プロローグ
潮の匂いは校門より先に、坂の下から届く。潮霧高校への通学路は海沿いの一本道だ。ボクは毎朝、自転車にまたがったまま坂を下りる。漕ぐ必要はない。坂が勝手に運んでくれる。そのかわり、海が勝手に目に入る。
防波堤。
ベンチ。
色褪せた海の看板。
町の海岸は変化に乏しい。
変化に乏しい町は好きだ。
何も変わらないかわりに、何も野心がない。
野心のない人間は朝の空気をゆっくり吸える。
自転車の前かごには昨夜書き残したノートが入っている。書けなかった一行が空欄のまま、朝を迎えている。
空欄はボクの朝の顔だ。
埋まっていない一文を誰かが海の向こうで待ってくれてる。
そんな気がする日がたまにある。
四月の海は、ほとんど透明だった。
薄い青の水面に桜の花びらが散って浮かんでいる。上流の川から流れてきたのだろう。波が寄せる度に桜色がふわふわと回って、集まって、またほどけていく。
花びらは海でも溺れない。
ずっと表面を泳いでいる。
ボクもあんな泳ぎ方をしたい。
深いところへ行かずに、表面だけ漂う泳ぎ方だ。
深いところには沈むものしかいない。
とはいえ、沈まないものにも波はある。波は打ち寄せる度に同じ音を違って鳴らす。同じ朝を違って始める。
ボクはその誤差を集める仕事をしている。集めた誤差は夜、ノートの中で誰かの台詞になる。
「あなたのことが、好きです」
波の音の方がずっと大きかった。
それでも、その声の方が先にボクの耳まで届いた。
ブレーキが手の方で勝手に握られた。
防波堤の上に、制服の姿があった。
女子生徒だ。
うちの学校のだろう。
彼女は堤の天辺に立って、片手でノートを掲げていた。
台本らしい。
表紙もない。
まだ、誰にも題名をつけられていない台本に見えた。
彼女は海に向かって、真っ直ぐに立っていた。
背筋が水面と垂直だった。
「あなたのことが、好きです」
二度目も、同じ台詞だった。
一度目より声の腹の部分が太い。
朝の空気を大きく吸う音が風切り音のように続いて、また、放たれる。
すごいな。
ボクは足を止めたまま思った。あれは発声というより、心臓のほうが外に出ている音だ。波の音に負けない声というものを生まれて初めて聞いた。
十七年間、この防波堤を三年も往復して、こんな出力の声は聞いたことがない。
漁船の汽笛と。
始発のバスと。
この声。
朝の音の目録をボクは書き換える必要に迫られた。
「あなたのことが⋯⋯っ」
三度目は、途中で引っかかった。本人にも、さすがに照れが出たらしい。堤の上の制服は台本を胸に引き寄せて、軽く膝を折った。
深呼吸。
もう一度。
ボクはその姿勢を真剣に見てしまった。
綺麗な姿勢だと思った。お腹から声が出ている。腹式呼吸というやつだ。
教室でする「元気に挨拶」とは材料が別物だった。あれをボクもやれば、ボクの書いた台詞ももっと遠くまで届くのだろうか。
「発声、腹式で綺麗ですね」
ボクの口が勝手に言った。
小声のつもりだった。
だけど、海沿いの朝は音の通りがいい。
波が引いていた瞬間だったということもある。
堤の上の肩が跳ねた。
振り向く。
早かった。
ボクが声の主を探すより先に、彼女はこちらを向いていた。
そして、もう顔は真っ赤だった。聞かれて赤くなったのではない。先に赤くて、目が合って、さらに赤くなるという順番だった。
「…いつから?」
「『あなたのことが』のところから」
ボクは正直に答えた。
声の練習をしている人に余計な慈悲をかけるのは、かえって失礼だと思う。
防波堤の朝は、ボクのものと波のものだった。
第三者はいないことにしていた。第三者が実在した朝は今日が初めてだった。
彼女は台本を胸に抱え込んだ。
隠すように。
それから堤の階段を三段飛ばしで降りてきた。
「…あの、聞こえてました?」
「聞こえました。三回」
「…三回」
彼女は呟いて、何かを言いかけた。
言いかけて、やめた。
かわりに、勢いよく頭を下げる。
「…お邪魔しました!」
「練習、がんばってください。次は、四回目まで聞きます」
精一杯の激励を言ったつもりだった。激励というのは、聞き手が次回来るという宣言でもある。
彼女は「…言わないで!」と言って、もう一度頭を下げて、走り去った。激励が拒絶されるのはボクの文章が普段受けている反応と同じだった。
自転車を押すボクの横を風のように通り抜けて、坂の方へ駆けていく。肩下で一つに結んだ髪が走る度にほどけて、背中で揺れた。
道端の松の木の陰で彼女はしゃがみこんだ。隠れているつもりだろうけれど、制服の裾と、結んだ髪と、胸の台本が、幹からはみ出していた。台本の白いページだけが木の陰で余計に白かった。
ボクは黙ってその横を通った。練習の直後に他人に声をかけられるのは役者の人にはダメだろう。
いや、練習前だったか?
順番がどっちだったか。
それも大事な気がした。
朝からすごいなとボクは思った。あれが本物の役者というやつか。声の通し方が根本から違う。あの声をボクも持っていたら、小説なんて書かなくて済む。机に向かう必要も、原稿用紙を買いに行く必要もない。声だけで世界に一文を刻める。
正門をくぐる。
下駄箱。
上履き。
昇降口の掲示板に、クラス分けが貼り出されていた。
二年三組。
該当する番号を指で辿る。教室にはまだ誰も来ていなかった。出席番号順に決まっている席を探して、窓際の列を歩く。自分の席に荷物を置いて、ふと隣を見た。
隣の椅子が、こそりと音を立てて引かれた。
ボクは振り向く。
朝、防波堤にいた彼女だった。
「おはようございます。腹式、綺麗でした」
ボクの笑顔を見て、彼女は消しゴムをもう一度落としそうな顔をして、隣の椅子に座った。
春の一日目はこうして始まった。




