第100話『あの日の約束、覚えていますか?』
「――れんの名前は……れんの、名前は……」
「……? 隼人くん」
俺はれんの本当の名前を言おうとして言葉に詰まった。
あれ? どうしてだ……? 名前が出てこない。
今までの出来事は連鎖的に思い出していく事ができたのに、何故か、れんの本当の名前が出てこない。
まるで頭にぽっかりと穴が空いてしまっているようで、抜け落ちてしまった記憶が戻ってこない。
みんなが不審そうに俺のことを見ていた。
このまま黙っているわけにもいかず、俺は救いを求めるように結菜の肩を叩く。
結菜は何か集中していたのか、必要以上にビクッと反応する。
「は、隼人……おかしいんです……」
この時俺は初めて結菜の様子がおかしい事に気づいた。
「思い出せない……。思い出せないんです。隼人の話は確かに全部知っている。僕たちの過去……。聞いているうちに全部ぜんぶ思い出すことが出来た。正しく言えば、僕も部分的に覚えていたから、答え合わせをしているような感覚だった。この記憶は正しい。ここはちょっと違っていた。そんな感じ。でもどうして? 思い出せないんだよ……。れんさんの本当の名前を思い出すことができない……。まるで茨の中に隠された真実を探すような……そんな感覚。記憶の奥深くに入り込もうとすればするほど、鋭い棘を持った茨が阻害してくる。これ以上先には進ませないよとでも言うように……。ねぇ隼人、隼人もこんな感じなんじゃないの?」
「ああ……そうだ。どうしても思い出すことができないんだ。俺は確かにれんの本名を知っているはずなのに思い出せない。靄がかかっているんだ。いくら掻き分けても靄が晴れない。それどころかどんどんと濃くなってきている。思い出すな。そう言われてる」
どうしてだ?
どうして思い出せない?
れんの名前に何かあるのか……?
「――人の記憶というのは常に不安定なものよ」
凛とした声が響いた。
優誠の眠るベッドに腰掛けているつもりは、優誠の頭を優しい手付きで撫でていた。
「記憶は精神状態に大きく左右される事があるわ。辛いことや悲しいことなんて覚えていたくない。そう言った記憶は人を不安定にさせる。だから頭が勝手に忘れさせようとするのよ。自己防衛のためにね」
「つまり……俺と結菜にとってれんの本名は辛かったり、悲しかったりするものだってことなのか?」
「一概にそうとも言えない。だって言ってしまえばたかが名前よ? 辛いも悲しいもあったもんじゃないと思う。だからこれは連鎖的なものなのよ」
「連鎖的……? どういうことだ」
言っている意味がよく理解出来ず首を傾げる。つもりは少し言いづらそうにしていたが、黙っているわけにもいかず、数秒の沈黙の後、口を開いた。
「……結局まだ結論は聞いていないとだけど、隼人の言っていた大切な人っていうのはその……颯恋さんのことで、颯恋さんは……亡くなっている。そうでしょ?」
なるほど。つもりが言葉を濁した理由がよく分かった。
俺は過程だけを話して結論には一切触れていない。話しづらいのは当然の事だ。もし間違ったことを言ってしまえばかなり失礼にあたる。
「ああ。颯恋が俺と結菜の大切だった人で、その人はもう亡くなってしまった」
「ごめん。無理に言わせる形になっちゃって」
「いいさ。どうせ遅かれ早かれ言うことに変わりなかったんだからな。それよりも話の続き、聞かせてくれよ」
分かった。と、つもりは頷く。
「颯恋さんとれんさんは姉妹だった。確固たる繋がりがあった。そうよね? 颯恋さんが亡くなってしまい、そのショックにより颯恋さんと一番の繋がりがあったれんさんとの記憶を無くしてしまった。私はそう考えたわ」
「事故のショックによる記憶の欠落……か。つもりの言う通りかもしれない。俺も、結菜も、事故の時の事を覚えていないんだ。正確に言えば、事故の日の記憶がない。というべきかもしれない」
「辛い記憶というのは忘れるか、自分の都合のいい様に書き換えられるか。その二択しかないわ。受け止めるという事だってできるでしょうけど、二人の場合は前者。忘れてしまっている。受け止めようと思ったのであれば結果は変わっていたはずよ」
つもりの発言は列記とした根拠がある訳ではない。けれども十分な説得力があった。
つもりは間違ったことを言わない。今までの付き合いからがあるからこそ、信用することが出来る。
「……ハルカ、一つ、気になること、ある。聞いてみても……いい?」
遥香の視線の先には結菜がいた。
だから聞く前にもう、遥香が何を言いたいのか分かっていた。
「……結衣ちゃん。本名は……結菜、だったんだよね。ハルカ、驚いたよ。どうして、名前を……変える必要が、あったの?」
「その答えは至ってシンプルですよ、遥香先輩。過去の自分とさようならをしたかったから。それだけ。結菜ではなく、結衣と名乗ることで過去の自分とは別の自分になれたんだよ。簡単に言うなら、結菜としての辛い過去から逃げ出した。だから結衣と名乗っていた。それだけのことだよ」
「……そう、なんだ。ハルカ達は……どう呼んだ方が、いいのかな?」
「今まで通り結衣でも、結菜でも。呼びやすいように呼んでくれて構いませんよ」
「……なら、本名で、呼びたい。その……友達、だからね、ハルカ達」
「友達……。そう、ですか。友達……ですか」
張り詰めていた結菜の表情が緩んだ。
心做しか頬が紅く染まっている。
そんな結菜の変化に、遥香は無言の笑顔を返した。
「良かった、です。ただの先輩後輩じゃなくて、友達って思ってくれていたんだね……。本当に、良かった。僕の……僕たちの過去を知ってしまったら今まで通りにはいかないような気がしてた。けれど……そんな事はなかったんだ」
「……まだ、全部、聞いたわけじゃない。けれど、大丈夫。心配、しなくて、大丈夫。結菜ちゃんに、どんな過去があろうと……ハルカ達は、友達、だよ。ずっ友、だよ」
「ずっ友とか……古いですよ、遥香先輩。でも……ありがとうございます」
過去の話を始めた時よりも、今の方が雰囲気が良くなっているような気がした。
俺の心も半分くらいはスッキリとしていた。
しかし、やはりれんの名前が思い出せない事が引っかかる。
「隼人くん、話しているの疲れたよね? 私ちょっと飲み物いれてくるよ」
「ありがとうございます、夜乃先輩」
「いえいえ」
夜乃先輩は早足で病室から出ていった。
部屋を出るその一瞬見えた横顔は泣いているように見えた。
パタンと閉じられたドアは、小さな拒絶の意味も含まれていたのだろう。
その証拠に誰一人として夜乃先輩を手伝いに行く者はいなかった。
「……夜乃先輩は感情移入をしすぎる人だからね。少しだけ一人でいれば落ち着くわよ。ああ見えて強い心は持っている。戻ってくる頃にはしゃんとしてる」
「僕が初めて夜乃先輩と話した時、あの人死のうと思っていたんですよ」
「何それ初耳なんだが」
「言わなかったし、言う必要もなかったから。もう解決していることを蒸し返すのもあれでしょ? この話をするのはやめておくよ。つまんないし」
最後の方に本音が漏れていた。
結菜はおもむろに立ち上がって窓の方へ移動した。
薄緑色のカーテンを開け、自殺防止の為に四分の一くらいまでしか開かない窓を開けると、涼しい風が入り込んできた。
「――もう、楽しい事は残されていません」
振り返った結菜の瞳には涙が滲んでいた。
結菜にしてはよく耐えたほうだった。
普段ならば過去の断片に触れるだけでも溢れる涙を抑えきれていなかったのだから。
「なので空気を入れ替えちゃいます。少しでも澄んだ空気が欲しい。これから先の話をする為にはそうする必要がある。それは僕のため。僕自身が己の過去に耐えきる為に、心の曇りを風に乗せて入れ替えないといけない」
ひとしきり強い風が吹く。
それと同時に病室のドアが開いた。
「寒っ。窓……開けたんだ」
腕の中に缶コーヒーを抱えた夜乃先輩が戻ってきた。
「良いタイミングです、夜乃先輩」
「え? あ、うん? とりあえず飲み物どうぞだよ」
全員にコーヒーを配り終えると、夜乃先輩は元の位置に座り直した。
目元が少しだけ紅い。泣いていたのは誰が見てもバレバレだった。
そして俺は心の中で夜乃先輩に謝る。
これから先の話は、純心な夜乃先輩には耐え難いものかもしれない。
ここまで話すと、俺の自身の記憶もだいぶ薄れてきていた。
事件のあったあの日に近づくにつれて、はっきりとしない部分が多くなっていた。
それは霧の森を進むような感覚に似ていた。
先が見えず、すぐそこの足元ですら危うい。いつ道を踏み外すかすら分からない。
ただ一つ確かな事がある。
それは颯恋の死だ。
けれどそれに至って経緯、原因が霧の中に隠されてしまっている。
覚えている事と言えば、あの雨の日に、四人で出掛けた時に、事故が起きたという事だけ。
俺、結菜、そして――颯恋。
あと一人は誰だったんだ?
れんか? 優香か? それとも俺の知らない誰かなのか?
何故雨の日に出掛けることになった?
事故の起きた原因は?
知らないことだらけだった。
だからきっと、これから話すことの殆どは曖昧なものになる。
でももしかしたら――もしかしたら、話しているうちに思い出すことが出来るかもしれない。
「……」
優誠と恋歌は相変わらず眠ったままだった。
この二人にも目が醒めたらきちんと話をしなければならない。
そして恋歌には聞かなければならない。
あの日の約束のことを――。
「……なぁ、恋歌」
俺は誰にも聞こえないくらいの声でひっそりと呟いた。
呼びかけても反応しない。当然だ。眠っているのだから。
「お前が……」
これはあくまでも俺の想像だった。
クリスマスのあの日、颯恋はれんの名前を自分とよく似ていると言った。
颯恋……かれん。
並び替えると、れんか。恋歌。
「お前が……れん、なのか? 恋歌……」
「……」
答えは返ってこない。当たり前だ。
俺は途端に馬鹿らしくなった。
こんなの俺のただの想像に過ぎない。
「――そうですよ」
「………………えっ?」
だからその答えが返ってきた時、俺は心臓が止まるほど驚いた。
眠っているはずだった恋歌が口を開いたこと、そして自分がれんであると名乗ったこと。
驚愕のダブルパンチがガツンと殴られたような衝撃を頭に与える。
「……」
恋歌がベッドからゆっくりと起き上がる。
そこでようやく他のメンツも恋歌が目を覚ましたことに気付いた。
「わたしが……れんです」
それは俺だけに向けられた言葉じゃない。
ここにいる全員に向けて発せられたものだった。
誰もが何か行動しようとしていた手を止め、ただただ恋歌を見ていた。
「わたしが颯恋お姉ちゃんの妹のれんです」
そうして全員の意識が自分に向いた時、恋歌はもう一度はっきりと告げるのだった。
「隼人先輩……いえ、隼人さん。それと結菜さん。あなた達が忘れてしまっている記憶のすべてをわたしは覚えています。だから二人が知りたいと願うのであれば、わたしは語りましょう。わたしの記憶しているすべてを――。11年前の真相を、今ここで明らかにしましょう」
本来はナースコールでもして恋歌が目覚めた事を知らせなければならない。
恋歌自身、その事は分かっていた。
だからナースコールのボタンを俺に向けて、懐かしいその言葉で問うた。
「――あの日の約束、覚えていますか?」
ああ、やっぱりか。やっぱりそうなのか。
何もかも、繋がっているのか。
何もかも……最初からすべて、一本の糸で繋がっていたのか。
ならば俺の答えは決まっていた。
「――教えてくれ、恋歌。あの日に何があったのか。そして約束の事を。俺を解き放ってくれ。過去の呪縛から、俺と結菜を」
「前に話した事を覚えていますか? 隼人さん。真実ほど人を惹き寄せるものはない。けれど、真実ほど人にとって残酷なものもない。隼人さんは今パンドラの箱を開けようとしています。その覚悟があるんですね?」
「ある。俺は……俺たちは知らないといけないんだ」
「分かりました。でも一つだけ理解しておいてください。これから話す事はわたしの知っていることのすべてという事を。もしかしたらまだ見えていない部分もあるという事を、重々把握しておいてください」
そうして恋歌は語り出した。
恋歌の知りうる、11年前の真相を――。
to be continued
心音です。こんばんは。
ついにこの小説も100話となりました。
いつもありがとうございます。
過去編もそろそろフィナーレです。
繋がる過去。明らかになる真実。
あの日の約束、覚えていますか?




