第1話 白亜の時計台、新しい春。
高知の春は、湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつく。
追手前高校。
白亜の時計台の下で入学式を終えたばかりの自分たちは、真新しい制服の硬さに気恥ずかしさを覚えながら、放課後の喧騒の中にいた。
ホームルームで配られた、部活動一覧のプリントを手に、新入生たちが一斉に動き出す。
「……すごい数だな。これ、今日だけで全部見るのは無理だろ」
俺はプリントに並ぶ文字の羅列を眺めながら呟いた。
野球部、弓道部、サッカー部……。
どれも自分には遠い世界の出来事のように思える。
「まずはどこに何があるか把握しないと。ほら、将太もぼーっとしてないで」
隣で歩くのは、戸澤菜奈だ。
高い位置でラフにまとめたお団子ヘアが、彼女が動くたびに元気よく揺れる。
「菜奈は、やっぱり水泳を続けるんだよな。全中まで行ったんだし」
自分が問いかけると、菜奈は当然だと言わんばかりに胸を張った。
「あったりまえ! 高校でもしっかりタイムを狙っていくから見てなさいよ」
その淀みのない言葉を聞いて、俺は少しだけ視線を落とした。
「そういえば、雄一はどうするんだ。高校でも『帰宅部』のエースを目指すのか?」
後ろを歩く橋本雄一に話を振ると、彼は切れ目の淡白な瞳を向け、事も無げに言った。
「……いや、美術部に入るつもりだ」
その言葉に、俺と菜奈は同時に足を止めた。
「……は?」
「美術部? 雄一が?」
菜奈が目を丸くして雄一の顔を覗き込む。
「絵なんて描いてるところ、一度も見たことないんだけど。本気?」
「……まあ、信じられないならそれでもいい」
雄一は肩をすくめ、相変わらずのポーカーフェイスで歩き出す。
中学の頃の彼からは想像もできない選択に、俺も菜奈も、彼が本気なのか冗談なのか測りかねていた。
「……まあ。とりあえず、自分のことも決めなきゃだしな。二人とも、ついてこなくていいぞ。適当に一人で回るから」
そう告げると、菜奈がすかさず自分の前に回り込んできた。
「ダメでーす! 将太が何部にするか、気になるもん。雄一もまだ急がないでしょ? 行こう」
「お、おい……まあ、いいや。とりあえず、体育館に行くつもりなんだけど」
俺の言葉に、菜奈がぴくりと反応した。
「……体育館? 無理しなくていいんじゃない?」
「別に無理じゃない。ちょっと見ておきたいだけ」
そう強がって歩き出す。
菜奈は心配そうに眉を寄せたが、何も言わずに自分の隣に並んだ。
雄一もまた、黙ってその後ろをついてきた。
*
体育館の重い扉を開けると、そこには、いくつもの「音」が複雑に重なり合った分厚い空気の層が停滞していた。
天井に反響するバレー部のスパイク。
空間を切り裂くような、バトミントンの羽。
床を激しく擦り上げる、シューズの乾いた摩擦音。
いくつもの音が混ざり合い、渦を巻いている。
けれど、その混沌とした喧騒の中でも、自分の意識を容赦なく引き摺り出してくる「音」がひとつだけあった。
床を叩く、重く、規則正しい衝撃音。
床を伝って足の裏にまで響いてくる、鈍い振動。
視界の端を、バスケットボールが放物線を描いて通り過ぎていく。
一歩、足が止まった。
視界の先、コートの端に、見覚えのある顔ぶれがいた。
中学時代、同じユニフォームを着ていたチームメイトたちだ。
彼らもまた、新入生としてバスケ部の様子を見に来ているようだった。
ふいに、彼らの視線がこっちを向いた。
驚き、それから、どこか冷ややかな、あるいは腫れ物に触れるような怪訝な表情。
中学最後の試合。
あの時、自分の指先を離れた最後のパス。
誰にも受け取られることもなく、冷たい床を虚しく転がっていったあの光景が、彼らの瞳の奥に再生されているような気がした。
「……っ」
床を叩く振動が、心臓の鼓動を乱していく。
身体が拒絶反応を起こしているのが分かった。
ここには、田頭将太というプレイヤーの居場所なんて欠片も残っていない。
その時、隣にいた菜奈が、彼らの視線を遮るように一歩前に出た。
彼女は自分には見えない角度で、彼らに向かって小さく舌を出した。
子供っぽくて、けれど確かな拒絶の意思。
「……ほら、次いこ。ここ、ちょっと暑苦しいし」
菜奈は俺の袖を強く引いた。
その指先の微かな震えが、自分のために彼女が怒ってくれていることを伝えていた。
「……そうだな。次、行こうか」
逃げるように体育館を背にした。
背後から聞こえるリズムの狂った衝撃音が、いつまでも耳の奥にこびりついて離れなかった。
*
体育館を離れて外へ回ると、そこにはテニスコートとプールが隣接していた。
テニスコートからは、バドミントンよりも重く、野球よりも乾いた衝撃音が聞こえてくる。
その横では激しい水音と笛の音が響いていた。
地上からは水面こそ見えないが、室内外兼用プールというその巨大な空間からは、湿り気を帯びた独特の熱気が漏れ出している。
菜奈の足が、ぴたりと止まった。
彼女の視線は、頭上にあるプールへと吸い寄せられている。
そこから漏れ出す音を聴いているだけで、彼女の肩が微かに震えるのが分かった。
隠しきれない期待と、飛び込みたいという衝動。
菜奈はもう、あの中へ行きたくて仕方がないのだ。
でも、二人のことが気になって、どうしても足を踏み出せずにいる。
高架のプールを見上げる菜奈の瞳を黙って見ていた。
彼女の頭の中には、もう鮮やかな青い水面が広がっているのだろう。
そこには、自分の進むべき場所を確信している人の、強くて真っ直ぐな光があった。
菜奈には、もう行く場所がある。
迷わず飛び込んでいける場所が。
それに比べて、自分はまだ何も決められていない。
「……大丈夫だって。ほら、行けよ」
自分は菜奈の背中を、少しだけ強く押した。
「え? でも、まだ将太が決まってないし……」
「いいから。俺は雄一と適当に見て回るよ。お前、さっきから耳がプールの方しか向いてないぞ」
そう言うと、菜奈は少しだけ決まり悪そうに笑い、それから意を決したように頷いた。
「……分かったわよ。ちゃんと、隅々まで見て回りなさいよ? 変な部活に入ったら承知しないから!」
菜奈は一度、自分達を心配そうに見つめてから、付け加えるように言った。
「あとで、何を見たかちゃんと教えてよね」
菜奈は弾かれたように、プールへと続く階段を駆け上がっていった。
その後ろ姿を見送りながら、自分は独り言のように呟く。
「……あいつには、行く場所があるんだな」
それは、羨望よりも、もっと重い諦めのような感覚だった。
自分はまだ、どこにも属していない。
誰にも呼ばれないまま、校庭の真ん中に一人残された気がした。
菜奈の足音が階段の上へと消えていくと、あたりには急に所在ない沈黙が降りてきた。
一段高い場所にあるプールからは、依然として湿った水音と笛の音が響いている。
あの中では今、菜奈が新しい「青」に向かって最初の一歩を踏み出しているのだろう。
「……行ったな」
隣で、雄一が丸めたプリントをポケットに押し込みながら言った。
「ああ。あいつはもう、迷いなんてないんだろうな」
自分は、手に持ったままの部活動一覧を見つめた。
登山部、弓道部、卓球部……。どれだけ文字を追いかけても、心が動く気配はない。
自分だけが、この広大な校庭のどこにも根を張れずに、浮いているような気がした。
「将太。俺も、そろそろ行く」
雄一が校舎の方を指差した。
「三階に美術室があるんだ。見学というより、もう顧問の先生に挨拶してくる」
「……そうか。雄一も、本当にやるんだな」
「何か新しく始めるなら、これくらい極端な方がいいだろ」
雄一は、淡白な瞳で、まっすぐにこちらを見据えてくる。
中学時代、何にも興味を示さず、ただ放課後をやり過ごしていた彼が、自らの意思で新しい場所を目指そうとしている。
「……じゃあな。あんまり考えすぎるなよ」
雄一は軽く手を挙げると、校舎の中へと吸い込まれていった。
とうとう、一人になった。
校庭の真ん中。
テニスコートから響く打球音と、頭上のプールから漏れる水音。
そのふたつの「居場所」に挟まれながら、自分はどこへ行くべきかも分からず、ただ春の生温い風に吹かれていた。
*
気がつくとテニスコートを囲むフェンスのそばに立っていた。
そこでは、数人の上級生が一対一でラリーを続けていた。
バスケのように、身体をぶつけ合ってボールを奪い合うことはない。
ネットを挟んで、一定の距離を保ったまま、道具を介してラリーという対話を繰り返す。
その適度な距離感が、今の自分にはひどく心地よく見えた。
誰かの期待を背負うことも、誰かのミスを自分の掌で受け止める必要もない、独立した空間。
けれど、フェンスの一枚向こう側にあるその場所は、今の自分にとっては、あまりにも遠い異世界の出来事のように思えた。
そう思って視線を逸らそうとした、その時だ。
すぐ近くで、小さく、けれど硬質な「作動音」が響いた。
驚いて顔を上げると、少し離れた植え込みのそばに、一人の女子生徒が立っていた。
自分たちよりも一つ、あるいは二つ年上だろうか。
凛とした空気を纏ったその人は、重厚な一眼レフのカメラを構え、テニスコートにレンズを向けていた。
邪魔をしてはいけないと思い、気配を殺してその場を去ろうとした時、彼女がゆっくりとカメラを下ろした。
目が合った。
吸い込まれそうなほど静かな、澄んだ透明な瞳だった。
彼女は、初対面の自分を訝しむ様子もなく、まるでそこにある景色の一部を観察するように、穏やかな眼差しをこちらに向けている。
「……揺れてるね」
ふいに放たれたその声は、驚くほど透き通っていて、けれど不思議な重みを持って届いた。
「え……?」
「まだ、どこにも行けてない人の目だね」
心臓が跳ねた。
菜奈にも、雄一にも、誰にも言葉にされていなかった自分の内側の停滞。
体育館で感じたあの「拒絶」と、行き場のない孤独。
それを、知らない先輩に、いとも簡単に暴かれてしまった。
見透かされた気恥ずかしさと、自分でも整理できていなかった感情を正確に言い当てられた衝撃が、同時に押し寄せる。
なのに、不思議と息はしやすくなった。
「……ただの、部活見学です。どこも、自分には合わない気がして」
絞り出すように答えると、彼女は少しだけ口角を上げた。
「そう。……でも、迷ってるものほど、綺麗に写ることがあるよ。たぶん、まだ形になる前の熱が残ってるから」
彼女はそれだけ言うとカメラをしまい、そのまま行ってしまった。
短いやり取りだった。
まだ、名前も、学年も知らない。
けれど、彼女が去ったあとの景色は、さっきまでとは少しだけ違って見えた。
将太はもう一度、黄色いボールが弾けるコートを見た。
さっきまで白く霞んでいた景色が、ほんの少しだけ輪郭を取り戻している。
『何か新しく始めるなら、これくらい極端な方がいいだろ』
自分はまだ迷子のままだ。
けれど、立ち尽くしているだけではない気がした。
白亜の時計台の針が、ゆっくりと進んでいく。
新しい春の、止まっていた時間が、今、静かに動き始めようとしていた。




