第二話
演出の座長はその台本を見て、少し首を傾げた。
「桜田くん、ここまで細かく書く脚本家は珍しいよ。役者が演じる余地がなくなる」
「すいません」
ボクそう言いながら、直さなかった。
直せなかったという方が正しい。
直すと、桃山さくらが桃山さくらでなくなる気がしたからだ。
これがボクの書いた一番長い手紙だということに、その時はまだ気づいていなかった。
稽古は下の場面から始まることが多かった。
男が去る。
その前の晩の会話。
娘が灯りの油を継ぎ足しながら、男に背を向けて話す。
男は娘の背中に話しかける。二人は最後まで目を合わせない。
座長の指示だった。
「この場面は目を合わせたら負けだ」
その日、ボクは稽古を見るために、舞台の袖から客席のほうを見ていた。正確には、客席じゃなくて、舞台の上を見ていた。桃山さくらの背中を。彼女は男役の黒田賢太郎に向かって、静かに言葉を落としていた。
「…行ってしまうんですね」
黒田賢太郎が一拍置いて答える。
「ああ」
桃山さくらの肩がわずかに動く。
息を吸っている。
ボクが台本に書いた通りの二秒の間。
その後で、彼女は言う。
「…わたしは、ここにいます」
ぞくりとした。
背中に電気が走ったみたいだった。台本を書いたのはボクだ。この言葉を選んだのもボクだ。
なのに、彼女の口から出ると、それはまったく別のものになる。まるで、彼女がずっと前から知っていた言葉みたいに。まるで、この言葉が、ボクに宛てられたみたいに。
「…灯りを、消しません」
黒田賢太郎が答える。
「消してくれ」
「…嫌です」
その「…嫌です」の時、桃山さくらがほんの一瞬、顔を上げた。
背中を向けたまま、肩ごしにボクの方を見た。
いや、見たというのはボクの願望だ。
彼女は座長の方を見たのかもしれない。
照明の方を見たのかもしれない。
客席の誰もいない空間を見たのかもしれない。
でも、その一瞬、ボクは彼女と目が合った。
そんな気がした。
一瞬、心臓が止まったような気がした。
ボクはすぐに打ち消す。これが演技だ。彼女は役者だ。役者の言葉は誰にも宛てられていない。宛て先のない言葉を宛て先があるように見せるのが彼女の仕事だ。だから、あの「視線」も、あの「間」も、あの「声」も、全部、演技。全部、仕事。全部、灯火の娘のもので桃山さくらのものじゃない。
そう思わないと、ボクは舞台の袖に立っていられなかった。
「はい、ストップ!」
海原みつきの声がホールに響いた。彼女は研究生公演の演出補佐をなぜかボクよりも熱心にやっていた。いや、「なぜか」じゃない。彼女が最初からこれを仕組んでいたんだと、ボクはもっと後で知ることになる。その時は、ただの元気な後輩だった。
「黒田さん! 今の『ああ』は感情が足りないです! もっと未練を! 女々しく! 行きたくないのに、行かなきゃいけない、その苦しさを!」
「女々しくか」
黒田賢太郎は涼しい顔で台本を閉じた。
「海原、俺はこの男に未練なんて書いてない。こいつは、帰らないつもりで行くんだ。だから『ああ』しか言えない。女々しくしたら、嘘になる」
「うっ、説得力⋯⋯」
海原みつきはぐぬぬと唸って、ボクの方を振り返った。
「桜田くん! 脚本家としてどう思いますか! 黒田さんの解釈は合ってますか!」
「合ってると思う」
ボクは正直に言った。
「あの『ああ』はボクが一番削ったところだから」
「削ったところを一番大事にするんですね」
海原みつきはなぜか目を潤ませて、台本に赤ペンで走り書きを始めた。
彼女の台本はもう真っ赤だった。
ボクの台本よりも。




