第一話
始業のホームルームで鯨友先生が言った。
「名前というのは季語と同じ。一言で、その人の季節が現れる。じゃあ、出席番号の順に張り切って名乗っていこう」
古文の先生はいつもこんな風に話を始める。ボクたちは順番に立ち上がって、名前と好きなものを言うことになった。
前の席の男子は「カレー」と言って座った。教室は小さく笑った。その次の女子は「水泳」と言った。その次の男子は「寝ること」と言って、鯨友先生に「それは季語じゃない、四六時中だ」と返されていた。
その次の番。
隣の席の人が立った。
彼女は軽く息を吸ってから、口を開いた。それだけで、教室の空気が変わった。
「桃山さくらです。よろしくお願いします」
マイクのない教室で、一番後ろまではっきり届いた。
窓ガラスがわずかに震えた気がした。カレーと言った男子がビクっと背を丸めた。
「好きなものは海と台本を読むことです。春は桜の透けるような色が好きです」
季語を二つも三つも重ねてくる。鯨友先生が嬉しそうに顎を引いた。
「いい季節だな」
桃山さくらが着席しようとして、消しゴムが机から落ちた。
赤い消しゴム、床を一度跳ねて、ボクの靴の先で止まった。
ボクはそれを拾って、彼女に差し出した。
「どうぞ」
「…あ、ありがとうございます」
二度目の落下は着席の途中だった。今度はボクの椅子の下まで転がった。またそれを拾って、彼女に差し出す。
「どうぞ」
「…ありがとうございます」
三度目は彼女が自分で拾おうとして、机の角に消しゴムをぶつけて、また落とした。ボクは三つ目の赤を、最初と同じ角度で差し出した。
「よく落としますね」
純粋な感心として、そう呟いた。一つの机で消しゴムが三回落ちるなら、そこには法則がある。
落下角度。
跳ねる高さ。
転がる距離。
次の落下地点の予測まで立ちそうだった。
桃山さくらはボクを見た。
彼女は笑っていた。
笑顔の角度が完璧だった。
ただ、赤い消しゴムを握り込んだ指の色だけが消しゴムと同じになっていた。
「…研究します」
彼女は消しゴムを筆箱の奥底まで押し込んで、机に手を置いた。手の甲が机の上で小さく震えていた。震えているように見えたのは、おそらく朝のせいだ。
朝は誰でも緊張する。
次の番はボクだった。
「桜田孝介です。文芸部です。以上です」
「季節は?」
鯨友先生が聞いた。
「書くことです」
「書く人の春はいつ来るんだろなぁ」
教室がちょっと笑った。
笑わなかったのは、鯨友先生と隣の席の彼女だけだった。隣の席の彼女は真剣な顔で頷いていた。
何かを書き留めるみたいな頷き方だった。
「じゃ、最後に一つだけ。桃山」
鯨友先生が呼ぶと彼女はもう一度立った。二回目の名乗りだ。訊き返す教師の側にも、理由があったのだろう。
「さっき、海と言ったな」
「はい」
「我らの前をずっと流れよるものを海と呼ぶんだ。好きなものに名前をつける時は、気を引き締めていけ。ほとんど決意だからな」
彼女は背筋を伸ばした。
名前の重さを誰より真面目に受け取る立ち方だった。
「はい、気をつけます」
ボクには癖があって人の言葉をノートに写す。会話メモと呼んでいる。使える言葉は、後で小説の材料になる。書くのは言葉だけ。自分の気持ちは書かない。自分の気持ちは書いたところで材料にならないからだ。小説に必要なのは、ボクではなく、ボクの外にいる人間の声だとボクは早くから気づいていた。
その日の会話メモにはこう記されている。
【四月十日】
『桃山さくらです。よろしくお願いします』
『好きなものは海と台本を読むことです。春は桜の透けるような色が好きです』
『…研究します』
拾い忘れがないか、三回読み返した。
初日の記録としては上出来だった。
会話メモには、三つのルールがある。
一 書くのは他人の言葉だけ。
二 言い淀みもそのまま写す。言い淀みにはその人の季節が書いてあるからだ。
三 自分の気持ちは書かない。自分の気持ちを書いた瞬間、記録は嘘をつき始める。




