第二話
昼休み、ボクは弁当を食べながら、桃山さくらが本を読んでいるのに気付いた。教科書ではなく、細長い文庫本だ。ページを捲る間隔が読書の速さではなく、読み返す速さだった。同じ行に三回、指が戻っている。
「何を読んでるんですか?」
「…台本です」
「授業中に読む本と違うんですね」
「…ええ。授業中は教科書を」
真っ直ぐな答えだった。
瞳も真っ直ぐだった。
ボクは行儀のいい人だなと思った。ボクは行儀の悪い読書家なので、台本を読んでいる振りをして、その人の邪魔をしてはいけないと何でもない顔で教わった。
【四月十日 昼】
台本です
授業中は教科書を
会話メモの三行目と四行目になった。
放課後、ボクは旧校舎の三階へ向かった。元視聴覚室。文芸部の部室だ。
階段の途中に、床が抜けかけている箇所がある。先生の言う「歴史ある校舎」の最も物理的な意味だ。
三階の廊下は夕方になると海の色をする。壁が青くて、窓が白くて、それらが混ざる。ボクはあの廊下の色をまだ文章にしたことがない。
書いたことがない景色は大事にとってある。
文芸部部長の星野はるかは窓枠に腰かけて、ストローの先をミルクティーの紙コップに沈めていた。彼女は三年生で、文芸部部長で、先月文学賞を獲った人だ。賞の後に来た出版社の誘いを断った人でもある。理由を聞いたら「私が私の読みたいものをまだ読んでいないから」だった。
ボクは意味がわからなくて、そのまま呑み込んだ。
「桜田、部の現状報告をする」
彼女のストローの先がミルクティーの表面をくるくると回った。
「文芸部の部員は数え方を変えると二人だ。あと、幽霊部員が一人。名簿にだけいる。実在はするんだろうが来たことがない」
「それは部員なんですか?」
「名簿の上で生存している。書類の上では、それでいい」
「名前は何というんですか?」
「藤代達矢。一年の時、新入部員勧誘で一度だけ顔を見た。『読むのは好きですが、書くのは得意じゃないので』と言って、二度と来なかった。今も名簿の上で、天井に張り付いて読んでいる」
「来てくれた方が部員としては助かるんですが」
「来ない人を期待するのは失礼だ。だから、あと一人、必要だという話だ」
「規則ではどうなんですか?」
「部員三人未満は廃部」
彼女のストローが空の音を吹き鳴らした。
「つまり、あと一人。書類に名前の書ける。実在の人間がもう一人の部員が必要。それが当面の全業務だ」
「で、決めた。文化祭は朗読劇だ」
「朗読劇? 舞台はできないんですか?」
「舞台は幕が必要。幕は金が必要。金は部費がさびれている。あと、私は面倒なのは嫌い」
「最後のが一番大きそうですね」
「朗読劇は机と台本と声があればできる。文芸部に残ってるのは、机と声だ。台本はあんたが生産する」
理屈が先に進んでいた。
「この町の文芸部に海の前で声を出さないのはもったいない。脚本はあんたが書く」
「は?」
「あんたのノートを読んでる。書ける。書ける人間が書く。異論は認めない」
ボクは異論を出そうとして、やめた。星野部長に異論は通った試しがない。
「書くって脚本をですか。ボクは小説しか書いたことないんですけど」
「じゃあ、初めて書けばいい。私が読者になる。あと、読者は多い方がいいぞ」
ボクは反射的にポケットのノートを取り出した。星野部長が顎をしゃくった。
「また、メモってる」
「材料にするので」
「いいけどさ。あんたはいつも他人の言葉ばっかり写して、自分の言葉を書かないよね」
「自分の言葉はネタがないんで」
「スランプはあんたには関係ないね。スランプってのは、自分の言葉を知ってる人間が言えなくなる現象だから」
「それ、冗談ですか?」
「文学賞を獲った人間の言だから冗談として受け取っとけ」
ボクは受け取れなかった。
「ふーん」
星野部長はそれだけで窓の外へ向き直った。
窓が少し開いていて、潮の匂いが三階まで上がってきていた。
窓からは海が半分見える。あとの半分は、防波堤と桜並木と今朝の通学路だ。
「タイトルはもう決めてある。『潮鳴りのわすれもの』。中身はあんたが考える。締切は文化祭の二週間前。遅れたら、私は表題だけの発表をする。『潮鳴りのわすれもの』という真っ白い台本の朗読だ。客席は大いに混乱する」
「タイトルの意味はあるんですか?」
「ある。海は鳴らない。鳴るのは潮の方だ。だから『潮鳴り』に人間の声を忘れていったやつの話を付ける」
「それ、ボクが考えていいんですか?」
「先に言っただろ。中身はあんたが考えろって」
「中身だけは嫌なので、テーマもボクが考えます」
「よし。あと、演出助手というものをつけてやる」
「演出助手?」
「脚本を書く人間は原稿の字面しか見なくなる。他人の目が必要だ」
「誰を?」
星野部長はストローを指差した。ボクはミルクティーを振り返った。
ストローはボクを見ていた。話がちぐはぐだ。
「ちょうどいい子がこの学校にいる」
星野部長はそれだけ言って、それ以上教えてくれなかった。
教えないことで積極的に善人ぶる人だった。




