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青の季節に、君のまなざしを識《し》る。  作者: 藍染
第一章 『あいつの幸せを願う私が、私の「好き」を、一番邪魔してる。』

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第3話 美術室の光

 入学式という名の短い祝祭が終わり、校舎には本格的に動き出した日常の気配が満ちていた。

 放課後を告げるチャイムが鳴り響くと、一年三組の教室は、解き放たれた生徒たちの熱気で一気に沸き立つ。


 担任の岡本千佳が、ポロシャツの襟を正しながら教室を去ると、将太は手元の部活動一覧を眺めた。

 昨日、三日月堂で「やってみようかな」と口にはしたものの、その実、将太の手元にはラケット一本すらない。

 中学時代のバスケの道具はすべて実家のクローゼットの奥に置いてきた。

 今の自分は、この空白の時間をどう扱えばいいのか持て余している新入生に過ぎなかった。


「おい、将太……ちょっと来い」


 隣の席で、感情の読めない表情のまま鞄を肩にかけた雄一が、短く声をかけてきた。


「なんだよ。俺、これからコートを見に行こうと思ってたんだけど」


「一分で済む。入部届を出すのに、一人では少し間が持たない」


 雄一の手には、すでに記入済みの美術部への届出用紙が握られていた。


「……本当に、書いたんだな」


「昨日言っただろ」


 雄一は事務作業でもこなすような淡々とした口調で答え、そのまま歩き出した。

 中学三年間、チャイムと同時に帰路を急いでいた彼が、自らの意思で放課後の時間を拘束される道を選ぶ。

 納得がいかないまま、将太は廊下を進む雄一の背中を追い、北校舎の階段を上った。


 *


 北校舎の三階へ上がると、校内の活気が嘘のように遠のいていった。


「なあ、絵なんて描けるのかよ。お前が筆持ってる姿なんて、中学の美術の授業でも数えるほどしか見てないぞ」


「描けるかどうかじゃない。描く場所が必要なだけだ――いいから、静かにしてろ」


 廊下は少しだけ空気がひんやりとしていて、磨き上げられた床に二人の足音が重なる。


 突き当たりにある重い木製の扉には、塗装の剥げたプレートで『美術室』と掲げられていた。


 雄一が、どこか緊張した面持ちで古びたドアノブに手をかけた。


「――静かにしろよ。」


 扉が引かれた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、油絵具の鋭い香りと、古い木材が眠っているような落ち着く香りだった。


 そして、視界が開ける。

 高い窓から差し込む午後の柔らかな光が、無数の石膏像を白く浮かび上がらせていた。

 そこだけが時間の流れから切り離されたような、圧倒的な静寂。その中心に、彼女はいた。


 窓際のキャンバスに向かい、一筋の光を背負って筆を動かしている少女。

 耳元で留められた甘栗色の髪が、光を透過して淡く輝いている。足元には、使い込まれた一眼レフカメラが置かれていた。


 将太は、息をすることさえ忘れていた。

 昨日の放課後、テニスコートのそばで出会った、あの人だ。


 彼女の横顔は、何かを慈しむように穏やかで、柔らかな空気を纏っていた。

 将太は音を失い、無意識に声を漏らした。


「……あ」


 少女がふっと筆を止める。

 ゆっくりとこちらを振り向いた彼女の瞳は、ぱちくりと瞬きをして、それから春の花が綻ぶような微笑みを浮かべた。


「――雄一くん。……と、お友達?」


 ふんわりとした、耳に心地よいおっとりした声。

 将太の心臓が、全力で坂道を駆け上がった後のように、激しく、熱く鼓動を始めた。


挿絵(By みてみん)


「あ、同じクラスの田頭将太です。……すいません、邪魔するつもりじゃなくて」


 しどろもどろになる将太を横目に、雄一は教卓に入部届を置いた。


「盾を連れてきました。一人だと、この部屋の空気は密度が高すぎたので。――間城先輩、これ、僕の分です」


「入部ありがとう雄一くん。私は二年の間城優日ましろ ゆうひ。美術部と…写真部もやってるの。よろしくね、将太くん」


 彼女は筆を置いて、丁寧にお辞儀をした。

 優日は将太をじっと見つめ、その空っぽの両手に目を留めた。

 昨日、迷子の少年を見るようだった眼差しが、今はさらに深く、包み込むような色彩を帯びている。


「あら。今日はなんだか、身軽なんだね」


 彼女は、穏やかに微笑んだ。


「何も持っていない手って、これから何を掴んでもいいってことでしょう? 真っ白なキャンバスみたいで、とても素敵。どんな色にでもなれる、大事な時間だね」


 優日はそれだけ言うと、また愛おしそうにキャンバスへと視線を戻した。

 その静かな言葉は、探りを入れるような意図はなく、ただ目の前の光景をありのままに慈しんだだけのものだった。


「……失礼しました。行こう、将太」


 雄一に促され、将太は魂を半分置いてきたような心地で美術室を後にした。

 重い扉が閉まり、廊下に沈黙が戻る。


「……なあ、雄一。あんな先輩、いたんだな」


「……ああ。お前みたいな奴には、少し劇薬だったかもしれないな」


 雄一はそう言って鼻を鳴らしたが、その瞳も、どこか先ほどの「静寂」を惜しんでいるように見えた。


 階段を下り、昇降口に向かおうとしたその時だった。


「ちょっと! 二人ともどこ行ってたのよ!」


 一階の廊下から、聞き慣れた弾むような声が響いた。

 菜奈だ。彼女はスポーツバッグを肩にかけ、反対の手には水泳部の入部届らしき紙を握りしめていた。


「将太、テニスコート見に行くって言ったじゃない。私も早くプールに行かなきゃいけないんだから、さっさと着いてきてよ。雄一も、将太を連れ回さないでよね」


「――用件は済んだ。あとは好きにしろ」


 雄一はそれだけ言うと、イヤホンを耳に押し込んで、さっさと校門の方へ去っていった。

 残された菜奈は、怪訝そうに将太の顔を覗き込む。


「なによ、将太まで。ぼーっとして。……変な匂い。これ、絵具?」


 菜奈が鼻をくんくんと動かし、俺の制服の袖を掴んで顔を近づけてくる。


 ――近い


「なんでもないよ。ちょっと雄一の入部に付き添っただけだ」


「ふーん……。ま、いいけど。ほら、コート行くんでしょ! 私も水泳部のミーティングに遅れちゃうんだから。ほら、急いで!」


 菜奈に腕を引かれ、将太は校庭へと踏み出した。


「えっと、テニス部はあそこで、水泳部はあっち。――将太、シャキッとしなよ。帰宅部エースの雄一すら部活始めたんだからね。私も今年はインターハイ目指してガンガン泳ぐんだから!」


 菜奈の声は、自分自身を鼓舞するように力強く響いた。  

 彼女は彼女で、新しい水の中での戦いに向けて走り出そうとしている。


 将太は、自分の空っぽの手をぎゅっと握りしめた。  

 中学三年間、何も変えようとしなかった雄一が、一番に「新しい色」を塗り始めた。  

 それなのに自分は、まだ何も持たないまま、西日に目を細めている。


 ――真っ白なキャンバスみたいで、とっても素敵。


 優日の声が、心臓の鼓動に混じってリフレインする。  

 昨日まで、菜奈たちと同じ色だと思っていた自分の未来が、決定的に、別の色に塗り重ねられていくのが分かった。


「……ねえ、将太」


 不意に、菜奈が足を止めて振り返った。

 西日を背負った彼女の顔が影になり、表情がよく見えない。

 けれど、俺の腕を掴む指先に、いつもより少しだけ力がこもっている。


「あんた、さっきから上の空だけど……。美術室で、何かあった? 雄一が変なこと言ったんじゃないでしょうね」


「え? いや、別に……。雄一は普通だったよ」


「……ふーん。ならいいけど」


 菜奈は俺の顔をじっと覗き込むと、ぷいっと唇を尖らせて、また俺の腕をぐいぐいと引っ張り始めた。


「いい? 私はプール、あんたはコート。全然違う場所にいるんだから、しっかり自分を持ってなさいよ。……ちゃんと見てなきゃ、置いていくからね!」


 それは、冗談のような、けれど必死な警告のようにも聞こえた。  

 菜奈に腕を引かれ、将太は校庭へと踏み出した。


 オレンジ色の西日が網膜を刺し、テニスコートからは硬球を打ち抜く乾いた音が響いてくる。    


 活気と熱。  


 そして菜奈の隣にある「当たり前」の日常。  

 それが、つい数分前までいたあの場所とは、まるで別の世界の出来事のように感じられた。

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