メモは、他人の言葉しか書かない。後で小説に使うためでもあるし、書きたくなった感想も言いそびれた言い訳も全部消す。それがこのノートのルールだった。ページを捲れば一年分の誰かの言葉が並んでいる。だから、今日のページも他人の言葉だけで埋まっていく。
朝の水萌は味噌汁をよそいながら宣言した。
「今日、返事の日でしょ。夕飯はお祝いカレーね」
「もし断られたら?」
「お悔やみカレー。同じカレーでいいの、鍋は一つで済むから」
「お前の用途で変わるんだな」
「バカ兄。今日はこっそり応援するから」
昼前には卒業した星野はるかからメッセージが届いた。
全文、二行だった。
【ライントーク画面】
倒れるなよ 12:36
それと名前 12:37
――※――※――※――
「名前」の意味を考えるのに、昼休みの半分を使った。
昼休みの終わり、海原みつきは桃山さくらの腕を引いて教室から連れ出し、それから一人で戻ってきて、ボクに向かって両手を合わせた。
「今日、よろしくです! 私は何も知りませんし、見てもいませんから」
「うん」
「遠くから」
「見るんかい!」
彼女は右手を少しだけ上げて、二本の指を立てた。
「双眼鏡は借り物です」
放課後、ボクたちは防波堤に向かった。校門から坂を下ると磯の匂いが濃くなる。
昨年もこの坂を自転車を押して下った。
バス停「汐見坂下」の前を通りすぎると、彼女が小さくあっと言った。昨年のボクたちは、ここで波を待った。
防波堤の上に彼女は立った。
同じ場所。
同じ制服。
同じ姿勢。
ただ、手には何もなかった。
台本も。
ペンも。
付箋も。
海風が彼女の髪を撫でていったけれど、結び目はほどけなかった。今日は走っていないから。その代わり、ボクはカバンから一つの箱を取り出した。
中身は赤い靴。
文化祭の後、袖に残されたままだった彼女の小道具。
「赤い靴。返すね」
彼女はそれを受け取ると、その場にしゃがんで、靴を履き替えた。
「なんで、履き替えるの?」
「…今日は私の本番だから」
昨年、この場所で彼女は台本を持って好きですというセリフを海に飛ばしていた。
あのセリフの宛先をボクは今なら知っている。
今日は台本がない。
海に向かって彼女は深く息を吸った。
腹式で、綺麗に。
「…『友達だから』という言葉は間違いです」
客席も舞台袖も照明もない。海だけの劇場で彼女は返事を言った。でも、その中心に置かれた一番大事な一言は波の音に混ざって、ボクの耳までは届かなかった。
一年前、ボクは足を止めたまま、訊き返すことができなかった。今日のボクにはできる。
「もう一回、言って」
彼女は笑った。泣きそうなのを我慢する、いつもの癖で少しだけ眉を下げてから、もう一度、同じ言葉をくれた。
二回目の返事は波の音より、少しだけ大きかった。
それで十分だった。ボクが頷くと、彼女は声を少しだけ潜めて言った。
「…三回目はもっと近くで言います」
「そこ、台本にないね」
「…ここには台本がないの」
帰り道。春の風が制服の袖を少しだけ膨らませた。ボクの袖は今日も少し余っている。彼女は赤い靴のまま、上り坂で笑った。
「…練習じゃ、嫌ですね」
「あれは本番だよ」
「…次は二人で書きましょう」
彼女への返事の代わりに、ボクたちは約束を一つ増やして、バス停で手を振った。
ポケットの中でスマホが鳴った。海原みつきからだった。
【ライントーク画面】
録画、完璧でした 15:43
明日、部室で上映します 15:44
――※――※――※――
夕方、星野はるかに返信した。
【ライントーク画面】
既読 名前、つけたよ
17:52
やっと 17:52
――※――※――※――
部室には書きかけの脚本がある。新しい朗読劇の台本は、まだ書き出しの一行しかない。そのヒロインの名前の欄には、もう名前がある。
名前のある人は台本の中で確かに存在する。
夜、ボクはノートを開いた。今日の他人の言葉たちの後に、一文字分の余白を置いた。ページのどこかに、一年前の付箋の言葉も、筆談の「間違い」も全部残っている。その続きに初めて誰の言葉でもない自分の言葉を書いた。
桃山さくらが好きだ
書いて、すぐには消さなかった。波の音は昨年と同じだった。違ったのは訊き返せるようになったボクの方だ。
その日、彼女は防波堤の階段を一段、下りて、振り返った。
【完】




