第9話 デレデレしてねぇよ
アーケードから横道に入ってすぐの場所にある「ヒロマツスポーツ」は、地元の人々に長く親しまれている、温かみのある佇まいの店だった。
センサーが反応して「ウィーン」と静かに自動ドアが開くと、店内に充満する新しいゴムの匂いと、ストリングを張るマシンの規則的な駆動音が、将太の鼻と耳を刺激した。
「ちわーっす。おんちゃん、一年生の靴選びに来たよ」
佐々木が慣れた調子で声をかけると、カウンターの奥から店主が短く応えた。
店内には、各競技のシューズやラケットの箱が隙間なく積み上げられている。
通路は人一人が通るのがやっとの広さだ。
将太がシューズの棚の前に立つと、間城はすぐ横に並び、棚の靴を手に取る将太の横顔をじっと覗き込んだ。
その距離は、将太が思わず一歩引いてしまうほど近かった。
彼女の首から下げた一眼レフが、将太の腕にコツリと当たる。
「――あの、間城先輩。そんなにじろじろ見られると、なんか、照れます」
「あ、ごめんね。一生懸命に選んでる時の、変化していく表情がすごくいい感じだったから。眉が寄せて行く所とかかなりいい」
「――眉の寄せ方とか、そんなとこまで見てるんですか」
「うん。絵に描くなら、そこが一番大事なラインだから」
間城はそう言って、軽く微笑んだ。
将太は「描かれる自分」を想像してしまい、余計に心臓が跳ね上がる。
動揺を隠すように、将太は目の前の棚へ視線を戻した。
「ほら、これにしろ」
佐々木が棚から一足の箱を引き出した。
派手な装飾はなく、無骨でがっしりとしたネイビーのシューズだ。
将太はベンチに座り、紐を締める指先の動きを間城にじっと見つめられながら、新しいシューズに足を突っ込んだ。
(――あ。全然、違う)
立ち上がって一歩踏み出した瞬間、床との距離が近い、掴むような確かな手応えが足裏から伝わってきた。
昨日までの不安定さが、一気に霧散していく。
「――いいじゃん。それでお前のズルズルともおさらばだな」
佐々木が満足げに頷き、そのまま壁一面に並んだラケットの棚を指差した。
「ついでにラケットもどうする? 一緒に揃えちまえば、明日から気分も変わるぞ」
将太は、ずらりと並んだ色とりどりのラケットを見上げた。
どれもが鋭く、研ぎ澄まされた武器のように見える。
将太は一歩踏み出そうとして、ふと足を止めた。
「……いえ。ラケットは、もう少し待ってください。まだ自分に何が合ってるのか、全然分からなくて。しばらくは部室にあるやつを借りて試してみようと思ってまして」
将太が自信なさげに頭に手を添えながら答えると、佐々木は「なるほどな」と得心がいったように頷いた。
「――だからお前、この間から色んなラケットを使いまわしてたのか。納得いくまで迷うってのは悪くない。俺の予備も貸してやるから、とことん試せ」
佐々木のその言葉に、将太は「ありがとうございます!」と力強く応えた。
横で見ていた間城が「へぇ」と興味深そうに目を細める。
「慎重なんだね。――でも、その『分からない』って悩みながら探してる時の顔も、さっきの表情と同じくらいいね」
「――っ、……あ、ありがとうございます……」
純粋な感嘆を含んだ「いい」という言葉。
それは、将太という素材が彼女の感性に真っ向から響いている証拠のようで、将太の心臓を不必要に波立たせた。
将太は視線を泳がせ、不自然なほど丁寧に、新しいシューズの箱を抱え直した。
買い物を終え、アーケード中央の時計台の下まで戻ってきた。
「じゃあ、俺はこっちだから。田頭、明日寝坊すんなよ」
「あ、はい! ありがとうございました、佐々木先輩!」
佐々木は軽く手を振ると、雑踏の中へと消えていった。
夜の帳が下りた時計台の下、残されたのは将太と間城の二人だけになった。
「……間城先輩も、ありがとうございました。わざわざ付き合ってもらっちゃって」
「ううん、私の方こそ。――それじゃあ、私もここで。いいもの見せてくれてありがとう、将太くん」
間城が軽く手を挙げ、穏やかな微笑みを残して歩き出そうとした、その時だった。
「あれ、将太?何してんの、こんなところで」
不意に横から声をかけられ、将太が振り向くと、そこには自転車を押した菜奈が立っていた。
荷台には「三日月堂」の空の番重が積まれており、ちょうど配達を終えて店に戻る途中だったのだろう。
いつもの、遠慮のない声だった。
だが、菜奈は将太の隣に立つ、凛とした雰囲気の美人の姿に気づくと、一瞬だけ驚きに目を見開いた。
「あ、菜奈。こちらは美術部の間城先輩。今日、たまたま会って……」
将太が紹介すると、菜奈は少しだけ姿勢を正し、初対面の先輩に対する丁寧な口調で挨拶をした。
「あ、失礼しました。学校の先輩だったんですね。こんばんは」
「こんばんは。二年の間城です。将太くんのお友達?」
間城が柔らかく微笑むと、菜奈は少し控えめな態度でお辞儀を返した。
「一年の戸澤菜奈です。将太とは家が近所で――あの、コイツが何かご迷惑おかけしてませんか?」
「ふふ、そんなことないよ。賑やかそうなお友達だね。――じゃあ、本当に行くね。おやすみなさい」
間城が軽やかに雑踏へ消えていく。
その後姿が見えなくなるまで見送ってから、菜奈は将太の方へ向き直った。
その瞳には、先ほどまでの丁寧な顔は消え、強烈な好奇心が溢れ出していた。
「――ちょっと将太。なによ今の先輩、めちゃくちゃ綺麗じゃない! いつの間にあんな知り合い作ったわけ?」
菜奈はニヤニヤと笑いながら自転車を引き、将太の横を歩き出した。
「いや、雄一に無理やり美術室に連れていかれた時に、ちょっと挨拶しただけで……」
「へぇ、それでいきなり買い物に付き合ってくれるなんて、あんた意外とやるわね。なに?モデルでも頼まれちゃったりしたの?」
ニヤニヤしながら菜奈は番重に手を突っ込んで、串に刺さった団子を「はい、おすそ分け」と将太に差し出した。
「そう。なんか、俺の表情が面白いんだってさ」
「え゛!ほんとにモデル?表情? あんたの、何かにハマると周りが一切見えなくなる、あの顔のこと?」
菜奈は茶化すように将太の横顔を覗き込んだ。
「何だよ、そんなに変か」
「変っていうか、必死すぎ。でもまあ、あの綺麗な先輩がわざわざ描きたいって言うんだから、あんたのその余裕のない顔も、芸術的には価値があるのかもね」
菜奈は愉快そうに笑いながら、何度も将太の肩を小突いた。
そのまま二人は、オレンジ色の街灯が続く夜道を並んで歩いた。
自転車のタイヤが回る小さな音と、アスファルトを鳴らす靴音が、静かになった町に響く。
「でも、よかったじゃない。一人で靴選んで失敗するより、先輩たちに見てもらった方が安心だしね。……あ、そうだ。ちょうどよかった」
「何が?」
「これから恵子さんのところにこれ届ける予定だったんだけど、将太、今から帰るでしょ? ついでにこれ持ってってよ。――はい、これ」
菜奈は自転車のカゴから、三日月堂の包み紙で丁寧に巻かれた箱を取り出した。
「ああ、母さんが頼んでたやつか。いいよ、どうせ家帰るし」
「助かるー! これで今日のお仕事終了!……はい、お礼にもう一本」
菜奈はもう一本の団子を差し出し、いたずらっぽく笑った。
「なんだよ。最後は俺んちだったのかよ」
顔をしかめつつもしっかりと団子は貰う。
「サンキュ。……なんか、今日は色々もらいすぎだな」
「いいのいいの。――さ、早く帰ろ。あんまりデレデレしてると、明日の練習、身が入らないよ?」
「デレデレなんてしてねえよ」
将太は苦笑いしながら夜の道を菜奈と一緒に歩いた。
街灯が並ぶいつもの帰り道、自転車の影と二人の影が重なったり離れたりしながら、静かに家へと続いていた。
日曜の朝。
テニスコートには、まだ気だるそうな空気が残っていた。
「……あー、眠い。なんで日曜なのに八時集合なんだよ、佐々木先輩鬼だわ」
ベンチで石田が大きくあくびをしながら、ラケットのグリップテープを巻き直している。
その横で、長谷川が心配そうに空を見上げた。
「でも、今日は晴れてよかったね……。雨降ると筋トレ二倍にするって言ってたし」
「それな。まじで勘弁してほしい」
将太は二人の会話を横目に、新しいネイビーのシューズを履いて立ち上がった。
軽く足踏みをすると、昨日のバッシュとは明らかに違う「地面を噛む」感触がある。
「お、田頭。ニューシューズか? 渋い色選んだじゃん」
石田が目を細めて冷やかしてくる。
中学経験者の石田は、こういう道具のチェックが細かい。
「昨日、佐々木先輩と一緒に選んだんだよ」
「……まじで? あの人と買い物とか、緊張して死ぬだろ普通。お前、鋼の心臓かよ」
「いや、俺もかなりビビってたけど……」
そんな雑談をしていると、コートの入り口から佐々木が「おい一年、ダラダラすんな!」と声を張り上げた。
一気に空気が引き締まる。
「今日はノックやるぞ。まずは田頭からだ」
「はい!」
将太はコートの真ん中に立った。
佐々木が容赦なく球を放つ。
右サイドの深いところ。
最初の一歩。
いつもなら滑っていたところが、今日はしっかりと踏ん張れる。
(――おお、動ける!)
ボールへの反応が格段に速くなった気がした。
将太は必死に腕を伸ばし、なんとかボールに追いつく。
パコッ。
だが、ラケットの端に当たったボールは、情けない音を立ててネットの一番下に転がった。
「あー……。もったいねえ」
後ろで見ていた石田が苦笑いする。
「……うるさい。今のは追いつけただけでも進歩だよ」
将太は肩で息をしながら応えた。
続く二球目。
今度は左前方の短い球だ。
全力で走り込み、細かく足を刻んで止まろうとする。
バッシュの時はここで止まりきれずにオーバーランしていたが、今は狙った位置でピタッと静止できた。
今度こそ、と振り抜いたラケット。
しかし、ボールはネットの上端を叩いて自陣に落ちた。
「田頭くん、惜しい……!」
長谷川が申し訳なさそうに声をかけてくれるが、将太は「くそっ」と小さく毒づいた。
滑らなくなったことで、逆に「自分が下手な理由」が、道具のせいにできなくなっていた。
追いついているのに、入らない。
それは純粋に自分の技術のなさだ。
「おい、田頭! フォームがバラバラだぞ。止まれても打点がズレてりゃ意味ねぇぞ。あと、石田! ニヤニヤしてないで交代だ!」
佐々木に怒鳴られ、将太は「すいません!」と頭を下げてコートを空けた。
入れ替わりに入った石田は、取りこぼしはあるものの、流石の動きで次々とボールを返していく。
その後ろで、将太は長谷川と一緒にボール拾いを始めた。
「……石田くん、やっぱり上手いね」
長谷川がポツリと言う。
彼はハードなノックにすでに目が潤んでいたが、なんとか食らいつこうとしている。
「ああ。でも、次は負けない。……少なくとも、追いつけるようにはなったからな」
将太は自分の新しい靴のつま先を見つめた。
砂で少し汚れたシューズ。
まともに一球も返せなかった。
それでも、自分の足でコートを走り回る感触は、今までにないほど確かだった。
「――次、お願いします!」
将太は再び、佐々木の前に立った。
冴えない失敗が続く。
けれどそこには、昨日までにはなかった確かな手応えが混じっていた。




