第11話 西日に縁どられて
日曜の正午。
佐々木主将による長いミーティングがようやく終わったのは、昼食のチャイムが遠くで鳴り響く頃だった。
「よし、練習始めるぞ! 全員コートに入れ!」
佐々木の声が響き、部員たちが一斉に動き出す。
最初のメニューは、コートの左右に激しく振り回されるノックだった。
佐々木が「いくぞ田頭!」と声を飛ばし、手出しのボールを容赦なく打ち込んでくる。
右へ、左へ。
将太はがむしゃらに足を動かし、必死にボールを追いかけた。
以前のように足がもつれることもなく、ボールとの距離感が正確に掴めるようになっている。
バコンッ、と乾いた音がして、ボールが相手コートの深い位置へ飛んでいく。
「――ほう、反応が良くなったな」
佐々木がニヤリと笑い、今度は逆サイドのネット際へ、わざとらしいドロップショットを落とした。
将太は前へ向かって鋭く走り出す。喉の奥がヒリつくような感覚。
最短の距離でボールに追いついて、ラケットの先で掬い上げた。
「おい、田頭のやつ、動きが変わってきたな」
コート脇で順番待ちをしていた二年の高橋健太が、隣にいる、同じく二年の伊藤拓海にボソッと言った。
伊藤は、将太のスイングをじっと見つめたまま、短く返す。
「――ようやく、無駄な動きが減ってきた。打つ瞬間の迷いが消えてる」
伊藤の言葉はいつも淡白だが、将太がテニス部の一員としてようやく形になってきたことを認めているようだった。
ノックが終わると、将太は膝に手をついて激しく肩を揺らした。
肺が焼けるようで、吐き出す息すら熱い。
隣で「はい、これ」とタオルを投げてくれたのは、同じ一年生の長谷川陸だった。
長谷川も顔を真っ赤にして、死にそうになりながらも充実した笑みを浮かべている。
「長谷川、ありがとな。――今、どうだった? 少しは動けてたかな」
「うん、全然違うよ。ボールを追うときの迷いがないっていうか。僕なんて、まだボールが来ると焦っちゃうのに」
「でも、やっぱり石田とは差があるよな」
将太は、隣のコートで淡々とラリーを続けている石田優希を見た。
石田は無駄に走り回ることもなく、当たり前のように正確な返球を繰り返している。
その洗練された動きが、将太にはまだ遠いものに見えた。
「田頭、動きが良くなれば、自分の『下手さ』がより鮮明に見えてくるだろう?」
いつの間にか背後に立っていたのは、副部長の野上透だった。
「仏の野上」と呼ばれる通りの穏やかな表情だが、その目は一年生たちの成長を冷静に、そして温かく見守っている。
「はい。追いつけるようにはなりましたけど、打ち返すときにまだ力が入りすぎてるというか――」
「それでいい。まずは自分の現在地を知ることだ。感覚が鋭くなってきた証拠だよ。そこから先は、地道な繰り返しだ。自分の身体に、その感覚を染み込めていくしかないんだよ」
野上の言葉は、焦っている将太の心に、ゆっくりと染み入るように落ちていった。
―――
練習は夕暮れ時まで続いた。
全てのメニューが終了した後、佐々木が部員を呼び止めた。
「朝のミーティングで渡し損ねてたんだが、備蓄してあったテニス部専用のジャージだ。これまで学校指定ので我慢させてたが、バタバタしてて遅くなったな」
その言葉に、将太たちの顔がパッと明るくなった。
部室の棚から出されたジャージは、学校指定の青いものとは違い、引き締まった濃黒のデザインだ。
佐々木が一人ひとりの名前を呼び、手渡ししていく。
将太の番が来た。
「田頭、しっかり頑張ってるな。――お前の分だ。今日からこれを着て、もっと上を目指していこうな」
「はい! ありがとうございます」
受け取ったジャージは、まだパリッとした硬さが残っていて、新品特有の匂いがした。
背中には大きく「追手前高校テニス部」の文字が刻まれている。
これに袖を通す時、本当の意味でこの部活の一員になれたような気がして、将太は胸の奥が熱くなるのを感じた。
―――
カゴにボールを詰め、コートのトンボがけを終えて、ようやく本当の「解散」となった。
将太は当番として最後に部室の戸を閉めようとしたが、ふと手が止まる。
「……あれ?」
ポケットの中を探る。
あるはずの感触がない。
カバンの底、新しいジャージの袋の中。
どこを探しても、部室の鍵が見当たらなかった。
血の気が引くのが分かった。
部室の鍵は一つしかない。
失くしたとなれば、明日の練習にも支障を出してしまう。
将太が半泣きで部室の周りをうろうろしていると、「ちょっと、何やってるの。そんな顔して」と呆れたような声がした。
振り返ると、そこには練習を終えたばかりの菜奈が立っていた。
水泳部の練習もハードだったのか、彼女の髪はまだ少し湿っていて、塩素の匂いがかすかに漂っている。
「菜奈――! あのさ、部室の鍵失くしちゃって」
「鍵? ――もう、あんたはどこか抜けてるんだから。どこらへん歩いたの、一緒に探してあげるから」
菜奈は「やれやれ」と肩をすくめ、自分のスポーツバッグを地面に置いた。
二人は夕闇が迫るコートへと足を踏み入れた。
オレンジ色の光が砂粒を一つずつ際立たせ、影を長く伸ばしている。
「……ごめんな、菜奈。疲れてるのに」
「いいわよ、別に。そのまま帰って、明日また騒ぎになる方が面倒だし。――それより、ジャージもらえたんだね。さっきの袋、大事そうに抱えてたじゃない」
「あ、ああ。テニス部専用のやつ。ずっと欲しかったからさ。……これ着て練習してたら、少しは強そうに見えるかな」
「ほんと、格好から入るタイプね、あんたは」
菜奈は少し苦笑しながらも、真剣な眼差しで砂の上を追っていた。
腰を低く落とし、小さな銀色の光を見逃さないよう丁寧に歩を進める。
ふと、西日に照らされた彼女の横顔が将太の目に留まった。
部活後の火照った頬、少し乱れた髪。
そこへ夕刻の強い光が差し込み、彼女の輪郭を金色の淡い光で縁取っている。
いつも喧嘩ばかりしているはずの幼馴染が、不意に、知らない誰かのように見えた。
(……なんか、……綺麗、か?)
心臓の奥が不自然に跳ねた。
将太は慌てて視線を地面に戻すが、一度意識してしまった奇妙な感覚はすぐにはおさまらない。
そんな釈然としない沈黙の中、校舎の方からゆっくりとした足音が近づいてきた。
「――お前たち、何をそんなに必死に探しているんだ?」
北校舎の出口から歩いてきた雄一が、少し眠そうな目をこすりながら立っていた。
「あ、雄一! 鍵だよ、部室の鍵。練習中に落としたか、顔洗った時にどこか置いちゃったみたいでさ」
「鍵か。――さっき美術室の窓から、二人が地面を這いずり回っているのが見えたんだ。何かの儀式でも始めたのかと思ったよ。間城先輩も『あの子たち、何拾ってるのかしら』って不思議がってたぞ」
雄一が少し口角を上げて笑う。
「笑うなよ! こっちは必死なんだから。雄一も手伝ってくれよ」
「分かったよ。――水道のあたりはもう見たのか?」
雄一が輪に加わり、三人で砂の上を根気強く探し始める。
菜奈が「ここらへんじゃない?」と指差し、雄一が「いや、もう少しあっちだろ」と冷静に指し示す。
三人の捜索範囲が広がっていった、その時だった。
「あの……すみません」
コートの入り口から、遠慮がちな声が響いた。
振り返ると、そこには女子テニス部の一年生――
(――確か、えっと・・・近森 香音さん?)
が立っていた。
彼女の掌には、銀色の鍵が乗っている。
「これ――。水道のところに置いてありました。田頭くん、今日当番だったと思って、探しに来たんですけど」
「あ! それだ! 助かった――! 本当にありがとう、近森さん。命の恩人だよ」
将太が駆け寄って鍵を受け取ると、香音は少し照れたように微笑んだ。
「いえ――。あの、さっきの練習、ちょっとだけ見てました。田頭くんがすごく必死にボールを追いかけているのを見て、私ももっと頑張らなきゃって……なんだか励みになりました。それに、その……ジャージ、おめでとうございます」
「えっ、見てたの? いや、必死なだけで余裕なんて全然ないけど……でも、そう言ってもらえると嬉しいよ。ありがとう、これからもっと頑張るよ」
将太が鍵を握りしめ、香音に何度も礼を言う姿。
それを横で見ていた雄一は、ふと菜奈に視線をやった。
菜奈は、自分が探していたのが馬鹿らしくなったような、少し拍子抜けしたような顔で、スッと立ち上がった。
「なんだ、見つかったんだ。よかったじゃない。――それじゃ、帰ろうか」
菜奈はいつものように明るく声をかけた。
香音は「お邪魔しました」と会釈して女子部室の方へ戻っていく。
「悪いな、二人とも。お礼と言っちゃなんだけど、帰りになんか奢るよ。コンビニのアイスでいい?」
「やった!一番高いやつね!」
菜奈が笑って歩き出す。
その後ろを将太と雄一が続き、三人は久しぶりに並んで校門へと向かった。
夕闇に包まれ始めた道を、三人でゆっくりと歩いていく。
「――なあ、雄一。さっき間城先輩、なんて言ってたんだ?」
将太が、気になっていたことを尋ねた。
「ん?ああ、鍵を探しているお前たちの姿が、なんだか微笑ましかったらしいよ。一生懸命なのはテニスだけじゃないのね、って」
「うわ、恥ずかしいな。……でも、先輩が見てくれてたなら、しっかり探して正解だったよ」
「あんた・・・・・・動機が不純よ」
将太が頬をかきながら嬉しそうに言うと、雄一が追い打ちをかけるように口を開いた。
「――まあ、釘を刺しておくけどさ。間城先輩の感じだと、正直、将太のことは『良い絵の題材』、優れたモデルぐらいにしか思ってないぞ。それ以上でも以下でもない」
「えっ……。そ、そうなのかな」
将太の顔が急に不安げに曇る。
隣で聞いていた菜奈が、少し困ったように笑いながら続けた。
「あはは! 雄一、はっきり言うわね。でも、確かにそうかもね? 将太のそういう、がむしゃらな所がいかにも『描きごたえがありそう』なだけかもしれないし。――ま、せいぜい頑張りなさいよ、良いモデルさん」
「ひどいな、二人とも。……でも、題材としてでも興味を持ってもらえるなら、俺はそれでいいよ。先輩の目に留まるようなプレーを続けていれば、いつか――」
「いつか、何よ? ――あんたっていっつも気が早いよね」
菜奈のからかいに、将太は言葉を詰まらせた。
「……そういえば、五月にある室戸の宿泊研修の班決め、もうすぐだよな。二人はどうするんだ?」
雄一が話題を切り替えた。
「あ、そっか。もうそんな時期か」
「将太、また雄一に泣きついて混ぜてもらうつもりでしょ。そう言えば、中学の時の修学旅行、バスの座席でどっちが窓際かで揉めたじゃない」
「いや、あれは揉めてないって! 雄一が読書に集中したいからって全然譲ってくれないからさ」
「俺はただ、静かに本を読みたかっただけだ。お前が隣でずっと菓子の袋をガサガサさせるから、結局一ページも進まなかったけどな」
「あはは! 今年も同じことになりそうね。私は女子の班でバーベキューのメニュー考えてるから、あんたたちは火おこしでも頑張りなさいよ。将太、あんたは料理に触らないでね、焦がしそうだから」
「失礼な! 俺だって少しは成長してるんだよ。テニス部で鍛えられてるし」
「いや、バーベキューに何か関係あるのかそれ?」
雄一が指摘し、三人の笑い声が暮れなずむ道に響く。
他愛のない会話を交わしながら歩くこの時間が、将太にとっては、テニスと同じくらい大切なものに思えた。
ふと、将太は隣を歩く菜奈を見た。
今の将太にはこの騒がしい日常こそが、何よりも落ち着く居場所だった。
「――よし、アイス。コンビニ寄るぞ!」
将太が少し駆け足になると、菜奈が「あ、待ちなさいよ!」と追いかける。
雄一がそれを見て溜息をつき、静かに二人の後を追った。
長い一日が終わろうとしていた。
新しいジャージの重みを背負い、将太は明日からの練習に思いを馳せる。
三人の影は長く伸び、静かな夜の街へと溶けていった。




