第四話
十一月の半ば、汐鳴座の稽古場。公民館ホールは土曜だけ、貸し切りになる。
窓の外には海が見える。
ここも、海が見える。
この町はどこからでも、海が見える。
ボクは演出助手という名の雑用をしていた。脚本を書いた人間は稽古に立ち会う権利と義務がある。特に、桃山さくらがそう決めた。脚本を書く人間が稽古を見に来ること。それが、彼女が演出助手を引き受ける時の唯一の条件だった。
二階の客席から舞台を見る。
桃山さくらがいた。
灯火の娘。
汐鳴座の次の公演の演目だ。研究生公演の二本立ての一本。既存の台本に自由枠があって、その枠にこの作品が入っている。
灯火の娘は死に行く誰かを見送る役だ。最後、彼女はひとり、客席に背を向けて、灯りを消す。それだけの役だ。でも、それだけの役がいちばん難しい。見送る人間の後ろ姿で、全部を演じきらなければならない。
桃山さくらは稽古に身が入っていなかった。
これはボクにもわかった。
彼女は声は出していた。
動きもついていた。
でも、間が違う。
彼女の持ち味は『間』だ。
一秒の沈黙の使い方。
その『間』がその日はなかった。
言葉が、言葉を、追い越していた。
演出の黒田賢太郎が止めた。
「桃山。今の、なんで急いだ?」
「すみません」
「急ぐ理由ある?」
「ありません」
「あるなら、言って。役に乗せられるから」
桃山さくらは黙った。
それから、小さく頭を下げた。
「ありません。ただ、集中できてなくて」
「集中できない理由も、役に乗せられるよ」
黒田賢太郎はそう言った。
彼は恋愛に興味がない。
芝居にしか興味がない。
だから、そういうことが平気で言える。
桃山さくらは答えなかった。
ボクは二階から、それを見ていた。
彼女が何に集中できていないのか、ボクにはわからなかった。
わからなかったけれど。その日、客席から見た桃山さくらの背中が文化祭の日の、あの背中と同じだったことだけは覚えている。
あの日、彼女は走り去った。ボクはその背中を追わなかった。
その日の稽古の帰り。
ボクは海原みつきに呼び止められた。
「桜田くん」
「はい」
海原みつきは、いつも明るい。
お節介で、空気を読んで、都合よく読み違える。
でも、この人はこの町で一番、桃山さくらを見ている人だ。
「さくら、最近、変でしょ」
「そうですか。稽古、少し、調子が悪いみたいで」
「そこじゃないよ」
海原みつきは首を横に振った。
「桜田くん。あのさ。文化祭の時、さくら、劇団のオーディション、受かってたの。知ってる」
「オーディション⋯⋯」
「夏に受けたの。研究生でも、本公演に出られるって。本番は二月。でも、さくら、それ、誰にも言わなかったんだよ。文化祭の稽古と重なるから」
ボクは動けなかった。
本公演。
二月。
桃山さくらがそのために、夏から準備していたということ。
それが文化祭と重なっていたということ。
その文化祭の日、ボクは桃山さくらに言った。
「劇団に行け」と。
自分の脚本の上演を蹴って。彼女の背中を押した。
ボクは彼女が何を捨てたのかを知らなかった。
知らないまま、ボクはいちばん優しいつもりで、一番残酷なことを言っていた。
「なんで、そんな話、今、ボクに?」
海原みつきはボクを見つめた。
「さくらが言わないから」
その一言にボクは言葉を返せなかった。
十一月も終わりに近づいていた。
雨の日だった。
海は鉄の色をしていた。
雨を含んだ空も、波も、水平線も、全部、同じ鉄の色で塗りつぶされていた。
音だけが違った。
波の音は、鈍くて、厚くて、何かをこらえているみたいだった。
図書室の当番だった。
当番は二人。
ボクと桃山さくら。
文化祭の委員会がそう組んだ。
偶然のふりをした采配。
職員室の誰かの意図。
ボクはその意図を、この時はまだ読んでいなかった。
図書室の窓際の席。
雨の日は図書室がいちばん静かになる。
誰も来ない。
本と。
雨音と。
ボクたちだけ。
桃山さくらはカウンターの向こうで、本の返却処理をしていた。動作は丁寧だ。一冊、一冊、表紙を確認して棚に戻す。彼女は家事全般がうまい。この町で祖父母と三人暮らし。両親は遠洋漁業でほぼ家にいない。
その背中をボクは見ていた。
文化祭からもう一か月経っていた。あれから、ボクたちは一度もあの日のことを話していない。
話さなくても日常は続く。
教室でも、当番でも、こうやって同じ空間にいる。
でも、あの日の「なんで」だけが宙に浮いたまま、二人の間にぶら下がっている。
処理が終わったらしい。
桃山さくらがカウンターから出てきた。それから、窓際の指定席に座った。ボクの三つ向こうの椅子。
雨が窓を叩いていた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。図書室の時計が進む音だけが聞こえる。
桃山さくらが口を開いた。
ボクの方を見ないで。
窓の外を見たまま。
「…桜田くん」
「はい」
「…私ね」
そこで、彼女は一度、止まった。
息を吸った。
それから、ゆっくり続けた。
「…私は演じてるだけかもしれない」
その言葉をボクはどう受け取ればいいのか、わからなかった。
演じてる。
何を演じているというのだろう。
役をか。
それとも、日常をか。
「演じてる」という言葉がボクの頭の中で回った。回って、回って、ひとつの意味に着地した。
そうか。彼女は自分の感情を疑っているのかもしれない。役者だから。
だから、ボクは言った。
優しく言った。
「そうだね。あなたは役者だもん」
その瞬間のことを、ボクはうまく説明できない。
桃山さくらは動かなかった。窓の外を見たまま、動かなかった。
でも、次の瞬間。
彼女の目から、静かに涙が落ちた。
音もなくというのは本当だった。図書室は静かで、雨音さえ遠くて、その涙は音を立てなかった。
それなのに、ボクは見てしまった。
はっきりと見てしまった。
涙がひとつ落ちる。
そのひとつを見て。
生まれて、初めて、ボクは理解した。
これは、演技じゃない。
本物だ。
役者 桃山さくらが、今、目の前で泣いているんじゃない。「さくら」が泣いている。
ボクは椅子から立ち上がろうとした。体が動かなかった。言葉を探した。見つからなかった。
何かを言わなければいけない。
ここで、何か言えば、間に合う。
そんな気がした。
いや、そういう確信だけはあった。
でも、何を言えばいいのかがわからなかった。
「好きだ」と言えばいいのか。
「ごめん」と言えばいいのか。
「演技、うまいね」と⋯⋯違う。それは一番言ってはいけない言葉だ。
ボクの口は開いて、閉じた。
開いて、閉じた。
その間に桃山さくらは立ち上がった。
拭わなかった。
涙を拭わなかった。
拭う仕草さえ、見せなかった。窓の外を見たまま。それから、静かに言った。
「…もう、やめる」
その一言を残して。
桃山さくらは図書室を出ていった。
雨が降っていた。
十一月の、鉄の色の雨が。
ボクは、椅子に座ったまま、動けなかった。窓の外の海を見ていた。
海は何も言わなかった。
ボクの会話メモには、その日の言葉が書かれていない。
書けなかった。
書けるはずがなかった。
彼女の最後の一言。
それをボクはノートに残さない。
残せるはずがなかった。
残してしまえば、それが物語になってしまうからだ。
物語にしてしまえば、ボクはそれを読んで、理解したつもりになってしまうからだ。
何ひとつ、理解できていないくせに。




