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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
一月
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第三話

 一月四日。図書室が開いた。ボクは桃山さくらと約束をしていた。発声の相手をするという約束だ。海原みつきに稽古がある日はボクが行くという話になった。なぜボクが選ばれたのかはわからない。


「あんたが一番暇そうだから」


海原みつきは言った。

二回、同じことを言われた。


図書室の窓際の席。一月の午後。陽は低くて、窓から長く入ってくる。床に本棚の影が落ちている。海は凪いで、鏡のようだった。波がない。音がない。凪というのは静かなのではない。音が消えるのだ。窓を開けても、磯の匂いだけがして、音がしない。それが少しこわかった。


「じゃあ、始めますか?」


桃山さくらは頷いた。椅子に座って、背筋を伸ばした。手をお腹のあたりに置いた。


桃山さくらは口を開けた。


「あ」


声は出た。

掠れていた。

だけど、出た。


「あ、え、い、う、え、お、あ、お」


掠れた声だった。

息が混ざる。

でも、確かに、桃山さくらの声だった。

ボクはその声を聞いて、少し安心した。

安心して、それからハっとした。

桃山さくらの声がないという状態に、ボクはあの十二月の駅前で、初めて気づいた。気づくのが遅すぎた。


「いいですね。出てます」


ボクの言葉に桃山さくらは少し笑った。それから、メモに書いた。


まだ、掠れてる


「でも、出てます」


桃山さくらは頷いた。

それから、また口を開けた。


「あ、え、い、う、え、お」


発声は地味だ。

派手なことは何も起きない。ただ、同じ五つの音を繰り返す。

腹式というやつで、息を深く入れて、細く出す。

桃山さくらはそれをボクの前でやった。

ボクはそれに付き合った。


「あ、え、い、う、え、お」


ボクの声はひどかった。

自分で聞いて、ひどいと思った。

掠れてもいない。

ただ、薄い。

存在感がない。

小説なら、こんな声にはならない。小説の登場人物はみんな、いい声をしている。ボクは自分がいい声でないことを初めて悔しいと思った。


陽が動く。床の影が伸びる。図書室に、ボクと桃山さくらと、それから、ボクたちの声しかなかった。

二人の声が交互に鳴る。ボクが出して、桃山さくらが出す。

桃山さくらが出して、ボクが出す。

こんな時間の過ごし方をボクは知らなかった。

小説を書く時間より静かで、小説を読む時間より近い。

近いのに何も言わない。

何も言わないのに、声は交わっている。


桃山さくらがカバンから台本を出した。


研究生公演の『潮鳴りのわすれもの』


表紙をめくった内側に紙が一枚、貼ってあるのが見えた。

何か書いてある。

ボクにはそれが何かは見えなかった。見えなかったというより、見ようとしなかった。丁寧さという名の逃げだ。


これが後で思えば、この一年で、一番幸せな時間だった。

でも、その時のボクは幸せとは思わなかった。ただ、発声の練習をしていた。


五日、六日、七日。

ボクは、毎日、図書室に行った。桃山さくらの声は少しずつ戻ってきた。最初は掠れて息が混ざっていたのが、だんだん、通るようになった。十日目くらいに、桃山さくらは、短い言葉なら出せるようになった。


「…おはよう」


その一言を聞いた時、ボクはなぜか、目をそらした。

目をそらす理由がわからなかった。

わからないまま、ボクは挨拶を返した。


「おはようございます」


桃山さくらは少し笑った。

それから、小さく言った。


「…その敬語、やめて」


「え、敬語、やめてって、言った」


声は掠れていた。でも、確かに桃山さくらは、そう言った。


ボクは返事をしなかった。返事をしなかったのは、なぜかはわからない。

「はい」と言えば、よかった。

言えば、よかったと、後で何度も思った。


その夜、ボクはパソコンを開いた。


自分の感情を書いてみようと思った。小説にすれば、わかると思った。ボクは、いつも、そうやって、わからないことを書いて、確かめてきた。登場人物が困ったら、書けばわかる。書けば、その人が何を思っているかが見える。それがボクのやり方だった。


新しいファイルを開いた。タイトルは、まだ、ない。ボクはカーソルを置いて書いた。


「ボクは⋯⋯」


その続きが出なかった。


出なかったというより、続きが、書けかった。ボクは次に何を書けばいいのかがわからなかった。主人公をボクにした途端に言葉が消えた。


他人のことなら書ける。

桃山さくらのことなら、いくらでも書ける。


彼女の、間の取り方。

彼女の、声の出し方。彼

女が消しゴムを落とす回数。

彼女がメモに書く文字の震え。

ボクはそれを全部、覚えている。覚えていて、書ける。でも、その桃山さくらを見ているボクという人間の言葉が出てこない。


ボクは初めて思った。

ボクは小説家なんだろうか。小説家は他人の心を書く。

書ける。

でも、小説家も人間で、人間には自分の心がある。その自分の心を言葉にできない。できないというのは、つまり、ボクは自分のことを、何もわかっていないということだ。


ボクは画面を閉じた。閉じて、ベッドに倒れた。天井を見た。

「ボクは」の続きが出ない。小説を書いている人間が自分の一人称を書けない。

笑うような話だった。


笑えなかった。


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