第7話 夕暮れのおじいちゃん
テニスコートを囲む防球ネットが、乾いた風に揺れて「キィィ――」と細い金属音を立てていた。
午後の陽光は、赤茶色のサーフェスを容赦なく照らし出している。
中学時代、バスケットボール部の活動拠点だった体育館の磨き上げられた床とは違い、ここは一歩踏み込むたびに「ザッ」と重い音が響き、足首が砂に食い込み、踏ん張ろうとするたびに力が外側へ逃げていく。
「おい、足が止まってるぞ! もっと膝を落とせ、下半身で打て!」
佐々木先輩の声が鋭くコートを裂く。
球出し機のように正確なノックが、将太の左右へ交互に放たれる。
黄色のボールは乾いた地表を滑るように低く弾み、不規則に跳ねる。
将太はそれを、文字通り死に物狂いで追いかけた。
キュッ、というバッシュのゴムが床を掴む音はここにはない。
代わりに、細かい土が靴底と地面の間で「ジャリッ」と不快な音を立てて滑る。
「はぁ、はぁ、はぁ――っ!」
肺が焼ける。
喉の奥からは鉄の味がこみ上げ、吐き出す呼吸さえ熱い。
汗が眉を伝って目に入り、強烈な痛みに視界が歪む。
反射的に右腕の袖で顔を拭うが、吸い込んだ汗で重くなったシャツの感触が、余計に皮膚をざらつかせるだけだった。
一歩、左。また一歩、右。
中学から履き潰してきたバッシュは、体育館の床を掴むために設計されている。
この土の上では、急停止しようとするたびに足首が外側へ持っていかれそうになる。
膝に溜まる疲労は、バスケの試合後のそれとは明らかに性質が異なっていた。
「……ラスト十本! 粘れよ!」
佐々木先輩の声に、将太は言葉にならない咆哮を上げて食らいついた。
最後の一球、大きく外側に逃げるボールをダイブするようにして拾い上げると、将太の身体はそのまま赤茶色のコートの上に力なく崩れ落ちた。
「……よし、今日はここまでだ。初日にしちゃあ、よく動いたな」
佐々木先輩が、少し心配そうに将太を見下ろしながら近づいてきた。
「将太、やっぱりそのバッシュじゃ限界があるな。テニス用のシューズじゃないと、無駄に体力を削られるし、何より捻挫しそうで危ない。――近いうちに、いい店を紹介してやるよ。俺の行きつけで、店長がめちゃくちゃ詳しい店があるんだ。そこならお前に合う一足が見つかるはずだ」
「……ありがとうございます――。お願いします――」
喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。
佐々木先輩は「しっかりな」と軽く肩を叩くと、軽やかな足取りで部室の方へと去っていった。
将太はしばらく、空を仰いだまま動けなかった。
四月の空はどこまでも高く、高知城の天守閣の端に、ゆっくりと夕刻の茜色が混ざり始めている。
重い鉛のような腕を動かし、将太はトンボを手にした。
一年生の仕事だ。
コートに残った無数の足跡を消し、平らにならしていく。
木製のトンボを引くたびに、「サーッ」という静かな音が夕暮れのコートに染み渡っていった。
ようやく部室で着替えを済ませ、通学用のローファーに履き替えて校門へと続く通路を歩き始めた頃、高知城の天守閣は完全に燃えるような朱に染まっていた。
校舎が長い影を落とし、窓ガラスが夕陽を反射して鋭く輝いている。
「はぁ――。本当に、きついな――」
将太は校門の少し手前、樹齢を重ねた大きな松の木の影で立ち止まり、膝に手をついた。
心臓の鼓動がまだ耳の奥で、警鐘のようにドクドクと鳴り続けている。
膝は自分の意志を無視してガクガクと震え、一歩足を前に出すのにも、全身の筋力を総動員して「よっこいしょ」と念じなければならないような有様だった。
「ちょっと、将太。――何その姿、おじいちゃんみたい」
背後から、クスクスと笑いを含んだ声が聞こえてきた。
振り返ると、少し毛先を濡らした菜奈が立っていた。
彼女の周りには、プールの塩素の匂いと、清潔なバニラの香りが漂っている。
菜奈は将太のくたびれように一瞬目を丸くしたが、すぐにいつもの悪戯っぽい表情で歩み寄ってきた。
「あ、菜奈――」
「あはは、何、その声。一気に入学式から五十年くらい経っちゃった? 腰、曲がってるよ。ほら、ちゃんと背筋伸ばして」
菜奈はそう言うと、将太の背中にポンと手を置いた。
その手の温かさが、疲れ切った将太の身体に妙にリアルに伝わる。
菜奈の隣には、水泳部の仲間たちもいた。
菜奈は一度、仲間に視線を向けると、さらりと言った。
「みんな、先に行ってて! アイス、バニラのやつ一本キープしておいて。すぐ追いつくから」
仲間たちが「お先にー!」と笑いながら去るのを見届けると、菜奈は将太の正面に回り込み、まじまじと彼の顔を覗き込んだ。
「ひどい顔。鼻の頭に砂ついてるよ。……ほら、動かないでよ」
菜奈は指先で、将太の鼻先をちょんと拭った。
あまりに自然な動作に、将太は言葉を失う。
菜奈の指先からは、冷たい水に触れていた名残のような、涼やかな体温が伝わってきた。
「……あ、ありがとう」
「お礼はいいから。はい、これあげる。特別配給」
菜奈はスポーツバッグから、スポドリのペットボトルを取り出した。
表面には細かな水滴がびっしりとつき、夕陽を透かして宝石のように光っている。
彼女はそれを将太の頬に「ひゃっ」と声が出るほど冷たく押し当ててから、手渡した。
「飲みなよ。せっかく入学祝いにうちの『粘り腰団子』食べたんだから、一日で腰砕けなんてお父さん泣くよ? 明日も部活、あるんでしょ?」
「――ありがとう。生き返るな」
一気にスポドリを流し込むと、ようやく人心地がついた。
菜奈は将太が飲み干すのをじっと見ていたが、ふっと口角を上げた。
「一生懸命やった証拠でしょ? 似合ってるよ、今の将太。テニス、結構向いてるんじゃない? 少なくとも、その疲れ具合は満点だよ」
「……そうか?」
「そうだよ。あ、そうだ。シューズはどうするの? まさかずっとそのボロボロのバッシュでやるつもりじゃないよね?」
「いや、さっき先輩に『いい店紹介するから今度買いに行こう』って言われたんだ。」
「そっか。じゃあ新しい靴を買ったら、もっとシャキシャキ動きなよ。いつまでもそんなヨボヨボしてたら、明日からも『おじいちゃん』って呼び続けるからね!」
「わかっているよ。……明日には治る」
菜奈は「はいはい、期待してるよ!」と明るく手を振り、夕闇の向こうへと消えていった。
彼女が去った後には、かすかなプールの塩素の匂いだけが残っていた。
「お疲れ。将太」
不意に横から声をかけられ、将太は肩を震わせた。
校舎の影から、静かに雄一が歩いてきた。
「なんだ、雄一か。……ひどい顔だろ」
「ほぼほぼおじいちゃんだな。菜奈は、先に行ったのか」
「ああ、部活の仲間とアイスの約束があるんだって。あいつも元気だよな」
雄一は小さく頷き、将太のゆっくりとした歩調に合わせて歩き出した。
「そうだな。あいつも、もうすっかり馴染んでるみたいだ。置いていかれないように、僕らも自分のやるべきことをやらないとな」
「……だな」
二人は並んで、追手筋を渡ってアーケードへと向かった。
夕暮れの風が、汗ばんだ身体に心地よい。
アーケードに入ると、晩酌の準備を急ぐ主婦や、部活帰りの学生たちで賑わいを見せていた。
コンビニの前を通ると、窓越しにアイスを選んでいる菜奈と仲間たちの姿が見えた。
彼女の楽しそうな様子を、二人は少し離れた場所から眺めた。
「菜奈、楽しそうだな」
「ああ。いいことじゃないか」
雄一の言葉は短かったが、そこには優しさと微笑ましさがこもっていた。
と、その時。
アーケードの一角から、香ばしい醤油の匂いと、油の揚がる音が漂ってきた。
将太の腹が、自分でも驚くほど大きく「ぐぅ」と鳴った。
「……腹が減ったな」
「奇遇だな。僕もだ」
二人が足を止めたのは、昔ながらの精肉店の前だった。
店先には「揚げたて」の札。
二人は顔を見合わせ、無言で小銭を取り出した。
「おばちゃん、コロッケ二つ」
「はいよ、熱いから気をつけてね」
紙袋に包まれた熱々のコロッケを受け取ると、将太は待ちきれずにガブリと噛みついた。
サクッ、という快音と共に、甘いジャガイモの香りと挽き肉の旨味が口いっぱいに広がる。
「熱っ……。でも、めちゃくちゃうまいな」
「ああ。アイスより、今はこっちの方が身体に染みる」
雄一も、行儀良く、けれどしっかりと大きな一口を頬張っている。
甘いアイスを囲んで笑う菜奈たちの世界。
熱いコロッケを頬張りながら歩く、自分たちの道。
どちらも、今日という日を全力で駆け抜けた報酬だった。
街灯が灯り始めた帯屋町。
二人の背中は、昨日よりも少しだけ大きく、けれど変わらない友情を湛えていた。
「雄一……俺、明日、まともに歩ける自信がないよ」
「明日、その辺で座り込んでいても、助けてはやらないからな。」
将太は苦笑いしながら、コロッケの最後の一欠片を口に放り込んだ。




