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青の季節に、君のまなざしを識《し》る。  作者: 藍染
第一章 『あいつの幸せを願う私が、私の「好き」を、一番邪魔してる。』

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第5話  入部届

 四月、高知の朝。


 陽光がアーケードのドーム状の屋根を白く透かし、街全体が巨大な温室のような柔らかな熱を帯び始めている。  


 将太は、まだ馴染まない紺色のブレザーに落ち着かなさを感じながら、いつもの待ち合わせ場所へと急いでいた。

 

 右手には教科書の詰まったスクールバッグ、左手には中学時代から使い慣れた黒いエナメルバッグ。

 中には、昨日丁寧に汚れを落としたハイカットのバスケットシューズが収まっている。

 テニス用の靴を揃えるまでは、一番信頼できるこいつに頼るつもりだ。


「――よし」


 帯屋町アーケードの入り口。


 まだ多くの店がシャッターを下ろしているが、青果店の店先には瑞々しい文旦や小夏が並び始め、清々しい柑橘の匂いが朝の澄んだ空気に混じっている。  

 

 将太が待ち合わせの街灯の下に辿り着くと、そこにはすでに、簡単にまとめたお団子ヘアを揺らしている戸澤菜奈がいた。


「おはよう、遅いよ将太。まだちょっと寝癖ついてるし。そこ、右の後ろ」


 菜奈は柱に背を預けながら、クスクスと笑って指を差した。

 彼女の肩にはスポーツバッグが掛けられている。

 バッシュのせいで膨らんだ将太のバッグに比べれば随分と身軽に見えるが、その瞳には新しい環境でのやる気が宿っていた。


「――悪い、直すよ。昨日の夜、寝る前に少し素振りの真似事なんてしてたら、つい熱中しちゃってさ」


 将太が頭を掻きながら歩み寄ると、菜奈は楽しそうに将太を覗き込んだ。


「素振り? でも将太、まだラケット持ってないじゃない。菜箸(さいばし)か何か振ってたの?」


「なわけないだろ。適当な棒だよ。感覚を忘れたくなかったんだ」


「棒って……。それ、はたから見たら相当怪しい。近所の人に通報されなかった?」


「庭でやってたんだよ。しかも、振り始めたら意外と奥が深くてさ」


「棒振って奥が深いも何もないでしょ。なんだか危ない人みたい、コワー」


「うるさいな。これでも重心の取り方とか、色々研究してたんだよ」


「ふーん。まあ、将太らしいけど。でも今日からは本物のラケット振らせてもらえるんだから、変な棒は卒業しなさいよ」


 菜奈はいたずらっぽく笑うと、軽やかなステップで歩き出した。


「菜奈こそ、朝練終わった後とか、授業中にうたた寝するなよ?」


「しないわよ。水から上がった時が一番シャキッとするんだから」


 二人のローファーの音がアーケードに規則正しく反響する。

 まだ人通りがまばらなこの時間は、街全体が自分たちのものになったような、不思議な開放感があった。


「――二人は朝から賑やかだな」


 背後から、小さい、けれど通る声が響いた。

 振り返ると、橋本雄一が、いつものように無表情のまま、けれどどこか余裕のある歩調で二人に追いついてきた。


「おはよう、雄一。全然足音しなかったな」


「二人の声が大きすぎるだけだ。……二つ先の交差点まで聞こえてたぞ」


「嘘だろ、そんなに?」


 菜奈が少しだけ頬を赤くして、バッグのストラップを握りしめた。

 雄一はそんな二人の様子を横目に、淡々と歩を進める。


「将太、そのバッシュでテニスをやるのか」


「ああ。体育館シューズよりは、こっちの方が動きやすいしさ」


「なるほど。テニスはバスケより横の動きが激しいからな。……まぁその靴なら、怪我はしないだろ」


 雄一は軽く鼻を鳴らすと、そのまま真っ直ぐ前を見て歩き出した。


「もう、雄一は朝から理屈っぽいわね。ねえ、将太?」


「――はは、そうだな。でも実際、昨日は靴が滑って踏ん張りがきかなかったからさ。今日はこいつでしっかりやってみるよ」


 アーケードを抜けようとした所で菜奈が後ろを振り返った。


「あ、見て。私ん家の前の看板、お父さんが書き直してるんだぁ」


 菜奈が指差した先。

 三日月堂の前に置かれた立て看板には、鉄平さんの筆による力強い文字で『新入生応援! 新作!粘り腰団子、本日増量中』と書かれていた。

 昨日食べた、あの喉奥に重さの残る団子の味が口の中に蘇る。


「おじさん、本気で売りに出してきたのか。いや、美味かったけど、やっぱり俺は毒見係か」


「みたいだね。将太がテニス部でヘトヘトになって帰ってきたら、とびきり美味しい”次の新作団子”が待ってるかもね」


 将太が苦笑いすると、菜奈もつられて声を上げて笑った。


 三人は、並んで坂を登っていく。

 中学の三年間、毎日繰り返してきたはずのこの光景が、今はどこか、映画のワンシーンのように鮮やかに感じられた。


 ――


 一時間目の英語の授業。


 窓から差し込む春の陽射しは、昨日よりも少しだけ強い。


 将太は、頬杖をつきながら、ふと窓の外へ目を向けた。  

 校舎の三階から見下ろすグラウンドの隅。

 そこには、赤茶色のクレーコートが並んでいる。

 まだ誰もいないコートは、静かに放課後を待っているようだった。


 昨日、ラケットの真ん中でボールを捉えた時の、あの「ズン」と腕に響いた重み。

 空を切る音。

 思い出すだけで、右の手平が少しだけ熱くなる。


「田頭くん、そこ、訳してみてくれる?」


 不意に先生に指名され、将太は椅子をガタつかせて立ち上がった。

 隣で雄一が、呆れたようにノートの端で一箇所を指し示してくれる。


「……あ、はい。ええと、"They decided to start a new journey."――彼らは、新しい旅を始めることに決めた、です」


 先生が満足げに頷く。

 将太は安堵して席に座り、雄一に苦笑いを見せたが、雄一はすでに自分の世界に戻り、黙々とスケッチブックにペンを走らせていた。


「おい、雄一……サンキュ」


「――集中しろ。窓の外を見たって成績は上がらないぞ」


 雄一は下を向いたまま、小さな声で釘を刺した。


 ――いや、お前も隠れてスケッチしてるじゃん。……なんでそれで今の問題分かるんだよ。


 二時間目と三時間目の間の休み時間。  

 教室の後ろで、男子たちが昨日から始まった部活の体験談で盛り上がっている。


「マジでキツかったぞ、野球部。グラウンド十周とか、中学の比じゃないわ」


「俺はサッカー部行ったけど、先輩たちが上手すぎてビビった」


 そんな声を背中で聞きながら、将太は足元のエナメルバッグをそっと蹴った。

 中には、バッシュが入っている。  


「将太、また外見てる」


 前の席から菜奈が振り返る。

 彼女の机には、すでに次の時間の数学の教科書が開かれていた。


「……別に。グラウンド見てただけだよ」


「嘘。テニスコート見てたでしょ。分かりやすいんだから」


「……そんなことないって。菜奈こそ、水泳のこと考えてるんじゃないのか」


「私は準備万端。今日は五百メートル、全力で泳ぎ切るって決めてるんだ」


 菜奈の真っ直ぐな言葉に、将太も自然と高揚していく。


 四時間目が終わり、昼休み。  

 喧騒に包まれる教室を抜け出し、将太は購買で買ったパンを片手に、中庭に面した廊下を歩いていた。  


 ふと、窓の外の渡り廊下に目を向けると、甘栗色の髪を揺らしながら歩く一人の女子生徒の姿が目に留まった。


「あ――」


 間城先輩だ。


 彼女は一人、キャンバスバッグを肩にかけ、中庭の木漏れ日の中をゆっくりと歩いていた。


 その横顔は、昨日の放課後に見せた穏やかな微笑みとは違い、どこか一点をじっと見つめているような、真剣な眼差しを帯びていた。  

 彼女の手には、スケッチブックが握られている。    

 

 将太は思わず足を止めて見入ってしまった。

 

 ――先輩は、何を描こうとしているのだろう。  


 間城は将太に気づくことなく、そのまま北校舎の美術室がある方へと消えていった。


「……よし」


 将太は最後の一口を飲み込み、胸の奥に灯った感覚を確かめた。  

 あの一打の音を、もう一度聞きたい。今度はホームランじゃなく、コートの内側に、自分だけの音を響かせたい。


 ――


 放課後を告げるチャイムが鳴る。将太は誰よりも早くカバンをまとめ、立ち上がった。


「……早いな、将太。そんなに部活が楽しみか」


 隣の席で雄一が、教科書をカバンに仕舞いながら、少しだけ面白そうに言った。


「ああ。……今日から正式に入部届を出すし、ちゃんとやりたくてさ」


「そうか。……じゃあ、俺も美術室に顔出してくる。また明日な」


 雄一は軽く手を上げると、迷いのない足取りで北校舎へと消えていった。


 将太はテニスコートへと向かう。

 昨日よりも少しだけ西日が強く、グラウンドの砂がキラキラと輝いている。

 コートに着くとそこにはすでに、昨日ラケットを貸してくれた主将の先輩の豪快な声が待っていた。


「おう、待ってたぞ! 今日も来たな!」


「失礼します! 一年三組、田頭将太です。入部届を持ってきました!」


 コート内に響き渡る声。主将の先輩はニヤリと笑って、将太の手から入部届を受け取った。


「よし、受理した。今日からお前も、正式な部員だ。……俺は三年の佐々木裕司(ささき ゆうじ)だ。この部の主将だ。よろしくな、田頭」


「よろしくお願いします、佐々木先輩!」


「おう。……お、バッシュか。まぁ、テニスシューズを持ってないなら一旦それでもかまわん。今日は昨日みたいに飛ばすなよ?」


 将太は、履き慣れたバッシュの紐をきつく締め直し、コートの土を初めて踏みしめた。

 ジャリ、という感触。体育館の床とは違う、少し不安定で、けれど確かな地面の重み。

 将太はラケットを握り、自分の影を見つめた。

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