第五話
そのうちに、星野部長が立ち上がった。
「私たち、二次会。駅前」
「二次会?」
「イルミネーション、見に行くの」
ボクはこたつから出た。
サンタのまま、出た。
後で思った。
あれは仕組まれていた。
海原みつきと星野部長の仕掛けだった。
二人は最初から、ボクと桃山さくらを二人きりにするつもりだった。
黒田賢太郎も、海原みつきのスマホも、みかんの箱も、全部、そのための小道具だった。
ボクはその時は、気づかなかった。
「サンタ、そのまま行くの?」
海原みつきが笑った。
「脱ぐ暇なかった」
「似合ってるから、いいよ」
「よくない」
駅前は人が多かった。
イルミネーションが街路樹を銀色に染めていた。
十二月の海は、昼の間だけ、銀色になる。低い陽の光が、波の一枚一枚を細い銀の板みたいに光らせる。
息は白い。
バスを待つ間に、ボクは何度も手のひらに息を吐いた。
だけど、夜になると、その銀はどこかへ行ってしまう。
海は黒くなる。
イルミネーションの光をいっそ無遠慮に飲み込んで、ただ、黒い。
銀と黒の間に、十二月がある。
息が白くなるのは、海の色が一番遠い季節だ。
駅前のイルミネーションの、一番端っこに、海に一番近い場所に、桃山さくらは立っていた。
サンタのボクが隣に立った。白いヒゲを顎につけたまま。
桃山さくらは笑った。
声は出なかった。
でも、笑っていた。
人が引いていく。
イルミネーションの下で、みんな、写真を撮って帰っていく。
気付けば、ボクと桃山さくらと、街路樹の銀色とその向こうの黒い海しか、いなかった。
風が吹いた。
桃山さくらは髪を押さえた。一つに結んだ髪が風で少し、ほどけかけていた。
桃山さくらはカバンから、小さなメモ帳を取り出した。ペンを取り出して、一枚を破り取って、ボクの方へ差し出した。
なんで、そんなに優しいの
ボクはその文字を読んだ。素直に答えた。
「友達だから」
桃山さくらは俯いた。
そして、また、書いた。
今度はさっきの紙の裏側に。
○ 間違い
大きな丸が、一つ。
その横に、小さく。
丸はなんだか、ボクの答えを囲っているみたいだった。
間違い。
何が間違いなんだろう。
ボクはわからなかった。
「間違い?」
桃山さくらは答えなかった。ただ、メモ帳を胸に抱えていた。それから、もう一枚、破り取って、書いた。
ずっと、前から
ボクはその言葉もわからなかった。
ずっと前から、なんだろう。ずっと前から、友達だったということだろうか。
そうだ、ボクたちは四月から、隣の席だった。
ずっと前から友達だ。
間違いじゃない。
ボクはそう思った。
「ずっと前から友達ですよね」
ボクは確かめるように言った。
桃山さくらは目を閉じた。
それから、開けて、また書いた。
そういう、こと、じゃ、ない。
そういう、こと、じゃ、ないって、何のことなんだ?
ボクは頭の中で、必死に考えた。桃山さくらは、今、声が出ない。だから、筆談している。筆談で伝えたいこと。それは、何か。
喉のことだろうか。
それとも、劇団のことだろうか。
あるいは、ボクの脚本のことだろうか。
ボクはどの答えにも辿り着けなかった。
イルミネーションがボクたちの影を銀色の地面に長く伸ばしていた。
その影は二つ並んでいた。
近く見えた。
でも、影が近いのは光の角度のせいだ。光源が横にあると、どんなに離れた人間の影も、足元ではくっついて見える。
ボクはそれを知っていた。知っていて、その夜はそのことを、思い出さなかった。
「ごめん。わからなくて」
桃山さくらは、首を横に振った。それから、メモ帳に、また何か書こうとして、やめた。
ペンを置いた。
桃山さくらは紙を書くのをやめた。
ペンをメモ帳に挟んだ。
ボクは何かを言わなければと思った。でも、言葉が出なかった。セリフなら書ける。
でも、今、ここで必要なのは、セリフじゃなかった。
ボクはポケットに手を入れた。
そこには、ずっと入れっぱなしの紙があった。
脚本の殴り書き。
書き直しては消して、消しては書き直した最後の一行。
ボクはそれを彼女の前に置いた。
好きだ
「やっと、書けたんです」
ボクは笑った。
「この一行が、ずっと書けなかった。主人公がヒロインに、何を言えばいいのかがわからなかった。でも、今日、ようやく」
桃山さくらはその紙を見ていた。
イルミネーションが紙の上で、チラチラと光った。
「これで、ラストシーンが書ける。ありがとう。あなたが演出助手でいてくれて。あなたがいてくれなかったら、この一行は書けなかった」
桃山さくらは顔を上げた。
ボクはその顔を見て、少し驚いた。
泣いていると思った。
でも、違った。
笑っていた。
泣くのと笑うのが混ざったような顔だった。
役者の顔じゃなかった。
ボクはそう思った。
でも、その意味を、ボクは、まだわかっていなかった。
「あなたのおかげです」
ボクは、もう一度、言った。
桃山さくらはその言葉を聞いて、また、笑った。
今度は、泣きながら、笑った。ボクはその涙を見て、ああ、寒いからだろうと思った。十二月の夜だ。息が白い。涙が出ても、おかしくない。
ボクはそう思った。
桃山さくらはその紙を受け取った。
しばらく、じっと見ていた。
それから、自分のカバンから、台本を取り出した。
研究生公演の台本だ。
表紙に『潮鳴りのわすれもの』と印刷されていた。
桃山さくらはその台本を開いた。後ろの方の余白の真っサラなページを見付けた。
そして、ボクの書いた紙をスティックのりで貼った。
余白に、「好きだ」の一行が収まった。
桃山さくらはのりの付いた指をハンカチで拭いた。それからペンを持った。
貼った紙のすぐ下に、何か書こうとして、書かなかった。
ペンを置いた。
その下には、何も書かれなかった。
ボクはその空白の意味を、この時は、まだ、知らなかった。
海は黒かった。
息は白かった。
イルミネーションが消えても、街路樹だけがしばらく光っていた。
十二月の海は、昼の間だけ、銀色になる。
夜は、黒い。
そして、その黒の中に、ボクはまだ、何も見付けられずにいた。




