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潮霧高校物語  作者: 杉山薫
十二月
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33/51

第一話

 雨の図書室で、桃山さくらは「…もう、やめる」と言った。


窓の外を見たままだった。

ボクの方は見なかった。

だから、ボクはその一言が何を指しているのかなんて、その場ではわからなかった。

演劇をやめるという意味だろうか。

演出助手をやめるという意味だろうか。

それとも、ボクが書いている朗読劇そのものをやめるという意味だろうか。


訊こうとして口を開いた。

だけど、桃山さくらは既にカバンを持って立っていた。

雨はまだ降っていた。

傘を差し出す暇もなく、彼女は図書室を出て行った。

扉の閉まる音が雨音より小さかったことを、ボクはなぜか妙に覚えている。


 帰り道、海は十一月の鉄色をまだ少し残していた。もうすぐ十二月だ。防波堤の向こうで波が低く鳴っていた。ボクは自転車を押しながら、桃山さくらの言葉を何度も頭の中で再生した。


「…もう、やめる」


何を?


演劇か。

演出助手か。

朗読劇か。

あるいは、ボクと何か。


四つ目を、ボクは思いついて、すぐに打ち消した。

打ち消すのがボクの癖だった。

小説なら、四つ目の可能性が一番面白い。

日常では、一番面白い可能性が一番外れている。

ボクはその時まで、そう思っていた。


雨は傘を持っていないボクの肩を静かに濡らした。ボクは傘を持っていたのに差さなかった。


なぜか、差す気にならなかった。


 家に帰って、ボクは会話メモを開いた。

今日のページに一言だけ書いた。


「…もう、やめる」


誰の言葉かは書かなかった。書くまでもなかった。あの声は桃山さくらの声だったから。このノートのルールは、ボクが決めている。他人の言葉を一字一句、書き留める。自分の気持ちは書かない。書いてしまうと小説の材料にならなくなる。そういうことに、ボクはしていた。


水萌(みなも)がリビングからボクを呼んだ。


「お兄、ごはん」 


ボクは返事をして、ノートを閉じた。

閉じる前に、もう一度、その一行を見た。


「…もう、やめる」


字はボクの字だ。

なのに、読む度に、桃山さくらの声で鳴る。


 翌週、十二月に入って教室の空気は急に薄くなった。

暖房がつきはじめて、窓は結露した。結露を指で拭うと、その向こうに鈍い銀色がちらりと覗く。


冬の海だ。


その日、桃山さくらはしゃべらなかった。


朝の会でも返事をしなかった。

出席を取られた。

「桃山」と呼ばれて、彼女は静かに手を挙げた。

声の代わりに、手のひらが、少しだけ宙に浮いた。


ボクは風邪だと思った。

声の出ない風邪というのがある。

でも、ボクはその日、彼女に話しかけなかった。話しかけられたくない日というものがある。

ボクにもある。

だから、そっとしておいた。


 三日目に、桃山さくらはボクの机の上に一枚の紙を置いた。ノートを破いた、四角い紙だった。


喉、休めてます


ボクは頷いた。


「歌手みたいですね」


ボクは苦笑いをした。


桃山さくらは目をまんまるにした。

それから、紙の裏に勢いよく何か書いて、ボクの方へ押し出した。


ちがいます


その文字が少し震えていたのを、ボクは寒さのせいだと思った。


 昼休み、桃山さくらは購買に行けなかった。声が出ないと注文ができない。ボクは彼女の分のパンを買ってきた。


カレーパン。


ボクは彼女が何が好きかを知らなかった。

だから、一番無難なのを選んだ。


「好きなの、これですか?」


ボクは訊いた。


桃山さくらは首を横に振った。それから、メモに書いた。


あんぱん


「あ、そうなんですね。次から、あんぱんにします」


桃山さくらは少し笑った。「次から」その言葉に彼女が何を思ったかはボクは知らない。

ボクはただ、カレーパンを食べた。

温かくて、おいしかった。


 その日の放課後、星野部長が部室の扉から、ボクたちの机の間の紙を、遠くから見て言った。


「あんたら、隣の席で筆談か。時代劇か」


「声が出ないんです」


ボクは答えた。


「知ってる。だからって、紙で会話するかね、普通」


「普通はどうするんですか?」


「普通は心配する」


ボクは、心配していますと言おうとして、やめた。

言い方がわからなかった。桃山さくらは黙って、紙を一枚、星野部長の方へ差し出した。


時代劇、好きです


星野部長はそれを見て、しばらく黙った。それから、ミルクティーを一口飲んで、小さく言った。


「あんた、そういうとこ、ずるいよね」


桃山さくらは笑っていた。


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