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青の季節に、君のまなざしを識《し》る。  作者: 藍染
第一章 『あいつの幸せを願う私が、私の「好き」を、一番邪魔してる。』

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第4話 はじまりの打球音

 北校舎から漂う油絵具の匂いは、グラウンドへ向かう風に吹かれて、あっという間に消えてしまった。  


 菜奈に腕を引かれ、辿り着いたテニスコート。

 そこには、中学時代の体育館にあった「密閉された熱狂」とは正反対の、抜けるような開放感があった。


「――じゃあね、将太。あんまりぼーっとしてると、先輩に怒られるよ」


 菜奈はそう言い残すと、隣接する屋内外兼用プールへと駆けていった。

 彼女にとっての放課後は、自分を研ぎ澄ますための神聖な時間だ。

 フェンス越しに見える彼女の背中は、陽光を反射する水面へと向かっていく。


 将太は一人、テニスコートを囲う金網のそばに立ち尽くした。  


 雄一はさっさと帰ってしまい、菜奈はプールへ。

 急に一人取り残されたような感覚。

 

 まだ入部を決めたわけではない。

 昨日配られた冊子を眺め、なんとなく「テニスがいいかもな」と思っただけだ。

 手にはラケットもなく、服装も制服のままだ。  

 

 コート内では、二年生や三年生が乾いた音を立ててラリーを続けている。

 西日に照らされたクレーコートは、激しいフットワークが繰り出されるたびに、赤茶けた土埃を低く巻き上げていた。


 ――俺が、あそこに混ざるのか?


 自分の手を見る。


 中学までは、この手でボールを追い、コートを駆け抜けてきた。

 部活という場所は好きだ。

 仲間と汗を流す時間も。

 けれど、今の俺にとってはやはり重荷に思える。


 美術室で間城先輩に言われた言葉が、耳の奥で微かにリフレインする。


 ――何も持っていない手って、これから何を掴んでもいいってことでしょう?


 その通りだ。


 何も掴んでいないからこそ、まだここを去ることもできる。

 金網のこちら側にいれば、自分は「真っ白な自分」のままでいられる。


「おい、そこの一年生! ずっと見てるだけか?」


 不意に、太い声が飛んできた。

 反射的に顔を上げると、ラケットを肩に担いだ先輩が、金網の入り口からこちらを値踏みするように見ていた。


「あ、すいません。見学というか、まだ迷ってて」


 将太は、それとなくぎこちない笑みを浮かべて答えた。

 その表情に先輩の強面が少しだけ緩む。


「迷う? テニスコートの前まで来て、何に迷うことがあるんだ。お前、名前は?」


「えっと、田頭将太です」


「田頭か。よし、田頭。そんなにひょろっとしてて、運動部か?」


「一応、中学はバスケをやってました」


「バスケか。なら足の運びだけはマシかもな。――おい、誰か予備のラケット一本貸してやれ!」


 先輩は将太の返事も待たず、強引にコートの中へと手招きした。  

 なし崩し的に踏み入れたコート。

 ローファーが乾燥した土を噛み、ジャリ、と頼りない音を立てる。

 渡されたのは、グリップが少し擦り切れた、使い込まれた貸出用のラケットだった。


「ほら、握ってみろ」


「――思ったより、ずっと重いです」


「だろ。そいつで、あそこにある黄色い球をひっぱたくんだ。簡単だろ?」


 先輩は笑いながら、将太をコートの隅へと追いやった。  

 手に取った瞬間、不思議な違和感があった。

 バスケットボールのように掌全体で「掴む」のではない。

 細いグリップを介して、自分から遠い場所にある網目で何かを「打つ」。

 その間接的な感触が、今の将太にはひどく頼りなく感じられた。


「とりあえず振ってみろ。まずは空気を切る音を出せ」


 先輩の言葉に従い、将太はラケットを振った。


 ヒュン、という虚しい風切り音。  


 バスケで培った瞬発力が、無意識に強い力を生み出そうとする。

 けれど、テニスのスイングは、ただ力を込めればいいというものではなかった。

 ラケットの重さに振り回され、スイングの軌道がぐにゃりと歪む。


「――っ」


「おいおい、そんなに力むなよ。喧嘩売ってるわけじゃねえんだから。もっと楽に振れ」


「あはは、すいません。なんか、感覚が全然違って。難しいですね、テニス」


「だろうな。まあ、最初はみんなそうだ。ほら、もう一回」


 将太は照れ笑いしながら、何度もラケットを振り直した。  


 フェンスの向こう、プールからは激しい水音と、それと同時に水泳部の歓声が聞こえてくる。


 菜奈は今、あの水の中で自分の限界を塗り替えているはずだ。


 ――綺麗だ、なんて。あんなこと言ってる場合じゃなかったな


 美術室での、あの琥珀色の静寂。

 間城先輩の穏やかな微笑み。  


 あの場所にいたときは、自分の「空白」が誇らしいもののように思えた。

 けれど、この熱気と土埃が舞うコートの上では、空っぽであることは単なる「無能」に等しく感じられる。


「次は球出しだ。そこに立ってみろ。ローファー滑るから気をつけろよ」


 先輩が容赦なくボールを放る。  


 将太は、飛んできた黄色いボールを逃さないよう、真っ直ぐにラケットを振り抜いた。


 パコォン。


 初めて、ラケットの真ん中でボールを捉えた音がした。  

 ボールは高い放物線を描き、大きく外れてバックフェンスを叩いた。  

 およそ「良いショット」とは言えない、初心者丸出しの一打。


「うわっ、ホームランだな! でも、音は悪くないぞ。真ん中に当たった証拠だ」


「――すいません、飛ばしすぎました。でも、気持ちいいですね、これ!」


「謝るなよ。まずは当てるのが大事だ。田頭、お前センスはあるかもな」


 手のひらに残った微かな痺れと、乾いたその打球音。

 それは、将太の心の中にあった「空白」を、鮮やかな黄色に塗りつぶした。

 不格好な一打でも、これが自分のキャンバスに置かれた最初の一筆なのだとしたら。

 そう思った瞬間、靴の隙間に入り込む砂の感触も、重いラケットの重みも、すべてが自分の一部として意味を持ち始めた気がした。


「――っし」


 小さく、自分にだけ聞こえる声で呟く。  


 新しい何かが自分の中で芽吹き始めている。


「入部届、早めに持ってこいよ。明日からは運動靴な」


 先輩がニヤリと笑って、将太の背中を叩いた。  


 練習が終わり、日が完全に沈んだ頃。

 将太はすっかり汚れてしまったローファーを、昇降口のマットで慎重に擦り落とした。


「将太、お疲れさま。……うわ、真っ白じゃない」


 濡れた髪を拭きながら柱の陰から声をかけてきたのは、菜奈だった。


「――ああ、菜奈。待たせたか?」


「ううん、今終わったところ。何よ、その靴。ローファーでやったの?」


「しょうがないだろ。急に先輩に呼ばれたんだから」


「ふふ、でも、満更でもない顔してるじゃん。将太、集中し始めると耳の上が少し赤くなるんだから。中学の時と同じ」


「・・・・・・なんだよ、それ。自分じゃわからん」


 将太は照れ隠しに笑いながら、頭を掻いた。

 菜奈のこの屈託のない空気が、今の将太には心地よかった。


「で? 結局どうするの。テニス、続けるんでしょ?」


「・・・・・・まだ、よく分かんないけど。でも、あの打った時の感触、ちょっと驚いた。明日は入部届出そうと思う」


「ふふ、いいじゃない。明日からはちゃんと運動靴で来なさいよ。ここの学校、身だしなみにはかなり敏感なんだから、岡本先生に怒られるよ」


「わかってるよ。――菜奈、明日からはちゃんと部員として頑張るよ」


「期待してる。私がインターハイ行くまでに、将太も形くらい作りなさいよね」


 二人は夜の校門を抜け、アーケードへと続く道を歩き始めた。


 菜奈の隣を歩きながら、将太は一度だけ、暗くなった北校舎を見上げた。

 美術部の部室であろうその部屋は、今はもう真っ暗だ。

 けれど、明日になればまた、あの琥珀色の光が差し込む。


 自分の手は、もう空っぽではない。


 ラケットの感触と、砂埃。

 そして、まだ名前の付かない小さな高揚。

 

 そんな不確かなものを握りしめて、将太の「色」は少しずつ、混ざり合いながら深くなっていく。

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