第五話
夕飯は、ボクが作った。鍋。寒い日は鍋。
ボクは白菜を切りながら、考えていた。
今、桃山さくらは何をしているんだろう。
祖父母と三人。両親は遠洋漁業でいない。冬の海は荒れる。船は帰ってこない。ボクはそれを聞いたことがあった。聞いていながら、そのことをずっと考えていなかった。
ボクはまな板の上で包丁を止めた。この一年、ボクは桃山さくらのことを何か一つでも知ろうとしただろうか。
知ったつもりでいた。
脚本のために。
小説のために。
それは知ることじゃない。
材料集めだ。
ボクは桃山さくらを材料にしていた。
ボクはそのことに初めて気付いた。気付いて、胸が痛くなった。
また、痛みだ。
この痛みにも、まだ名前がついていない。
鍋を食べながらボクは考えた。
明日、会いたい。
会って、何を話すわけでもない。
でも、会いたい。
その夜、ボクはスマホを持って、部屋にいた。ラインを開いた。桃山さくらの名前があった。トーク画面を開いた。最後のやり取りは、十二月の忘年会の前。海原みつきが作ったグループじゃない。個人のトーク。内容は事務的だった。
【ライントーク画面】
明日、図書室、何時から 20:14
既読 3時
20:36
――※――※――※――
それだけ。
ボクは指を止めた。何を送る。会いたいと送るのか。なんて送るんだ。理由は何だ。台本の話だろうか。発声の話だろうか。
理由を探した。探して、探すのをやめた。理由があるから会いたいのではないと思った。会いたいから、会いたいのだ。小説なら、そういう行は書かない。説明が足りないからだ。でも、今は説明したくなかった。
ボクは打った。
【ライントーク画面】
会いたい
19:17
――※――※――※――
送信した。……送って、すぐ、後悔した。理由を書いていない。用件を書いていない。唐突だ。不躾だ。丁寧さの欠けた一文だ。ボクはいつも、丁寧だった。丁寧でいることで逃げていた。その逃げをやめた一文だった。
三分⋯⋯返信が来た。
【ライントーク画面】
既読 会いたい
19:17
バス停 19:20
――※――※――※――
三文字。ボクは立ち上がった。上着を取った。マフラーを巻いた。玄関を出た。
雪はまだ、降っていた。
ボクは走った。
海沿いの道を。
雪の中を。
息が白くなって、すぐ後ろに流れる。足音が雪に吸われる。走っても、音がしない。凪の海のように音が消えていった。
気付けば、海は見えなかった。
雪の向こうにあるはずだ。
あるのに見えない。
音もない。
色もない。
ただ、白い。
ボクはバス停に着いた。
桃山さくらはもう、そこに立っていた。
白いマフラー。
いつもの髪。
肩に雪が積もっていた。
傘はなかった。
息が白い。
手袋をした手を胸の前で組んでいた。ボクが初詣で見たのと同じ姿勢だった。
「いつから、いたんですか?」
ボクは息を切らしながら訊いた。
桃山さくらはメモを出した。手がかじかんでいた。うまく書けないみたいだった。それでも、書いた。
ずっと
「ずっとって?」
桃山さくらは答えなかった。ただ、白い息を吐いた。
海は凪いでいた。
雪の下で。
鏡のように静かだった。
波の音がしない。
鏡。
鏡は何も映さないのではない。
映す。
だけど、覚えない。
海は何も覚えていない。
覚えているのはボクたちだけだ。
何を話せばいいのかなんて、ボクにはわからなかった。
会いたいと送った。
会った。
その先がなかった。
「台本ですけど書き直すことにしました。二月の公演の自由台本枠」
桃山さくらは頷いた。
「『潮鳴りのわすれもの 改』です」
桃山さくらは少し笑った。それから、メモに書いた。
安直
「部長と同じことを言うんですね」
桃山さくらは肩を震わせて笑った。
ボクはその笑いを見ていて思った。
この人が笑う度に、ボクは何かを言いそびれている。
言いそびれているということすら、その時はわからなかった。ただ、何かが足りないと思っていた。足りない何かが何なのかはわからなかった。
桃山さくらはしばらく、メモを書いていた。
書いて、消して、書いて、消していた。
そして、ようやく、ボクに差し出した。
二月の公演が終わったら 言いたいことがあります
ボクはその文字を読んだ。
「言いたいこと?」
桃山さくらは頷いた。
「ボクも」
桃山さくらは目を上げた。
「…何を?」
桃山さくらは訊いた。
掠れていた。
でも、声だった。
ボクは答えられなかった。
答えはあった。
あったはずだ。
あったのに、言葉にならなかった。
ボクは自分の感情を小説に書こうとして、書けなかったのと同じところで立ち止まった。
ボクは、「僕は、」の続きを持っていなかった。
「わからない」
ボクがそう言うと、桃山さくらはその答えを聞いて笑った。泣くのではなく、笑った。それから、メモに一言、書いた。
わかってない
くせに
「すいません」
桃山さくらは首を横に振った。それから、もう一枚、書いた。
わからないままでいいです 二月までありますから
ボクはその紙をポケットに入れた。
入れて、それから、家に帰る途中でもう一度、取り出して読んだ。雪の中で文字が少し、滲んでいた。
家に帰って、ボクは会話メモを開いた。
今日のページ。
何を書く。誰かの言葉を書くノートだ。他人の言葉を、一字一句。自分の気持ちは、書かない。ルールだ。ボクが決めたルールだ。
ボクは書いた。
二月までありますから
それだけ書いて、ノートを閉じた。「僕は、」と書こうとした。書けなかった。その一行を書けるようになるためなんだと思った。この一年は。そう思った。思って、それが正しいのかどうかはわからなかった。
凪の海。
雪。
白い息。
一月の海は、鏡のようだった。
鏡は何も覚えない。
覚えているのはボクたちだけだ。そして、そのボクが覚えていることを、まだ言葉にできない。




