第10話 青い静寂、心のさざ波
放課後のテニスコートを囲む防風林が、乾いた音を立てて揺れていた。
コートには部員たちの活気が満ち、放課後の日差しがネットの白さを際立たせている。
今日は男女それぞれの主将と副将を筆頭に、三学年全員が顔を揃える合同ミーティングを行うことになっている。
男女合わせて約二十人ほどの部員たちが、コート脇のベンチ前に整列した。
部員たちはラケットを傍らに立て、無駄な私語を慎んで前を向いている。
これから本格化する練習を前に、現場にはピリッとした適度な緊張感が漂っていた。
「――よし、全員揃ったな。今日は練習に入る前に、改めて一人ずつ自己紹介をしよう。上級生も、一年生に顔を覚えてもらいたいしな」
男子主将の佐々木が、列の前に立って落ち着いた声で切り出した。
まずは男子の三年生から順に前に出た。
「男子主将の佐々木裕司だ。今の課題はサーブの精度。目標は全国だ。厳しい練習も増えるだろうけど、全員で高い意識を持って取り組んでいこう」
迷いのない、芯の通った声だった。
続いて、佐々木の隣にいた男子が、一歩前に出る。
「男子副将の野上透です。僕の課題は、試合中盤での粘り強さを身につけること。それから、みんなが怪我なく、いい環境で練習できるように目配りするのも僕の仕事だと思っている。技術のことはもちろんだけど、ちょっとした悩みとか道具の相談とか、何でも気軽に話しかけてほしい」
野上の落ち着いた物腰に、一年生たちの肩の力が少しだけ抜けた。
続いて、女子テニス部へと続く。
「女子主将の佐藤美咲です。課題はダブルスでの前衛の動き。今年こそ県で勝ち上がって、インターハイに行くのが目標。一年生も、戦力の一人だという自覚を持って練習に励んでください」
佐藤の言葉には、女テニを牽引する力強い意志が宿っていた。
その隣で、柔らかな笑みを浮かべた女子部員が続く。
「女子副将の小野寺遥です。私の課題は、決して折れないストローク。女テニは人数が少ない分、一人ひとりのつながりを大事にしたいと思っています。困ったことがあれば、いつでも声をかけてね」
上級生たちの言葉は、どれも地に足の着いた、確かな目標に裏打ちされていた。
続いて二年生たちが前に出る。
彼らは、一年生にとっては最も身近な目標だ。
「二年の高橋健太です。ストロークを安定させて、団体戦のメンバーに入ることが目標です」
「二年の伊藤拓海です。ボレーの反応を早くして、先輩たちの力になれるよう頑張ります」
二年生たちの挨拶が終わると、いよいよ一年生の番だ。
将太は少し背筋を伸ばし、順番が回ってくるのを待っ。
「一年、石田優希です。中学では県ベスト十六でした。一日も早くレギュラー争いに加わると同時に、今の課題であるバックハンドを克服します」
石田の迷いのない口調に、上級生たちも真剣な表情で頷く。
続いて、少し肩に力の入った長谷川が前に出た。
「――一年の、長谷川陸です。あの、体力がまだ全然ないので――まずは、練習についていけるように、精一杯頑張ります」
少し硬い声だったが、その必死さは伝わった。
副将の野上が「最初は誰でもきついからな。自分のペースを掴んでいこう」と短く言葉を添える。
次は、将太の番だった。
「一年の田頭将太です。テニスは初心者です。今はまだ、ラケットを振るだけで精一杯ですが、早く先輩たちに追いつけるように頑張ります。よろしくお願いします」
言い終えてお辞儀をすると、コートに乾いた拍手が響いた。
形式的な挨拶ではあるけれど、チームの中に自分の居場所が少しだけ固まったような感じがした。
その後も他の自己紹介が続き、部員全員の自己紹介が終わり、再び女子主将の佐藤が口を開く。
「――今みんなが言った通り、それぞれの目標があると思うけれど、女テニのみんなに私から一つだけ。私たちは男子に比べて人数が少ないわ。だからこそ、一人ひとりの役割は重いし、代わりはいない。苦しい練習の時こそ、隣にいる仲間を見て。コートの上で孤独にならないテニスを、全員で作り上げていきましょう」
女子部員たちが真剣な眼差しで頷く。
男子部員たちも、その緊張感のある言葉に背筋を正した。
再び男子主将の佐々木が全体を見渡す。
「よし、いい顔ぶれが揃ったな。じゃあ、改めて今後の予定を話しておく。まずは、五月末に高知の県大会がおこなわれる。その選考を兼ねて五月中旬に校内戦をおこなう予定だ。当然、結果次第では1年にもチャスはあるぞ!そして1・2年生は、その先の秋の新人戦も見据えて動いていくことになる。どの大会も、準備と練習がすべてだ。――じゃあ、練習開始!」
佐々木の号令で、部員たちが一斉に散っていく。
一年生たちはコートの周りを走り始め、それから基本的な球出し練習へと移った。
将太は、石田の鋭いスイングを横目で見ながら、必死にラケットを振り抜いた。
―――
同じ頃、北校舎の美術室。
室内には、鉛筆の先がカサカサと紙を擦る音だけが、等間隔に響いている。
美術部二年生の間城は、窓際の席でスケッチブックに向き合っていた。
夕日に縁取られた彼女の横顔は、静かに集中するアスリートのような気高さがあり、その凛とした佇まいは部内でも一目置かれる存在感を放っていた。
「――雄一くん、手が止まっているわよ。迷っているなら、一度線を消してみたら?」
間城が、作業を続けながら声をかけた。
背後では、一年生の雄一が卓上に置かれた木製の積み木のデッサンに取り組んでいる。
その瞳は冷静に、目の前のシンプルな形を見つめていた。
「――いえ。この面の境界の捉え方が、少し難しいですね。どうしても平面的になって、奥行きが出てくれません」
雄一は鉛筆を置き、短く息を吐いた。
間城は自らの手を止めると、静かに口を開く。
「それは、形をただの『四角』として捉えているから。見えない裏側の構造や、接している面の重なりを意識しないと。――たとえば、末端の動き。ただの手の形を描こうとするんじゃなくて、その下の骨格や、力を入れた時に浮き出る筋を追うの」
間城は、先日描いた習作のページを捲り、雄一に見せた。
そこには、テニスシューズと、その靴ひもを締め上げる「両手」だけが、執拗なまでの密度で描き込まれていた。
(テニスシューズ?ここ最近の出来事から察するに――これは、将太か?)
「手元だけなのに、妙に圧迫感のある絵ですね。誰の手かは分かりませんが、何かを必死に抑え込んでいるような」
雄一は、静かな眼差しでそのスケッチを覗き込んだ。
「そう見える?これはね、新しい場所へ踏み出そうとしている人の手よ。不器用だけど、迷いのない良い手だったから、つい描き込んでしまったの」
そう言ってのける間城の表情を雄一はスッと盗み見る。
(――うーん、これは……まさか)
間城は再び鉛筆を動かし始めたが、ふと思いついたように、雄一へ視線を戻した。
「ねえ、雄一くん。あなたって、どうして美術部に入ったの?そんなに黙々と地味な練習を続けられる人って、あんまりいないんだけど」
不意を突かれた問いに、雄一はわずかに鉛筆を握る指の位置を変えた。
視線は画用紙の立方体に落としたままだ。
「――何となく、ですよ。理由なんて、そんな大層なものじゃないです」
「そうかな。あなたの線、迷いがないようでいて、何かを隠しているみたいに見えるけど」
間城の言葉は、追求というよりは、どこか楽しげな好奇心に近い。
雄一は少しの間、沈黙した。
理由はある。
ただ、もし、胸の内に秘めているこの理由を打ち明ける時が来るのだとしたら、それは目の前の先輩ではなく、あの腐れ縁の二人なのだろう。
雄一はわずかに口角を上げ、手元から目を離すことなくごく自然に。
「――内緒です。まだ、自分でもよく分かってないことですから」
「そう。――いいよ、話してくれる時がくるの楽しみにしておくね。じゃあ、まずはその立方体の裏側を形にすることから始めようか」
―――
テニスコートのすぐ横、屋内外兼用プール。
スライド式の屋根の隙間からは、外で練習に励むテニス部員たちの掛け声が、水面に反射して反響している。
重い扉を開けると、湿り気を帯びた塩素の匂いと、規則正しい水音が戸澤菜奈を包み込んだ。
「――戸澤さん、今日もお疲れ様。自由形八百メートルに向けた持久力アップね。自分のリズムを確認しながら、四百メートルを二本いってみようか」
女性の顧問が、優しく声をかけながらストップウォッチを構えた。
「――はい! よろしくお願いします」
菜奈は明るく返事をして、シリコンキャップを深く被った。
けれど、ゴーグルを装着した菜奈の瞳には、ふとした瞬間に数日前の光景が浮かんでくる。
放課後の時計台の下。
あの単細胞で真っ直ぐな将太が、凛とした雰囲気の美人な先輩――間城先輩と二人きりで、何やら親しげに話していた姿だ。
(――将太のやつ、先輩とあんな場所で何話してたんだろ。あいつのあんな表情今までみたことないし……鼻の下伸ばしてたんじゃないでしょうね)
胸の奥が、冷たいプールに入る直前のような、落ち着かない感覚でざわつく。
(――わけわかんない)
菜奈はそれを振り払うように、飛び込み台の縁を強く掴んだ。
合図とともに、菜奈は青い世界へと滑り込んだ。
八百メートル自由形。
延々と自分と対話し続ける、孤独で過酷な競技。
一掻きごとに腕を伸ばし、正確なリズムを刻んでいく。
(――集中、集中。今は泳ぐことだけ考えなきゃ!)
一本目を終え、菜奈がプールの縁で肩を回していると、同じ一年生の真里菜がぱしゃぱしゃと水を跳ねさせながら寄ってきた。
「――ちょっと菜奈ちゃん、今のラップ完璧!すごい!お店の手伝いもやってるのに、その体力どこに隠してるの?」
真理亜が目を丸くして尋ねると、菜奈はぷはっと息を吐き、ニコリと笑った。
「――あはは、内緒。でも、水の中にいる時が一番、何も考えなくていいから楽なんだ」
心の中のモヤモヤを、力強いキックで蹴散らす。
二人が笑い合いながらそんなやり取りをしていると、男子部員の健太がプールサイドを通りかかった。
「――戸澤、調子良さそうだな。さっき先輩たちが、お前の八百メートルなら確実に上を狙えるって盛り上がってたぞ。一年の女子にこんなすごいのがいるなんて、俺たちも鼻が高いわ」
健太が感心したように親指を立てると、菜奈は少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに微笑んだ。
「――えっ、そうなの? 嬉しいな。健太たちにそう言ってもらえると、もっと頑張らなきゃって思うよ。期待に応えられるように、しっかり泳ぐね!」
「おう、楽しみにしてるぜ!」
健太が練習の列に戻っていくのを見送って、菜奈は深く息を吸い込んだ。 将太がどこで誰と話していようと、自分はここで、自分の戦いをするだけだ。
「――いい表情ね、戸澤さん。それじゃあ、ラスト一本。一番いいフォームで上がりましょう」
女性顧問の柔らかな指示に、菜奈は力強く頷いた。
屋根の隙間から差し込む夕焼けが、プールの水面にオレンジ色の筋を引いている。
壁一枚隔てた隣のコートから聞こえる、将太たちの必死な声。
(――負けてられない。私も、私の場所で。みんなに、そしてあいつらに恥ずかしくない泳ぎをしたい)
菜奈は再び水の中へと潜った。
滴る水滴が、彼女の肩を伝って落ちていく。
練習を終え、更衣室に戻った菜奈は、シャワーを浴びてから鏡に向き合った。
塩素で少し赤くなった瞳をタオルで拭い、結び直した髪を確かめる。
鏡の中の自分は、まだ少し火照っていて、どこか晴れやかな顔をしていた。
水の中で自分と向き合った時間は、余計な邪推を洗い流してくれたようだ。
(――さて。あいつら、もう終わったかな)
菜奈は小さく一つ頷くと、スポーツバッグを肩にかけ、部室を後にした。




