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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
四月
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第四話

 放課後、ボクが表紙の白いノートを棚に置いていると、廊下から足音が近づいて、止まった。


ノックまで十秒ほどあった。その十秒の間に、帰る人も来る。でも、帰らなかった。


「どうぞ」


ドアが開いた。

桃山さくらだった。


「…部室を見てもいいですか?」


「いいよと部長が言うと思う」


「いいよ」


窓枠から星野部長が言った。定位置に新しいミルクティーがあった。


桃山さくらは部室の真ん中に立って、一周した。舞台の空間を足で測るみたいに。


元視聴覚室の背の高い窓。

壁の吸い殻の跡の残る棚。

古いプロジェクターの動かなくなった台。


窓際まで来て、彼女は窓を開けた。


潮の匂いが入った。

海が半分。

防波堤が窓の四角の中に斜めに収まっていた。

窓の下の桜並木の、まだ散り残っている枝の先に、夕方の光が乗っていた。

海は朝と同じ薄い青だった。花びらは水面のところどころに浮かんで、波が来るたびに回っていた。

夕方の波はゆっくりだった。桜色がゆっくり回る。

散ってしまった花びらは海の方がもっと長く咲かせていた。


「桃山さんは海が好きなんですか?」


「…好きです」


「飼ってるの?」


「…飼えません」


「そうですか?」


「…海は飼うものじゃなくて、向かい合うものなので」


本に読み方があるように、海にも向かい方があるらしい。ボクは海を十六年、『眺めるもの』として扱ってきたが、彼女は『向かい合うもの』としていた。素材の取り扱い説明書を間違えていたのかもしれない。


「ここ、書くには最高なんだよ。窓を開けると潮の匂いが入る。海が半分見える。波の音が文章の感覚を変えるんだ。ここで書くと、書いたものがちょっとだけ、潮の匂いになる気がする」


「…知ってる」


桃山さくらは笑った。


窓の外を見たままの、一言だった。


知ってる。


波の動きも。

花びらの溜まり方も。

防波堤の風向きも。


全部知っているという言い方だった。


えっと思った。


初めて来たはずの人が知っているはずの⋯⋯


「知ってる?」


「…初めて来たけど」


彼女は綺麗に付け足した。


間が完璧だった。

息の吸い方から声の位置まで、一枚の紙に書いてあるみたいに滑らかだった。

朝の防波堤であんな声が出る人は日常の言葉まで上手なのだ。ボクはいったん納得した。


ただ、後から考えると、一つだけ、ずれていた付け足す前の「知ってる」には遠慮がなかった。付け足した「初めて来たけど」の方がよほど整っていた。どちらが素なのか、順番が逆に思えて、ボクはその点を会話メモには写さなかった。

他人の言葉は写せても、他人の間はまだ材料にできない。


「ぶっ!」


窓枠の方で音がした。


星野部長がミルクティーを吹き出していた。紙コップを握ったまま、窓の外を向いて肩を震わせている。


「部長さん、大丈夫ですか?」


「風邪。喉が」


「海風は喉に来ますから」


「そうね」


星野部長はストローの先をそのまま齧った。


ボクは棚の上のノートを紹介した。


「感想ノートです。誰でも書けます。付箋を貼ってくれた人もよかったら。名前は書かなくていいので」


桃山さくらは白い表紙をまっすぐ見つめていた。あんな見つめ方をするのは新刊の封を切る前の本か、自分の名前を呼ばれた初めての舞台くらいだ。


「…誰でも?」


「誰でもです」


「…書きたくなる人がいるといいですね」


彼女は窓の方を向いた。海がまだ半分、そこにあった。


帰り際、彼女は部室の入り口で振り返って、一応の礼を言った。


「…部室、ありがとうございました。また、来てもいいですか?」


「感想ノート、ありますから」


「…ええ」


ドアが閉まってから部長が言った。


「あの子、来週も来るぞ」


「どうしてわかるんですか?」


「わかる。というより、来させる。演出助手にするからだ」


「え?」


ボクはまだ、そこまでの話だと思っていた。


 感想が来るまでの一週間は待つ作業だった。

月曜の放課後、部室のノートを開く。

火曜も開く。

水曜は忘れた。

木曜、開いたら、ノートに一行、増えていた。


『続きが読みたいです。潮鳴りのわすれもの、楽しみにしてます』


誰の字か、ボクにはわからなかった。この町にはボクの文章を読んでくれる人が二人いるらしい。


星野部長と付箋の人。


書く人間に読者がいるというのは、こういうことなのかと思った。それからボクは、脚本の一行目より先に、その人のために、二行目を書いた。


翌週の月曜、ノートには新しい付箋が増えていた。


『二行目の「波が来るまで、誰も口を開かない」。この一文、朗読劇でも使えますか』


使えます。

というより、そのために書きました。そう返事を書こうとして、やめた。返事の代わりに、ボクは三行目を書いた。この文通はどうやら、返信より先に続きを求めるゲームらしい。


こうして一週間が過ぎた。脚本は一行目と二行目と三行目がなんとか降りてきた。十行目から先はまだ、海の方にいる。


そんな風に、教室での桃山さくらとの会話は少しずつ増えていった。


ある昼休み、思い出したようにボクは訊いた。


「朝のあれ。発声の練習って、毎朝やってるんですか?」


桃山さくらはお弁当の海苔を巻く手を止めた。


「…なんで、その話が?」


「この学校、海沿いですから。声を大きく出すなら、あの防波堤が一番です。ただ、波の大きい朝は聞こえにくいけど」


桃山さくらは恥ずかしそうに俯く。


「あ。すみません。他人の練習を見てたってことになりますね。変な人だと思いましたよね」


「…思いました」


即答だった。即答の後、彼女はふっと笑って、付け足した。


「…でも、あそこが一番いい場所なのは本当です」


「ええ。波の音に負けない声を鍛えるなら、負けそうな場所で練習するのが、理にかなってます」


「…負けないように毎朝やってます」


「朝はえらく負けてました」


「…ぐぅ。あれは、波が濃かったんです」


濃い。

波が。

ボクは新しい比喩を会話メモに写した。


別の休み時間、今度は向こうから切り出された。


「…桜田さんって、いつも人の言葉を書いてますよね」


「観察してるんだ」


「…誰を?」


「みんなです。他人の言葉は後で小説の材料になるんです。自分の言葉はまだ一行も書いたことがない」


「…なんで?」


「書いたことがないから」


堂々巡りの答えだった。

彼女はふっと笑った。


「…ふしぎな人」


「書く人は、みんなそうですよ」


「…みんなって、何人知ってるんですか」


「一人です」


「…その一人で『みんな』というのは乱暴だと思います」


論理的だった。

ボクは会話メモに新しい行を足した。


翌日も質問が来た。


「…脚本って、主人公の名前は最後に決めるものなんですか?」


「人によるんですけど、ボクは最初に決めます」


「…名前から書くんですか?」


「名前から降りてくる感じです」


「…降りてくるの?」


彼女は真面目に心の中でメモを取る顔をした。主人公の名前が降りてくる話を真面目に受ける人だった。


「…演出助手って、なんなんでしょうね」


「支える人らしいです。脚本を書く人は字面しか見なくなるそうなので」


「…そうなんですか?」


彼女はなぜか、そこで少しだけ、口を開いたまま固まった。再起動まで三秒くらいかかった。


そして、星野部長が動いた。


「桜田。チョーク」


「え?」


星野部長は窓枠から降りて、部室の黒板の前に立った。背の低い、小学校以来の緑の黒板。彼女はチョークを握った。白い粉の匂いが、夕方の部室に立った。


隣で桃山さくらが小さく息を止めたのが聞こえた。


「文化祭。文芸部は朗読劇をやる。正式決定だ」


チョークが鳴った。一筆、二筆。星野部長の字は立っていて、誰にも譲らない字だった。


「タイトルはもう決めてある。異論は脚本家が書いてから聞いてやる」


チョークが最後の一字を強く押し込んだ。


星野部長はそれを見て、満足げにではなく、やることをやったという顔をしてチョークを置いた。


「桃山さん。なんだか急に、緊張してきた」


「…私も」


「あなたがですか?」


「…私がです」


じゃあ、誰が緊張しないんだと思ったが、声にはしなかった。緊張の配分というのは、本人にしか決められない。


黒板の半分を占める、その文字をボクたち三人はしばらく黙って見ていた。


文化祭 朗読劇

「潮鳴りのわすれもの」

脚本 桜田孝介

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