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青の季節に、君のまなざしを識《し》る。  作者: 藍染
第一章 『あいつの幸せを願う私が、私の「好き」を、一番邪魔してる。』

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第8話 思わぬ同行者

 土曜日の朝。


 階下から漂ってくる、香ばしい出汁の香りと卵焼きが焼ける音で将太は目を覚ました。  

 意識がはっきりするにつれ、身体のあちこちが鈍い主張を始める。

 ベッドの中でゆっくりと背伸びをすると、太ももの外側の筋肉に、ピリリとした心地よい緊張が走った。


(――ん。あいたたた)


 将太は独り言をこぼしながらも、軽快にベッドを抜け出した。

 この程度の筋肉痛、中学時代のハードな合宿に比べれば、心地よい通過点に過ぎない。

 むしろ、身体が新しい競技に適応しようと書き換えられていく感覚だ。


 一階へ降りると、エプロン姿の母が、小気味よい音を立てて大根を刻んでいた。


「おはよう、将太。――あら、普通に歩けてるじゃない。這って降りてくるかと思ったのに」


 恵子が手を止め、将太を覗き込む。


「おはよう。一応三年間、バスケ部で揉まれてきたんだ。昨日くらいでダウンしてたら、中学の顧問に笑われるよ」


「そうね。元気ならいいわ。朝ごはん出来てるから冷めないうちにね」


 恵子が、出来立ての味噌汁と卵焼きと焼き魚、そして大きめの茶碗に盛られた香りのよいご飯を将太の前に置く。


「昨日の夜は、あんなに死んだ魚みたいな目をしてたくせに」


「それは言わないでよ、父さん。――まあ、次からは準備できてるから大丈夫だよ」


 家族三人が揃う賑やかな朝食。

 食事が一段落した頃、康介が新聞を丁寧に畳んで傍らに置いた。

 そして、少し真剣な面持ちで財布から数枚の紙幣を取り出す。

 それを指先で整え、食卓の隅、将太の手元へ静かに滑らせた。


「これを持っていけ。先輩に店を紹介してもらうんだろ。道具をケチって怪我をするのは、スポーツマンにとって一番の愚策だ。自分の身体に合う、納得のいく物を選んでこい」


「――ありがとう、父さん。大事に使うよ」


 将太は、父親の無骨だけど優しさがこもった紙幣を、丁寧に折り畳んでポケットの奥にしまい込んだ。


(よし。練習が終わったら、ちゃんとした動きが出来るよう、いい物選んでやる!)


 将太は心の中でそう決意し、玄関へと向かった。


 ―――


 将太は学校のジャージを羽織り、軽快に家を出た。  

 

 住宅街の角を曲がりアーケード街に入ると、和菓子屋「三日月堂」の店先は、朝から慌ただしい活気に満ちていた。


「菜奈、表の品書き、少し書き直しておいたわよ」


「あ、ありがとうお母さん! 今、こっちの番重運んじゃうから!」


 穏やかな声でお店の準備を進める菜奈の母親・早苗と、それに元気よく応える菜奈の声。

 将太が店の近くまで行くと、蒸し器の白い湯気の向こうから、エプロン姿の菜奈が番重ばんじゅうを抱えて現れた。


「おはよう、菜奈。朝からえらい威勢がいいな」


 将太が声をかけると、菜奈は額の汗を腕で乱暴に拭い、鋭い視線をこちらに向けた。


「あ、将太。ちょっと、呑気に挨拶してる暇ないわよ! 見て、この番重の山。注文が重なって、今日は1日、私は家の手伝いよ!」


「大変だな。でも、いい筋トレになるんじゃないか?」


「他人事だと思って! これ、あんたに持たせてやりたいわ。ってか、将太は今から部活? 良いわね、自由の身で」


「いや、俺だって必死だよ。今日は部活の後、先輩と新しいシューズを買いに行くんだ」


 将太がポケットの紙幣を意識しながら答えると、菜奈がいたずらっぽく笑って、将太の履き潰したバッシュを指差した。


「へえ、シューズ新調するんだ。……まあ、昨日のあんた、見てるこっちが不安になるくらいズルズルだったもんね。いい靴買って、少しはマシになりなさいよ!」


「……っ。余計なお世話だよ」


「おっ、将太か!」  


 店の奥から鉄平が顔を出し、威勢よく菜奈を呼ぶ。


「菜奈、無駄口叩いてないで手ぇ動かせ! ほら、そこの箱も運んでくれ!」


「お父さん、無駄口じゃないわよ! 将太が茶化してくるから――」


 いつものように親子で声を荒らげ始めた二人を見て、割烹着姿の早苗が、困ったように笑いながら割って入った。


「はいはい、二人とも喧嘩しないの。近所迷惑よ」


 早苗は鉄平を店の中へ促すと、和製の紙で包んだ焼きたてのどら焼きを、そっと将太に手渡した。


「あ、将太くん、良かったらこれ持っていって。疲れた時は甘い物よ。練習、頑張ってね」


「ありがとうございます、早苗さん。――じゃあ、菜奈。俺、行ってくるわ」


「しっかり走り込んできなさい! 私がこれ運んでる間に、あんたが先にバテてたら承知しないわよ!」


 菜奈はそう言って鼻を鳴らすと、店の奥から鉄平に「ほら、次!」と急かされながら、力強く店の中へと戻っていった。

 その背中からは、部活に行けない鬱憤を仕事にぶつけつつも、どこか家業を支える誇りを感じさせる、菜奈らしい気迫が溢れていた。


 ―――


 学校の部室棟。


 扉を開けると、そこには独特の熱気が漂っていた。

 汗の匂い、そしてグリップテープのゴムの香り。


「おっ、田頭。おはよう。――それで走り回るのも、今日が最後だな」


 主将の佐々木が、自分のラケットのガットを指で弾いて音を確かめながら、待ち構えていたように声をかけてきた。


「おはようございます、佐々木先輩。はい――今日、練習が終わったらよろしくお願いします」


「ああ、わかってる。そうだ、その靴で砂に翻弄される感覚、しっかり覚えておけよ。それが専用シューズのありがたみを知る一番の近道だからな。よし、全員集合だ!」


 佐々木の号令で、部員たちが一斉にコートへと飛び出していく。


 コートに集合する部員達、軽めのランニングを終え、まずは全員でショートラリーから練習が始まった。  

 隣のコートでは、二、三年生のレギュラー陣が鋭い低空の弾道を打ち合っている。

 ボールを捉えるたびに「パンッ!」という小気味よい乾いた音が響いていた。


 一方、一年生列に並ぶ将太は、ボールの重みに苦戦していた。

 ラケットの真をわずかでも外すと、手首にズンと重い衝撃が走る。


(――重い。当たる瞬間、ラケットが持っていかれそうになるな)


 面を少しでも被せすぎればネットへ、開きすぎれば大きくアウトする。

 将太は必死に膝を折り、ボールの下にラケットを滑り込ませようとするが、ステップの際、靴の底が空転し、打点がわずかに後ろにズレた。


 続いて、ベースラインからのストローク練習。  

 佐々木が球出しをする。

 放たれたボールは急激に順回転がかかり、バウンドした瞬間に生き物のように跳ね上がった。


「足を止めんな! もっと懐を広く作れ!」


 将太は右サイドへ大きく振られた球を追い、足を踏ん張ろうとした。

 だが、踏み込んだ瞬間に右足が外側へ逃げる。


(――っ、止まれない!)


 体勢を崩しながらも、将太は無理やりラケットを振り抜いた。

 しかし、不安定な土台から放たれたスイングは、力なくネットの白帯に突き刺さる。

 ふと視線を移すと、同じ一年生の経験者が、見事にスライディングしながら、ギリギリ食らいつきつつ、深い球を打ち返していた。

 その無駄のない動きに将太は言葉にできない焦燥感を覚える。


「打った後に元の位置へ戻るまでがショットだ! 踏み込みに力いれろ!」


 佐々木の厳しい言葉が飛ぶ。  


 次はボレーの練習だ。

 ネット際で飛び交う速球を捌く。


「手首を固めて、面をセットしろ! 足でボールを迎えに行くんだ!」


 将太はラケットを立て、一歩前へ踏み込もうとする。

 だが、一歩目の蹴り出しでコンマ数秒、反応が遅れる。

 ボールの勢いに面が負け、ラケットが弾かれるように上を向いた。


 練習を終え、整備用のブラシを引きながら、将太はコートのあちこちに残された足跡を見た。

 先輩たちの足跡は深く力強く、自分のそれは砂を撫でたように浅く流れている。


 ――くそっ。


 ―――


 一度部室に戻り、砂だらけのジャージを着替えた将太は、校門の前で佐々木と合流した。


「よし、行くぞ。俺の行きつけの店だ。帯屋町の方まで歩くが、いいな」


 二人は土曜夕方の活気に満ちたアーケードへと向かった。

 アーケードの中ほど、古い時計台の下まで来たときだった。


 逆光のなか、一眼レフを構える人影が目に飛び込んできた。  

 夕日に透ける、甘栗色の髪。

 光を含んで淡く輝いている。  


 ――間城先輩だ。  


 雑踏のなかにぽつんと、けれど誰よりも鮮烈にそこにあるその姿に、将太は足が止まる。


「――あ、将太くん。お疲れ様」


 ふわりとこちらを向いた彼女が、穏やかに微笑む。

 その瞬間、周囲の喧騒が嘘のように遠のき、将太は心臓の鼓動が耳元まで届きそうなほど跳ね上がるのを感じた。


挿絵(By みてみん)


「ま、間城先輩。お疲れ様です」


 将太は急に喉が渇いたような感覚になり、不自然に姿勢を正した。

 そんな将太を不思議そうに眺め、佐々木が隣で足を止める。


「なんだ、知り合いか?」


「あ、はい。美術部の、間城先輩です。この前、美術室でご挨拶させてもらって……えっと……」


 必死に説明する将太に対し、間城はスッと佐々木の方を向き、控えめに会釈をした。


「美術部二年の間城です。テニス部の主将さんですよね。よろしくお願いします」


「ああ、佐々木だ。……で、田頭に何か用か?」  


 佐々木は特に動じる様子もなく答える。

 間城は一度将太を見てから、穏やかに微笑んだ。


「偶然見かけたから、声をかけちゃった。……将太くん、これからお出かけ?」


「あ、はい。あの、佐々木先輩にテニスシューズを買いに連れていってもらうところで。……昨日のままだと、その、全然ダメだったので」


 しどろもどろになりながらも答える将太。

 間城は「テニスシューズか……」と呟き、一眼レフのレンズキャップを弄びながら少し考え込んだ。


「あの、もしよかったら、私もついていっていいかな? 昨日、将太くんが頑張ってるの見てたから。新しい靴を選んで、立ち姿がどう変わるのか……すごく興味があるんだ。写真の資料にもさせてもらいたいし」


 その真っ直ぐな瞳に見つめられ、将太は心臓の音が耳元まで届きそうなほど緊張した。


「えっ、あ、はい! 僕、僕は全然大丈夫ですけど……」  


 助けを求めるように佐々木を見ると、佐々木は「まあ、俺は構わねえけど。店でバタバタすんなよ」とあっさり受け入れた。


「ありがとう。じゃあ、お邪魔しないように、後ろからついていくね」

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