第二話
古文の時間。鯨友先生は教科書を開いて、句読点の位置を黒板に書き写していた。
先生は説明をいつも比喩でする。
「人は言える言葉より、言えない言葉の方が多いんだ。言えない言葉を抱えたまま、みんな、卒業していく。だから、古典は一番言えなかった言葉の記録だ。源氏物語も、枕草子も、だいたい、言えなかったことの話だ」
ボクはそれを、会話メモに書き留める。その日は、書いた後で、少し手が止まった。言えない言葉。
ボクは言えない言葉を抱えているだろうか。
抱えている。
そう思った。
でも、その中身は思い出せなかった。
その週の土曜日。海原みつきから電話が来た。
「桜田くん、ひま?」
「暇かどうかを訊くんですか?」
「訊いてる。で、ひま?」
用件は桃山さくらの病院の付き添いだった。海原みつきは劇団の稽古があって行けない。星野部長は模試だ。誰かと言われて、ボクしかいなかった。
「なんで、ボクなんですか?」
「だって、あんた、いちばん、ひまそうじゃん」
それは、そうかもしれない。
「てか。あんたが、いちばん、適任だと思うよ。私は」
「適任ですか。付き添いの」
「うん。そういうこと」
その言い方の含みの意味を、ボクは聞き流した。
病院の待合室は白くて、静かで、消毒液の匂いがした。
桃山さくらは診察券を握って、椅子に座っていた。
声が出ないだけで、見た目はいつもと同じだった。
髪を一つに結んで、制服の袖を少し余らせて。
いや。それはボクの癖だった。ボクがいつも袖を余らせている。桃山さくらはいつもきちんと着ている。
なのに、ボクは彼女を見る度に自分の癖を重ねてしまう。小説家の悪い癖だ。
他人を自分の都合のいい登場人物にしてしまう。
受付で、ボクは彼女の代わりに、たどたどしく事情を説明した。
「声が出ないんです」
ボクがそうと言うと、受付の人は頷いて、カルテを出した。
桃山さくらはボクの説明を隣で聞いていた。
「喉の風邪かもしれないんですけど」
ボクがそう言った時、彼女はそっと、ボクの袖を引いた。
「違うって?」
ボクは訊き返した。
桃山さくらは頷いた。
診察室のドアが開いて医者が淡々と言った。
「喉には何も異常はありません」
ボクは意味がわからなかった。
異常がないのに、声が出ない?
「心因性ですね。ストレスとか、そういうのが、声を止めてしまうことがある。喉は悪くない。だから、原因は喉じゃないところにある」
心因性。
ボクはその言葉を頭の中で、勝手に物語の設定に変換していた。
心因性か。
小説なら、いい題材だ。
最低だと思った。
こんな時に、ボクの頭は文章のことばかり考えている。
桃山さくらは医者の前で、小さく笑ってみせた。
大丈夫ですという顔で。
その笑い方がいやに上手だった。役者の笑い方だった。
ボクはそれを見て、少しだけ胸が痛くなった。
この胸の痛みにも、ボクはその時、まだ名前をつけられなかった。
帰り道、病院の前のバス停で、桃山さくらはまた紙を出した。
心配しないで
「してます」
ボクは言った。
桃山さくらはその紙の端を指で、しばらく折っていた。
「なんで、心配されるのが、嫌なんですか?」
ボクは訊いた。
桃山さくらは答えなかった。
ただ、バスを待っていた。
バスが来て、乗って、座って、窓の外を見た。
海は灰色だった。
十二月の銀にはまだ、なっていなかった。




