第6話 「瞬間」を追いかけて
北校舎にある美術室。
重い木製の扉を前に、橋本雄一はわずかに呼吸を整えた。
入部届を出してから初めての放課後活動。
今まで放課後を一人で過ごすことが多かった彼にとって、自ら踏み出した新しい場所への一歩は、柄にもなく指先に微かな硬さを感じさせていた。
扉を開けると、鼻を突く油絵具の香りに混じって、午後の陽だまりを凝縮したような微かな甘い匂いが漂ってきた。
「失礼します」
声をかけると、窓際の席にいた甘栗色の柔らかな髪がわずかに揺れた。
「あ、雄一くん。いらっしゃい。待ってたよ」
振り返ったのは、二年生の間城先輩だった。
サイドの髪を後ろで軽くとめただけの飾らない姿は、彼女の澄んだ瞳と凛とした横顔を際立たせている。
「今日からだね。改めて、美術部へようこそ。他の皆は新入生の勧誘で中庭に出てるから、今は私一人だけど。あ、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。ここは自由な場所だから」
間城は雄一のわずかな強張りを見抜いたのか、鈴を転がすような声で控えめに微笑んだ。
「こっちに来て。私の隣、ここを使ってみようか」
先輩に手招きされるがまま、促されたイーゼルの前に腰を下ろす。
すぐ隣に座る先輩の存在に、雄一はまだ少し落ち着かない様子でいたが、ふと彼女の傍らにあるイーゼルに目を止めた。
そこにあるキャンバスは、西日に照らされて眩しいほどに真っ白なままだった。
そして先輩の視線は、その白さを通り越して、窓の外へと向けられている。
「よろしくお願いします。――先輩は、今は描くよりも外のほうが気になるようですね」
間城は少し照れくさそうに視線を戻し、手元のスケッチブックへ目を落とした。
「そうね。なんだか、あの子の動きが少し気になって」
間城が指さす窓の下、グラウンドの隅では、将太が赤茶色のコートを必死に駆け回っていた。
「将太、ですか」
「そう、将太くん。昨日からずっとあそこにいるでしょ? 失敗しても、転んでも、すぐに立ち上がって。……なんて言うのかな。あの、ぐちゃぐちゃに砂を巻き上げるみたいな感じ。見てると、なんか創作意欲?を刺激されるの」
間城は頬杖をつき、じっと将太を観察していた。
彼女の描く静かな世界とは正反対にある、その泥臭く、整理されていない生身のエネルギーに、何かを突き動かされているようだった。
ちょうど外で、将太が派手に転倒するのが見えた。
「あ」
間城は窓に顔を近づけた。
将太はすぐさま立ち上がり、膝の砂を雑に払うと再びラケットを構える。
その動作に迷いがない。
「ふふ、タフだね。あの土埃が舞い上がる一瞬の線というか……そういうの、今の私には描けない気がする。うーん、でもだめ。ここからじゃ、全然分からない」
間城はそう呟き立ち上がると、棚から一眼レフカメラを取り出してきた。
「先輩?」
「雄一くん、私、ちょっと下まで行ってくる。近くでちゃんと見ておきたいの。写真に撮って、今のこの感じを捕まえておかないと。ああいう、瞬間的ものって、すぐ消えちゃうから!」
間城はストラップを肩にかけると、足早に出口へと向かった。
「雄一くん、部室のこと、少しだけお願いしてもいい? 後で皆も戻ってくると思うから」
「構いませんが、驚かせないようにしてくださいね」
「ふふ、そんなに怪しい動きはしないよ。じゃあ、行ってくるね」
扉が静かに閉まる。
将太という素材が、静かな先輩の足を外へと向けさせた。
雄一は美術部員としての最初の一歩を噛みしめるように、窓の外を一度だけ見やり、再び自分のキャンバスへと向き直った。
――
同時刻、屋内外兼用プール。
水泳部は本格的なシーズン始動前で、館内にはまだ少しのんびりとした空気が漂っていた。
プールサイドでは、一年生たちが準備をしながら言葉を交わしている。
「ねえ菜奈ちゃん、さっきのメニュー、結構きつくなかった? 私、もう腕が上がんないよ」
そう言って肩を回すのは、同じ一年生の橋本真里菜だ。
「そうだね。私もそれなりにキてるけど、これくらいやらないと泳いだ気がしないっていうか。真理亜、ストレッチ手伝おうか?」
「助かる。菜奈ちゃんはやっぱりタフだよね。中学の時もそうだったの?」
「あはは、じっとしてる方が疲れる性格なだけだよ」
菜奈が答えると、隣にいた男子部員の健太が感心したように言った。
「でも、さっき先輩たちが菜奈のフォーム見て、一年であれは相当やり込んでるって言ってたぞ」
「ほんとに? あ、冬の間もサボらずやってきたしね。でも、先輩たちに比べたらまだまだだよ。もっとスピード上げないと」
その真っ直ぐな態度は、すでに同級生たちの間でも自然と一目置かれる程になっていた。
「よし、一年生、次は五十メートルの計測行くよ!」
三年生の先輩の声が響く。
「はい! 行こう、みんな」
菜奈は短く答えると、スタート台に立った。
その瞬間、先ほどまでの明るい表情が消える。
シリコンキャップを深く被り、ゴーグルを装着する。
一気に視界が青く染まり、外界との境界が引かれた。
フェンスを隔てたすぐ隣からは、テニス部の打球音と、早くも熱を帯びた主将の怒声が流れ込んでくる。
(騒がしいわね)
菜奈は一瞬だけ口角を上げたが、すぐに意識を水面へと固定した。
ピーッ、という笛の音。
菜奈の体は弾丸のように水面へと吸い込まれた。
ドブン、という衝撃。
一瞬にして喧騒が消え、代わりにゴォッという水の流動音が全身を支配する。
半分開いた屋根から差し込む光が、水中では揺らめくカーテンのように形を変え、彼女の進むべき道を示していた。
菜奈は深い潜水から浮上し、力強いストロークを開始した。
(もっと、鋭く。指先の角度を意識して)
彼女は自分の限界を、物理的な距離として感じていた。
ターンのたびに壁を蹴り飛ばす足の裏の感触。
肺が熱くなり、心臓が激しい鼓動を刻む。
水の中でも、隣のコートで将太が土を蹴り上げる鈍い振動が届くような気がした。
あいつはあそこで、コートと。
自分はここで、水と格闘している。
最後の一掻きを終え、水面へと顔を出した。
「ぷはっ!」
肩で息をしながらゴーグルを外すと、タイムを計っていた先輩が驚いた顔をしていた。
「菜奈ちゃん、いいタイムだね。この時期にそれだけ出せれば十分だよ」
「ありがとうございます。でも、もうちょっと後半粘れたかなって思います。次はもっと意識してみますね」
菜奈はタオルで顔を拭きながら、自分の泳ぎを冷静に振り返る。
「真里菜、健太、お待たせ。二人も今のうち一本しっかり泳いじゃいなよ。終わったらアイスでも食べて帰ろう!」
仲間に明るく声をかけ、彼女はプールから上がった。
けれど、その奥で彼女の心は、掲示板の数字を冷徹に見つめていた。
ふと隣から聞こえてくるテニスコートの喧騒に、我に返る。
彼女は再びフェンスの向こう側へ視線を向けた。
――がんばれ、将太!
――
一方、テニスコート。
「足が止まってるぞ一年! 自分がどこに立ってるか分かってんのか!」
佐々木主将の怒声が、夕暮れのグラウンドに突き刺さる。
コートには、将太を含めた数人の一年生が、左右に激しく振られるノックの雨にさらされていた。
「はぁ、はぁっ……くそっ!」
将太の隣では、中学からの経験者である石田が、必死に食らいつきながらも膝を震わせていた。
反対側のコートでは、大人しい性格の長谷川が、あまりのハードさに今にも泣き出しそうな顔でボールを追っている。
佐々木の放つボールは、あえて届くか届かないかの絶妙なコースを突いてくる。
ただ追いつくだけでは不十分だ。
そこから力強く踏み込み、正確に打ち返さなければ、間髪入れずに罵声が飛ぶ。
「田頭! お前のスイングはただの力任せだ! 下半身で打てと言ってるだろ!」
「はい!」
将太は泥を蹴り上げた。
ハイカットのバッシュは、テニスコートの砂を吸って鉛のように重い。
フォームなんて意識する余裕はない。
ただ、あそこに飛んできた球を、絶対にコートへねじ込む。
その一念だけで体を投げ出した。
バウンドしたボールが、不規則にイレギュラーする。
将太は咄嗟に左足を深く踏み込んだ。
靴の底がグチャリと土を噛み、滑る寸前で体が止まる。
無理な姿勢のままラケットを振り抜くと、鈍い音とともにボールがネットに突き刺さる。
「……チッ、しぶといな」
佐々木が小さく舌打ちしたのを、将太は見逃さなかった。
それが嬉しくて、将太の唇の端がわずかに上がる。
だが、その瞬間だった。
カシャッ。
金網越しに、場違いなほど乾いた電子音が響いた。
将太は思わず視線を向け、飛んできた次のボールを空振りしてしまう。
「どこ見てんだ田頭! 集中しろ!」
「あ、すみませ……」
謝りかけながら、将太は金網の向こうを見た。
そこには、一眼レフを構えた美術部の間城先輩が立っていた。
彼女のレンズは、確かにこちらに向けられている。
将太は困惑した。なぜ先輩がここに。
なぜ自分を撮っているのか。
間城は、将太の視線に気づくと、ゆっくりとカメラを下ろした。
逆光の中で、彼女の甘栗色の髪が透き通るように輝いている。
彼女は将太の泥だらけの姿を見て、まるで貴重なものを見つけた子供のように、ふわりと微笑んだ。
(……な、 なんで笑ってるんだ?)
菜奈の意地悪な笑いとも、雄一の淡々とした視線とも違う。
自分の「泥臭さ」を、まるで美しい色でも見るかのような、真っ直ぐな肯定。
苦しそうな顔をしてた石田や長谷川も間城をちらりと見た。
そして動かなくなった。
――二人とも見惚れて固まってしまった・・・
彼女の存在は、殺伐としたコートの空気を一瞬だけ凪色に変えた。
「田頭、次だ! 構えろ!」
主将の催促に、将太は慌てて前を向く。
だが、不思議と体は軽かった。
さっきまでの、肺が焼けるような苦しさが、どこか心地よい熱に変わってく。
見られている。
自分がこの泥にまみれて、必死に足を動かしている瞬間を、あの先輩は「何か」だと思って撮ってくれている。
カシャッ、カシャッ。
背後で続くシャッター音をリズムに変えて、将太は再び、赤茶色の土を力強く蹴り出した。
美術部としての第一歩に、静かな覚悟を決める雄一。
水底の孤独を仲間との笑顔で隠し、限界を塗り替える菜奈。
そして、レンズ越しに見つめられながら、未完成な熱をコートに刻みつける将太。
放課後の琥珀色の光の中で、三人の足音は、それぞれの場所で重なり始めていた。




