プロローグ 眼差しの先へ
夕暮れの空気は、肺の奥を小さく刺すようにひんやりとしている。
見慣れた通学路のはずなのに、一歩踏み出すたびにアスファルトを叩く靴の重みばかりが意識に沈む。
ポケットの中のスマホは一度も震えない。
それなのに、喉の奥がつかえたように落ち着かなかった。
この先で、言葉にするのだと思う。
ずっと、出口を探して溜め込んできた思いを。
何度も曖昧な色のなかに隠して、形にすることを先送りにしていた想い。
もう誤魔化さないと決めたその言葉を。
誰かを選ぶということは、他の何かを失う覚悟をすることなのだと、もう知ってしまっていた。
何も言わないまま隣にいることは、優しさなんかじゃない。
立ち止まっている間にも、指の隙間から零れ落ちていくものがある。
だから、行かなければならない。
瞼の裏に浮かぶのは、ひとつの景色だけではなかった。
どれも始まりは、きっと、あの日交わした眼差しだった。
*
放課後のテニスコート。
舞い上がる乾いた砂の匂いと、空気を震わせる打球音。
その喧騒の中で、ふと顔を上げた。
北校舎、三階の窓辺。
風に踊る白いカーテンの向こうに、ひとりの先輩が立っていた。
夕陽を背負ったその姿は、輪郭だけが柔らかな光に縁取られている。
筆を動かす指先の静けさ。
伏せられた睫毛が落とす影。
風に遊ばれる、透き通った髪。
ただ、それだけだった。
ただ窓辺に立つその人を見つけただけ。
なのに、その瞬間から、いつもの代わり映えしない放課後は、少しずつ鮮やかな色を帯びはじめた。
ボールを追いかけていても、意識は無意識にあいた窓を探してしまう。
明日もまた、吸い寄せられるようにあの窓を見上げてしまうのだろうと。
*
私は、ずっと「見る側」の人間だった。
光がどう差し込み、影がどう揺れるか。
何気なく通り過ぎていく一瞬の煌めきの中から、永遠に留めておきたいものを選び取る。
絵筆を握る時も、レンズを覗く時も、そうして世界と向き合ってきた。
だから最初は、ただの錯覚だと思った。
窓の向こう。
遠く、オレンジ色に染まるコートの端。
大勢の部員が入り乱れているはずなのに、まっすぐこちらを射抜く視線だけが、不思議なほど鮮明に伝わってきた。
一度。
二度。
何度も視線が重なり、それが偶然ではないと知る。
ただ見つめられているだけなのに、胸の奥が少しくすぐったい。
自分が誰かの視線の中心に存在していること。
それは、私自身が風景の一部として切り取られるような、静かで、確かな温度を持っていた。
見つけてもらえた。
たぶん、それだけのこと。
けれどその小さな出来事が、なぜか、たまらなく嬉しかった。
*
夕暮れの公園は、耳が痛くなるほど静かだった。
誰もいないベンチと、長く伸びた木々の影。
隣に将太がいる。
それだけで、私は肺に溜まった空気をうまく吐き出せなかった。
ずっと、平気なふりをすることには慣れていた。
笑って、背中を押して、幼馴染という特等席に座り続ける。
そうしていれば、この心地よい距離は壊れないはずだった。
けれど、本当は違った。
私の事も……見てほしかった。
誰よりも速く泳げた結果じゃなくていい。
うまく笑えない日も、足がすくむような夜も、強がりの仮面を剥がさないと立っていられない瞬間も。
ただ、本当の私に気づいてほしかった。
ずっと、一番近くにいた将太にだけは。
「……ずっと見てたから」
たったその一言で、心の一番深い場所に沈めていたものが、静かに揺れた。
甘えたかったわけじゃない。
ただ、ちゃんと私という人間を見ていてくれたのだと、そう思ってしまった。
それだけで、もう、誤魔化しがきかなくなった。
*
あなたを見つけたことも。
君に見つけてもらえたことも。
あなたが見ていてくれたことも。
きっと、どれひとつとして嘘じゃなかった。
惹きつけられた心も。
見い出された喜びも。
見つけてほしかった願いも。
どれかひとつだけが「正解」だったわけじゃない。
だからこそ、今、ここに立っている。
この先で、気持ちを言葉にする。
もう、曖昧にして逃げることはしたくない。
あの日々の始まりが、あんなにも優しかったことを、なかったことにしないために――
これは、ひとつの恋が形を変え。
いくつもの想いが、一瞬の瞬きにすれ違っていく。
誰もが誰かを真っ直ぐに見つめていた、あの季節を、
交差する視線の先で、彼らが何を見つけ、何を選んでいったのか。
この、瑞々しく不器用な青春の始まりを、
少しだけ遡ってみようと思う。




