第一話
一月一日。汐見神社。海の見える神社だ。石段を上がりきると、鳥居の向こうに水平線が真っ直ぐに伸びている。
一月の海は、凪いでいた。
鏡のようだった。風がほとんどない。波の音が遠くで鳴っている。鳴っているのか、鳴っていないのか、わからないくらいの音だった。
ボクは初詣の列に並んでいた。前に、星野部長と海原みつき。後ろに、黒田賢太郎。そして、少し離れたところに桃山さくらが立っていた。
桃山さくらは白いマフラーをしていた。
いつもの髪を一つに結んだ姿。手袋を両手に嵌めて、その手を胸の前で組んでいた。
「寒いね」
海原みつきが言った。
「寒いです」
ボクは答えた。
「あ、桜田くん、それ⋯⋯私に言った?」
「海原さんが言ったので」
「そっか。そっか」
海原みつきは何かを含んだ顔をした。ボクはその顔の意味を考えなかった。
列が進む。石段の上で、風が少しだけ強くなった。海の方から冷たい空気が上がってくる。
息が白い。
白い息が鳥居を潜って、すぐに消える。
賽銭箱の前でボクは五円玉を投げた。
五円。
ご縁。
そういう語呂合わせがある。ボクは別に縁を求めていたわけじゃない。
ただ、財布に五円玉があったからだ。
手を合わせて、目を閉じた。願い事。
何を願えばいいのかがわからなかった。
大学に受かりますように。
まだ、受験の年でもない。
小説が書けますように。
それも、違う気がした。
家族が健康でありますように。
それは、願っていい。
でも、一番願いたいことではなかった。
ボクは目を閉じたまま、しばらく立ち止まっていた。
願い事が決まらない。
決まらないまま、二礼、二拍手、一礼をして、賽銭箱の前を離れた。
それから、ボクは思った。
願い事が決まらない。
つまり、自分が何を欲しいのかなんて、わかっていないということだ。
小説なら、登場人物の願いは最初に決める。
決めないと話が動かない。なのに、自分の願いだけが決まらない。書き手として、これはまずいと思った。まずいと思いながら、それが何に対してまずいのかはわからなかった。
おみくじを引いた。
星野部長は「大凶」を引いた。
「大凶、出た!」
星野部長は平然と言った。
「え、大凶なんてあるの?」
海原みつきが覗き込んだ。
「あるよ。凶より下」
「大凶なんて、初めて見た」
「光栄だね」
「光栄なの?」
「滅多に引けないから」
星野部長は大凶の紙を胸のポケットにしまった。
捨てなかった。
その仕草が部長らしいとボクは思った。
大凶も読む対象なんだ。
この人は何でも読む。
黒田賢太郎は「中吉」だった。
「中吉か⋯⋯」
黒田賢太郎は言った。
「いいじゃないですか」
ボクは言った。
「芝居は中吉くらいがちょうどいい」
「そうですか」
「大吉だと油断する。凶だと投げる。中吉くらいが稽古になる」
意味はよくわからなかった。わからなかったけど、黒田賢太郎が言うと、そういうものかと思えた。
海原みつきは「吉」だった。それを見て、彼女は少し残念そうな顔をした。
それから、すぐ笑った。
「ま、いっか。吉だし」
桃山さくらはおみくじを開いた。
開いて、少し、目を大きくした。
ボクは覗き込んだ。
覗き込むのはボクの悪い癖だ。他人の書いたものを読みたくなる。小説家の職業病みたいなものだ。
桃山さくらのおみくじには、「大吉」と書いてあった。
「大吉ですか。よかったですね」
桃山さくらは頷いた。
それから、ボクの手を見た。ボクの手には、ボクのおみくじが握られていた。
ボクは、それを開いた。
「末吉」だった。
「末吉か。まあ、吉には違いないので」
桃山さくらはその「末吉」の紙をボクの手から取った。それから、自分の「大吉」をボクの手に押しつけた。
そして、「末吉」を自分のポケットにしまった。
ボクには意味がわからなかった。
「え、なんで?」
桃山さくらは答えなかった。ただ、白い息を吐いて、少し笑った。
「大吉よりそっちがいいの?」
ボクは訊いた。
桃山さくらは首を横に振った。それから、手袋をした手で、ボクの手のひらの「大吉」をトントンと二回、叩いた。
これは「大事にしろ」という意味だと思う。
でも、確信はなかった。
「あなたは末吉でいいの?」
桃山さくらは頷いた。
ボクはその理由を訊かなかった。
訊けばよかった。
訊かなければわからないことをボクはこの一年、ずっと、訊かずに来ていた。
その時はまだ、そのことの重さを知らなかった。




