第三話
その夜、ボクは脚本を読み返した。
『潮鳴りのわすれもの』
文化祭で上演したボクの台本。ファイルを開く。それから印刷して、紙で読む。
画面で読むとどうしても、斜めから読んでしまう気がするからだ。
読み返してみると星野部長の言う通りだった。
ヒロインが主人公の名前を呼ぶ。確かに、その前で、彼女は少し間を置く。
台本にそう書いてある。
「…」と。
「…ねえ」と。
ボクはそう書いた。
なぜ、そう書いたのかは覚えていない。
ただ、自然だと思った。
そういう風に言葉が出るのが自然だと。
ヒロインが窓辺に立つ。
主人公の方へ、半歩、寄る。六回、そう書いてある。
ボクは手が止まった。
自然。
ボクが自然だと思って書いたもの。
その「自然」はどこから来たのか。
ボクは机の引き出しから会話メモを引っ張り出した。
一年分の他人の言葉。
ページをめくる。
「…知ってる」
これは入学してすぐ、部室で、ボクが「ここ、書くには最高なんだよ」と言った時の桃山さくらの返事だ。
「締切ですか」
これはバス停で小指を出された時のボクの言葉。
ボクの言葉は書かないはずだった。
でも、これは書いてあった。桃山さくらが笑ったから。
「…初めて来たけど」
これも桃山さくらの言葉だ。部室で彼女が口を滑らせた。
めくる。
めくる。
めくればめくるほど、ページの上に、一人の人間が浮かび上がってくる。
桃山さくら。
会話メモのほとんどが、桃山さくらの言葉だった。
他の人間の言葉はその日の一言か二言。
でも、桃山さくらの言葉はいつも、三言、四言。
ボクは無意識に、彼女の言葉を多めに拾っていた。
そして、その言葉たちが脚本の中にある。
ヒロインのセリフとして。
「…知ってる」という桃山さくらの言葉がヒロインの口から出ている。
「…初めて来たけど」という桃山さくらの言葉がヒロインの最後のセリフに近い形で置かれている。
ボクは自分の脚本を、もう一度読んだ。
読めば読むほどにわかった。
ボクが誰を書いていたのか。
わかった。
わかった、その上で⋯⋯。
「でも」
ボクは口に出して言った。
「桃山さんは演技がうまい」
そうだ。
彼女は役者だ。
研究生の最年少。
稽古場で彼女は別人になる。
声が変わる。
視界の取り方が変わる。
ボクはそれを何度も見た。
あの言葉たちがボクに向けられたものだったとして⋯⋯それは本当に、ボクに向けられていたのか。
それとも、ボクはただ彼女の『役』の中に自分を見ているだけなのか。
「勘違いしたら失礼だ」
ボクはそう思った。
この「礼儀正しさ」がこの夜、ボクが犯した、いちばん大きな罪だ。ボクがそう思うのは後になってからだ。この時点では、ボクはただ正しいことをしているつもりだった。
失礼だ
この三文字がボクの心を守っていた。ボクの心を守って、彼女を遠ざけていた。
ボクは脚本のファイルを閉じた。それから、会話メモの新しいページを開いた。
そこに、ボクは何かを書こうとした。
でも、書けなかった。
書くべき言葉が見つからなかった。




