第一話
雨の図書室で、桃山さくらは「…もう、やめる」と言った。
窓の外を見たままだった。
ボクの方は見なかった。
だから、ボクはその一言が何を指しているのかなんて、その場ではわからなかった。
演劇をやめるという意味だろうか。
演出助手をやめるという意味だろうか。
それとも、ボクが書いている朗読劇そのものをやめるという意味だろうか。
訊こうとして口を開いた。
だけど、桃山さくらは既にカバンを持って立っていた。
雨はまだ降っていた。
傘を差し出す暇もなく、彼女は図書室を出て行った。
扉の閉まる音が雨音より小さかったことを、ボクはなぜか妙に覚えている。
帰り道、海は十一月の鉄色をまだ少し残していた。もうすぐ十二月だ。防波堤の向こうで波が低く鳴っていた。ボクは自転車を押しながら、桃山さくらの言葉を何度も頭の中で再生した。
「…もう、やめる」
何を?
演劇か。
演出助手か。
朗読劇か。
あるいは、ボクと何か。
四つ目を、ボクは思いついて、すぐに打ち消した。
打ち消すのがボクの癖だった。
小説なら、四つ目の可能性が一番面白い。
日常では、一番面白い可能性が一番外れている。
ボクはその時まで、そう思っていた。
雨は傘を持っていないボクの肩を静かに濡らした。ボクは傘を持っていたのに差さなかった。
なぜか、差す気にならなかった。
家に帰って、ボクは会話メモを開いた。
今日のページに一言だけ書いた。
「…もう、やめる」
誰の言葉かは書かなかった。書くまでもなかった。あの声は桃山さくらの声だったから。このノートのルールは、ボクが決めている。他人の言葉を一字一句、書き留める。自分の気持ちは書かない。書いてしまうと小説の材料にならなくなる。そういうことに、ボクはしていた。
水萌がリビングからボクを呼んだ。
「お兄、ごはん」
ボクは返事をして、ノートを閉じた。
閉じる前に、もう一度、その一行を見た。
「…もう、やめる」
字はボクの字だ。
なのに、読む度に、桃山さくらの声で鳴る。
翌週、十二月に入って教室の空気は急に薄くなった。
暖房がつきはじめて、窓は結露した。結露を指で拭うと、その向こうに鈍い銀色がちらりと覗く。
冬の海だ。
その日、桃山さくらはしゃべらなかった。
朝の会でも返事をしなかった。
出席を取られた。
「桃山」と呼ばれて、彼女は静かに手を挙げた。
声の代わりに、手のひらが、少しだけ宙に浮いた。
ボクは風邪だと思った。
声の出ない風邪というのがある。
でも、ボクはその日、彼女に話しかけなかった。話しかけられたくない日というものがある。
ボクにもある。
だから、そっとしておいた。
三日目に、桃山さくらはボクの机の上に一枚の紙を置いた。ノートを破いた、四角い紙だった。
喉、休めてます
ボクは頷いた。
「歌手みたいですね」
ボクは苦笑いをした。
桃山さくらは目をまんまるにした。
それから、紙の裏に勢いよく何か書いて、ボクの方へ押し出した。
ちがいます
その文字が少し震えていたのを、ボクは寒さのせいだと思った。
昼休み、桃山さくらは購買に行けなかった。声が出ないと注文ができない。ボクは彼女の分のパンを買ってきた。
カレーパン。
ボクは彼女が何が好きかを知らなかった。
だから、一番無難なのを選んだ。
「好きなの、これですか?」
ボクは訊いた。
桃山さくらは首を横に振った。それから、メモに書いた。
あんぱん
「あ、そうなんですね。次から、あんぱんにします」
桃山さくらは少し笑った。「次から」その言葉に彼女が何を思ったかはボクは知らない。
ボクはただ、カレーパンを食べた。
温かくて、おいしかった。
その日の放課後、星野部長が部室の扉から、ボクたちの机の間の紙を、遠くから見て言った。
「あんたら、隣の席で筆談か。時代劇か」
「声が出ないんです」
ボクは答えた。
「知ってる。だからって、紙で会話するかね、普通」
「普通はどうするんですか?」
「普通は心配する」
ボクは、心配していますと言おうとして、やめた。
言い方がわからなかった。桃山さくらは黙って、紙を一枚、星野部長の方へ差し出した。
時代劇、好きです
星野部長はそれを見て、しばらく黙った。それから、ミルクティーを一口飲んで、小さく言った。
「あんた、そういうとこ、ずるいよね」
桃山さくらは笑っていた。




