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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
一月
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42/51

第五話

 夕飯は、ボクが作った。鍋。寒い日は鍋。

ボクは白菜を切りながら、考えていた。


今、桃山さくらは何をしているんだろう。


祖父母と三人。両親は遠洋漁業でいない。冬の海は荒れる。船は帰ってこない。ボクはそれを聞いたことがあった。聞いていながら、そのことをずっと考えていなかった。


ボクはまな板の上で包丁を止めた。この一年、ボクは桃山さくらのことを何か一つでも知ろうとしただろうか。

知ったつもりでいた。


脚本のために。

小説のために。


それは知ることじゃない。

材料集めだ。

ボクは桃山さくらを材料にしていた。


ボクはそのことに初めて気付いた。気付いて、胸が痛くなった。


また、痛みだ。


この痛みにも、まだ名前がついていない。


鍋を食べながらボクは考えた。


明日、会いたい。

会って、何を話すわけでもない。

でも、会いたい。


その夜、ボクはスマホを持って、部屋にいた。ラインを開いた。桃山さくらの名前があった。トーク画面を開いた。最後のやり取りは、十二月の忘年会の前。海原みつきが作ったグループじゃない。個人のトーク。内容は事務的だった。


【ライントーク画面】


明日、図書室、何時から  20:14


既読  3時

20:36


――※――※――※――


それだけ。


ボクは指を止めた。何を送る。会いたいと送るのか。なんて送るんだ。理由は何だ。台本の話だろうか。発声の話だろうか。


理由を探した。探して、探すのをやめた。理由があるから会いたいのではないと思った。会いたいから、会いたいのだ。小説なら、そういう行は書かない。説明が足りないからだ。でも、今は説明したくなかった。


ボクは打った。



【ライントーク画面】


    会いたい  

19:17


――※――※――※――


送信した。……送って、すぐ、後悔した。理由を書いていない。用件を書いていない。唐突だ。不躾だ。丁寧さの欠けた一文だ。ボクはいつも、丁寧だった。丁寧でいることで逃げていた。その逃げをやめた一文だった。


三分⋯⋯返信が来た。



【ライントーク画面】


既読  会いたい    

19:17


バス停  19:20


――※――※――※――


三文字。ボクは立ち上がった。上着を取った。マフラーを巻いた。玄関を出た。


雪はまだ、降っていた。


ボクは走った。

海沿いの道を。

雪の中を。


息が白くなって、すぐ後ろに流れる。足音が雪に吸われる。走っても、音がしない。凪の海のように音が消えていった。


気付けば、海は見えなかった。


雪の向こうにあるはずだ。

あるのに見えない。

音もない。

色もない。

ただ、白い。


ボクはバス停に着いた。


桃山さくらはもう、そこに立っていた。


白いマフラー。

いつもの髪。

肩に雪が積もっていた。

傘はなかった。

息が白い。


手袋をした手を胸の前で組んでいた。ボクが初詣で見たのと同じ姿勢だった。


「いつから、いたんですか?」


ボクは息を切らしながら訊いた。


桃山さくらはメモを出した。手がかじかんでいた。うまく書けないみたいだった。それでも、書いた。


ずっと


「ずっとって?」


桃山さくらは答えなかった。ただ、白い息を吐いた。


海は凪いでいた。

雪の下で。

鏡のように静かだった。

波の音がしない。

鏡。

鏡は何も映さないのではない。

映す。

だけど、覚えない。

海は何も覚えていない。


覚えているのはボクたちだけだ。


何を話せばいいのかなんて、ボクにはわからなかった。


会いたいと送った。

会った。

その先がなかった。


「台本ですけど書き直すことにしました。二月の公演の自由台本枠」


桃山さくらは頷いた。


「『潮鳴りのわすれもの 改』です」


桃山さくらは少し笑った。それから、メモに書いた。


安直


「部長と同じことを言うんですね」


桃山さくらは肩を震わせて笑った。


ボクはその笑いを見ていて思った。


この人が笑う度に、ボクは何かを言いそびれている。

言いそびれているということすら、その時はわからなかった。ただ、何かが足りないと思っていた。足りない何かが何なのかはわからなかった。


桃山さくらはしばらく、メモを書いていた。


書いて、消して、書いて、消していた。

そして、ようやく、ボクに差し出した。


二月の公演が終わったら    言いたいことがあります


ボクはその文字を読んだ。


「言いたいこと?」


桃山さくらは頷いた。


「ボクも」


桃山さくらは目を上げた。


「…何を?」


桃山さくらは訊いた。

掠れていた。

でも、声だった。


ボクは答えられなかった。

答えはあった。

あったはずだ。

あったのに、言葉にならなかった。

ボクは自分の感情を小説に書こうとして、書けなかったのと同じところで立ち止まった。


ボクは、「僕は、」の続きを持っていなかった。


「わからない」


ボクがそう言うと、桃山さくらはその答えを聞いて笑った。泣くのではなく、笑った。それから、メモに一言、書いた。


わかってない

くせに


「すいません」


桃山さくらは首を横に振った。それから、もう一枚、書いた。


わからないままでいいです    二月までありますから


ボクはその紙をポケットに入れた。

入れて、それから、家に帰る途中でもう一度、取り出して読んだ。雪の中で文字が少し、滲んでいた。


家に帰って、ボクは会話メモを開いた。


今日のページ。

何を書く。誰かの言葉を書くノートだ。他人の言葉を、一字一句。自分の気持ちは、書かない。ルールだ。ボクが決めたルールだ。


ボクは書いた。


二月までありますから


それだけ書いて、ノートを閉じた。「僕は、」と書こうとした。書けなかった。その一行を書けるようになるためなんだと思った。この一年は。そう思った。思って、それが正しいのかどうかはわからなかった。


凪の海。

雪。

白い息。

一月の海は、鏡のようだった。

鏡は何も覚えない。

覚えているのはボクたちだけだ。そして、そのボクが覚えていることを、まだ言葉にできない。

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