第五話
その夜、ボクは部屋で一人座っていた。雨はまだ降っていた。十一月が終わろうとしていた。
机の上に会話メモがある。
脚本がある。
拾ったまま、返せていないスマホがある。
桃山さくらのロック画面。
眠っているボク。
ボクはその写真を見た。
ずっと、見ていた。
もう、やめる
その言葉が何を意味するのか。
わからない。
やめるって、何を?
演劇をか?
この町をか?
それとも⋯⋯。
ボクはそこから先を考えるのが怖かった。
小説なら、こういう時に主人公は何かを悟って、次の行動に移る。
台本なら次のページにセリフが書いてある。
でも、日常には台本がない。
だから、この夜、ボクが書けたものは一つもなかった。
ただ、会話メモの白紙のページにボクは自分の名前を書いて、それから消した。
書いて、消した。
自分の言葉を書くのは怖い。
書けない。
それでも、一つだけ書き残したものがある。それはボク自身の気持ちではない。彼女の言葉だ。
演じてるだけかもしれない
書き終えて、ボクはその一行を、しばらく眺めていた。
会話メモのルールは他人の言葉だけを書くこと。
自分の気持ちは書かないこと。
そのルールをボクはこの夜も守っていた。
守っている限り、ボクは安全だった。
安全なまま、何も進まなかった。
そうして、十一月が終わった。
海は十二月の銀の色へ近づいていた。ボクはまだ動けないでいた。窓の外の海は鉄から銀へ移ろうとしていた。ボクは一生、その途中の色を忘れないだろう。
月曜日、教室。桃山さくらはいつも通りだった。朝の挨拶も、席に着く時の動作も、教科書を出す順番も、完璧にいつも通りだった。遅刻もしない。髪もきちんと結んである。休み時間には隣の女子と昨日のテレビの話をしていた。笑い方もいつも通りだった。笑うタイミングも声の高さも一秒もずれていなかった。
ボクはその隣で一つのことに気づいていた。
消しゴムが落ちない。
入学してからこの方、彼女は必ず、一日に三回は消しゴムを落としていた。
拾う度に、ボクは「よく落としますね」と言い、彼女は心の中で机を叩いていたというのは、今にして思えば、ボクの勝手な想像だけれど。
その日は一度も落ちなかった。
消しゴムは彼女の筆箱の横にきちんと収まっていた。使う時だけ手に取られ、使わない時は元の場所に戻った。
完璧な消しゴムだった。
ボクは背中が少し寒くなった。
午前の授業が終わる頃には、ボクは自分の手が少し震えているのに気付いた。
寒さのせいではなかった。教室は暖かかった。窓の外の海は十一月の終わりの鈍い色をしていた。
これが演技だ。
ボクははっきりとそう思った。彼女は今、桃山さくらという役を演じている。教室という舞台で観客であるクラスメイトに向けて、完璧に。
誰にも、気付かれないように。
ボクにも、気付かれないように。
いや⋯⋯。
気付かれるようにだったのかもしれない。
ボクに気付かれるように、消しゴムを落とさなかったのかもしれない。
役者の本気はいつも、そういうところに出る。
黒田賢太郎が稽古場で言っていた。
「一番うまい役者は、一番、黙る」
それがボクにはわかった。
わかったというのに⋯⋯。
ボクは何も言えなかった。
隣の席で桃山さくらが教科書を閉じた。
指先が少し赤かった。
十一月の終わりの冷たさのせいだということに、ボクはその時はした。
放課後、ボクはポケットに桃山さくらのスマホを入れて、教室を出た。
廊下で彼女を呼び止めた。
「これ」
ボクはスマホを差し出した。後夜祭の庭で拾ったものだ。画面にはヒビ一つ入っていない。
桃山さくらはそれを見て、少し止まった。
「…ありがとう」
受け取った。
それから、ボクを見た。
目はいつも通りだった。
土曜日の図書室のことは、まるで、なかったことになっていた。
「写真」
ボクは言いかけて、やめた。何を言えばいいのかがわからなかったからだ。
観察記録ですかと訊くのは失礼だ。
黒歴史にしますかと訊くのも失礼だ。
謝るのはもっと違う。
ボクが黙っていると、桃山さくらは小さく笑った。
「…桜田くんは」
「はい」
「…いつも、正しいことだけ言うんだね」
その言葉をボクはどう受け取ればいいのかなんて、わからなかった。
廊下の窓は開いていた。
磯の匂いがした。
遠くで部活の掛け声が聞こえた。ボクは何かを言おうとして、また、口を開いて、閉じた。図書室の日と同じだった。
「…それじゃ」
桃山さくらは背を向けた。背中が小さくなっていく。
十一月の鉄の色の夕方だった。
階段を下りる途中で、彼女はひとつ咳をした。
咳払いではなかった。
「風邪ですか?」
ボクは無意識にそう言っていた。
桃山さくらは振り返った。
「…ううん。なんでもない」
その声は咳の後だけ少し掠れていた。
それだけのことだった。
その日の夜。
ボクは部屋で会話メモを開いた。
新しいページに一行。
いつも、正しいことだけ言うんだね
そう書いて、ペンを置いた。
それから、前のページを捲った。
白紙のページがある。先週の夜、ボクが自分の名前を書いて、それから消した白紙。
電気の下で見ると、消しゴムの跡がうっすらと残っていた。
何が書いてあったのかは、もう、読めなかった。
読めないけれど。
そこに、何かが書かれていたということは、わかった。
十一月が終わった。
海は鉄の色のまま、十二月の銀へ移ろうとしていた。




