第三話
帰り支度をしている時、星野部長は最後に壁の棚を指差した。棚の隅に古い痕跡がある。吸い殻の跡だ。ボクたちの前の使用者が残して、ボクたちは誰も触らない。
「この学校は禁煙なんだよ。だから、あたしは代わりにこれを飲む」
「飲みすぎると歯に悪いですよ」
「あんた。今、台本の材料にしたろ」
「素材としては取っておきました」
「さて、帰るか」
星野部長は空になった紙コップを屑籠へ綺麗な弧を描いて投げ入れた。
入った!
「あれも台本に使えるのか?」
「入れる人間の性格が書けると、使えるんじゃないっすか」
帰り道、カバンが妙に軽かった。
家では夕飯を作るのがボクの当番だった。
玉ねぎ。
豚肉。
味噌。
海の見える町のスーパーは、夕方になると魚の匂いが強くなる。
「バカ兄。味、薄い」
妹の水萌が味噌汁を一口飲んで、即座に評した。中学二年は評論家になる時期らしい。
「薄くはない。素材の味が立ってるだけ」
「それ、ネットで見たやつだ」
「並べ替えて使ったんで」
「借りた言葉でごまかすところが、バカ兄!」
ボクは味噌を足した。
「書く人って、いいわねえ」
母が言った。
「なんで?」
「世界を二つ持ってるんでしょ」
「一つは貧乏だよ。原稿用紙代で」
母が笑って、父が新聞を折った。
「お兄、なんかあるんでしょ。今日、上機嫌」
「そうか?」
「机でニヤけながらノート書いてたもん」
観察眼だけは実の妹だ。
ボクは黙って味噌汁を飲んだ。素材の味が立っていた。
「お兄、今度、本になるやつ書きなよ」
「書いてる。今のも、いつか本になる予定」
「予定ね」
妹は予定を台風並みに信用しない。それでも、素直に嬉しかった。
「てか、学校帰りのバス停で見かけたよ、お兄」
「どこを?」
「バス停に立ってる女の人のカバンからノートがはみ出てた」
水萌は味噌汁を飲み干して、それきり何も言わなかった。ボクの机の上に、ノートは明日見付かるかもしれない。見付からないかもしれない。どちらでもいいと思った。世の中には一度きりしか通らない縁もある。
それもよくあることだ。
夜、部屋で脚本ノートを探した。見付からなかった。
机の引出し。
カバンの底。
玄関の棚。
どこにもなかった。
「明日、でてきたら、でてきたってことで」
そういうことにして、寝た。
翌朝、ボクの机の上に、一冊のノートが置いてあった。
ボクの脚本ノートだ。小説の習作を書き溜めているやつ。昨日、昼休みに教室の机で書いて、最終ホームルームの後に片付けそこねたやつ。
机に置いてきたのか⋯⋯ボク。
表紙を開いた。
ページの間から桜色の付箋が一枚はみ出していた。
三ページ目。
付箋の下の余白に鉛筆でこうあった。
三ページ目、朝の描写が好き
三ページ目の朝の描写というのは、こうだ。
朝の海はまだ誰にも書かれていない原稿用紙だった。白い。白すぎて、ここに何を書いても、世界で最初の一文になってしまう
その下に小説の続きが書いてある。昨日のボクが、なんの躊躇もなく書いた、習作の習作だ。
付箋の字は細くて真っ直ぐだった。鉛筆の芯がほとんど減っていない。書くのに迷ったより読むのに時間がかかった字だ。
読者がいる。
文章を書くというのは無償の紙飛行機を飛ばす商売だ。どこに落ちるかも、誰が拾うかも、書いた側には決められない。それが桜色の付箋として、逆向きに飛んできた。
付箋の人はこの町に少なくとも一人いる。
ボクはその言葉を四回くらい繰り返した。
作文を書いた日の夜、母に褒められた日の夜。
あのへんの感覚に、近かった。
ちょっと目が熱い。
付箋を持ち上げて、貼る位置を確認した。三ページ目のちょうど上端。表紙に貼るなら読み終わりの印だ。三ページ目というのは、まだ読んでいる途中の位置。つまり、この人はボクのノートを読みながら途中で貼った。
教室を見回した。
まだ、誰も来ていない。
いや、来ていた。
自分の席にもう一人。
朝の光の中で前を向いて、教科書を開いている。
桃山さくらだ。
ボクは付箋を掲げて、教室全体にほんの少し声をかけた。
「この付箋を貼ったの。誰?」
教室は静かだった。
誰も手を上げなかった。
誰もボクを見なかった。
皆、一斉にそれぞれの朝の作業に戻った。
「そっか」
ボクは座った。
隣の席の規則正しく捲れるページの音が一番落ち着いた音だった。
いけないと思いながらも訊いた。
「桃山さんはこれ、知りませんか?」
「…私?」
彼女は顔を上げた。
目が合っても、表情が動かなかった。
「…私は拾っただけ」
「拾った?」
「…教室に落ちてました。机の下に。置いておきました」
理屈は通っていた。
拾って、置いた。
付箋のことは一言も言っていない。つまり、付箋を貼ったのは別の人だ。
「じゃあ、拾ってくれて、ありがとう。読んでくれた人に、伝わったらいいな」
「…そうですか」
彼女は一瞬、何かを言いかけて、やめて、教科書のページをめくった。捲る指がちょっと速かった。
昼休み、ボクは隣の席に宣言した。宣言というのは大袈裟だ。こう言っただけだ。
「感想ノートを部室に置くんです。誰でも書けるやつ。付箋の人も来てくれたら嬉しいな」
桃山さくらはお弁当の箸を止めた。止めて、また動かした。
「…誰でも?」
「誰でもです」
「…いいですね」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。




