↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/13

第九話 あなたは、坑へ降りておりません

 次の朝、役所の土間に塩番が立った。


 塩番には椅子(いす)を出さなかった。夫には出したが、壁(かべ)際に立ったままだった。この人は、こういう場では座らない。ハンナは柱のところに居た。居ていいと私が言った。


「抜いた塩の重さを、坑の帳面から出しました。……積み場の掻(か)き出した跡とも、だいたい合います」


 私は帳面を開いた。


「十九の樽(たる)ぶんでございます。これを弁済していただきます。今年と来年の、坑の手当から引きます」


 塩番は頭を下げた。


「それから、選り分けの役を解きます」


 顔が上がった。


「奥(おく)方様。……選り分けができるもんは、村に三人しかいねえ」

「存じております」

「納めまで、あと五日だ」

「存じております」


「役を解くのは、見せしめではございません。あなたが預かっていた印で、袋の中身が入れ替(か)わりました。……その印を、もう預けられません」


 塩番は、そこで初めてこちらを見た。


「春は」


 声が、低かった。


「春は、うちの村の側に立ってくだすった」


 私は袖(そで)の中で手を握った。


「はい」


 それだけ言うのに、少し時がかかった。


「あのときは、村が正しゅうございました。今年は違(ちが)います」


 塩番は、また頭を下げた。


「もう一つ、申し上げます」


 私は別の帳面を出した。役所から借りている、割り当ての帳面だ。


「峠(とうげ)側の村の塩の割り当てを、去年の秋より前の数に戻(もど)します。城下のぶんも同じに戻します。今年の秋の漬け込(こ)みに、間に合わせます」


「……なんで、いま」

「去年細らせたまま置いたのは、こちらの落度でございます。夏のあいだ、その帳面を持っていたのは私でございました。戻せる場所に、私はおりました」


 私は帳面を閉じた。


「あなたが抜いたのは罰します。抜かなければ村が食えなかったことは、こちらの咎(とが)でございます。……二つは、別に数えます」


 塩番が土間を出ていったあと、夫が壁から離(はな)れた。


「言えたな」

「はい」

「……手が、震(ふる)えている」


 この人は、見なくていいものをよく見る。


     *


 入れ替わりに、坑の頭が板を運び込んできた。


 年ごとに束ねてあって、荒縄で結んである。二人がかりで、蔵の床に積み上げた。


「奥方様。二十年分です」

「ありがとうございます」


 私は書記を呼んだ。


「昨日、検分書の控(ひか)えのことを伺(うかが)いました」

「ございます。王都へ出したものの写しを、こちらでも一部預かる決まりでございまして」

「見せてくださいまし」


 書記が持ってきたのは、二つ折りの紙だった。役所の字ではない。速くて、崩(くず)れていた。


 昨日聞いたとおりのことが書いてあった。


 ――坑に入り、上層の塩を検む。選り分けの場に立ち会う。異常なし。


「これは、いつ書かれたものですの」

「検分の日でございます」


 検分の日、あの方は役所の蔵の前から一歩も動いていない。私も、書記も、坑の頭も、塩番も、そこにいた。


 私は今年の束を解いた。日付が縦に並んでいて、その下に降りた者の名が書き足されている。上がったぶんは、上から順に消してある。


 検分の日の板には、坑夫が七人。それだけだった。


 その次の日の板に、坑の頭の名と、私の名と、ハンナの名がある。


「頭。この二十年で、王都の役人が降りられたことはございますの」

「ありません」

「一度も」

「一度もありません。降りるなら書きます。書かずには降りられません」


 彼は板の縁(ふち)を指でなぞった。


「合わないと、中に誰(だれ)か残ります。だから書きます」


     *


 王都へ向かう道の最初の駅へは、夜が明けるとすぐに人をやってあった。


 城下から半日のところにある。王都までの早馬は、そこで馬を継ぐ。継ぐには、駅の者が荷を受け取って、次の駅まで走らせなければならない。


「駅の帳面には、何を書くのですって」


 日が傾(かたむ)くころに戻ってきた役所の者が、写しを差し出した。


「日付と、出した者の名と、宛先(あてさき)と、それから――継ぎの用向きだそうでございます。至急のものは順を先にいたしますので、何の用かを短く書かせると」


 私は写しを開いた。


 ギースラーの名が、二つあった。


 一つは、検分の日の午後。宛先は王都。用向きの欄(らん)に、「着到(ちゃくとう)」とある。


 もう一つは、その前の日。


 宛先は同じ王都。用向きの欄には、こう書いてあった。


 ――献上(けんじょう)塩、混ぜ物の儀につき至急。


 城下に着いたその日で、検分の前日だった。


     *


 夕方、私は役所の広間に塩税監を呼んだ。


 夫が壁際に立っていた。役所の者が両側に並んで、坑の頭が今年の束を抱(かか)えて後ろに控えた。あとの束は、蔵に積んだままだ。


「妃殿下。お呼びと伺いました」


 ギースラーは、外套(がいとう)を脱がずに入ってきた。裾に、この日もまだ泥が一つも跳(は)ねていない。従者が、薄い鞄(かばん)を抱えて戸口に立った。


「二つ、お伺いいたします」

「何なりと」

「一つめ」


 私は検分書の控えを机に置いた。


「これは、あなたの字でございますか」


 彼は覗き込んで、頷(うなず)いた。


「私の字でございます」

「では、読み上げてくださいまし」

「妃殿下」

「読み上げてくださいまし」


 ギースラーは紙を取った。声は落ち着いていた。


「坑に入り、上層の塩を検む。選り分けの場に立ち会う。異常なし」


 彼は紙を置いた。


「何かご不審が」

「あなたは、坑へ降りておりません」


 広間が静かになった。


「これをお書きになった日、あなたは役所の蔵の前におられました。朝から昼まで、一度も坑へ向かっておられません。……私も、書記も、坑の頭も、塩番も、そこにおりました」

「妃殿下。言葉のあやというものが」

「頭」


 坑の頭が前へ出て、束を机に載(の)せた。荒縄が鳴った。


「今年の分です。あとは蔵に。今年をのぞいて十九年」


 私は検分の日の板を抜いた。


「坑は、降りた者の名を書きます。数が合わないと、誰かが中に残るからでございます。……この日の板に、あなたのお名前はございません」


「書き落としということも」

「頭。書き落としたことはございますか」

「ありません」


 坑の頭の声は、大きくなかった。


「書き落とせば、人が死にます」


「二十年、一日も欠けていないと伺いました。……蔵の十九年分も、お望みならこの場で解きます」


 ギースラーは、板を見なかった。


     *


「妃殿下。仮に私が坑へ降りていなかったとして、それが何でございましょう」


 彼はゆっくり言った。


「私は異常なしと書きました。異常なしと書いた者が坑へ降りていなかったのなら、それは私の落度でございます。落度は落度として、王都でお咎めを受けましょう。……ですが、」


 彼はこちらを見た。


「妃殿下が塩を止められたことと、関わりがございません」


 筋は通っていた。通っているところだけを選んで並べてある。


「二つめでございます」


 私は、従者の抱えている鞄を見た。


「昨日お見せくださった綴(つづ)じを、もう一度出してくださいまし」


 従者が動かなかった。ギースラーが顎(あご)で示して、束が机に載った。


「私の身元照会だと伺いました。……理由も伺いました。私が自分の舌で献上の塩を止めたので、その舌が信に足るかどうかを王都が見ている、と」

「左様でございます」

「私が塩を止めましたのは、二日前でございます」


 広間が、また静かになった。


「王都までは、早馬で二日。往きだけで二日でございます。二日前に私が止めて、それが王都へ届いて、王都が照会を起こして、五年分の日誌を写して、綴じて、あなたのお手元へ戻る。……二日では足りません」


 ギースラーは答えなかった。


「あなたは、この綴じを持って城下へお入りになりました。私が塩を止めるより前に、私の舌を疑う紙が作られていたことになります」


 私は、束の端(はし)を指で押(お)さえた。


「王都は、私が止めるより前から、私の舌を疑うつもりでいた。……そういう紙でございますね」


 従者が、机のほうへ手を伸ばした。


「それは」


 ギースラーの声が、はじめて大きくなった。


「それは、こちらの預かりものでございます」

「では、預からせていただきます」


 私は束を引き寄せた。従者の手が、途中(とちゅう)で止まった。


     *


 それから、宿駅の写しを机に出した。


「三つめになってしまいました」


 紙を彼のほうへ滑らせた。


「検分の日の午後に、あなたのお名前で早馬が出ております。用向きは、着到」


 私は、その下の行を指した。


「その前の日にも、出ております。……献上塩、混ぜ物の儀につき至急」


 ギースラーの手が、外套の襟から離れた。


「城下に着いたその日でございます。坑にも降りず、樽も開けず、重さも量らないうちに、あなたは混ぜ物の儀を王都へ急がせておられます。……着到のほうは、その翌日でございました」


 私は紙を戻した。


「どこでお聞きになりましたの。塩に混ぜ物があると」


 ギースラーは、外套の襟に手をやった。それだけだった。


     *


「あなたは、二枚の紙を書かれました」


 私は続けた。


「この領へは、異常なし。王都へは、混ぜ物の儀につき至急。……異常が無いものを、急ぐ必要はございません」


 今度も、返ってこなかった。


「異常なしと書いて封(ふう)をさせれば、塩はそのまま王都へ着きます。王都には、あなたが先に出された報せが届いております。あとは、王都の検分が蓋を開ければよろしい。北の大公領が、捨てる塩を献上に混ぜて送った。……そういう形になります」


 私は、机の上の三枚を並べた。


「そうなれば、この領の塩は買い手を失います。塩を売って穀物を買う土地でございますから、この冬、人が飢えます」


「妃殿下」


 ギースラーが口を開いた。


「私は、塩に手を触れ(ふれ)ておりません」

「はい」

「捨て塩を混ぜたのは、この領の者でございます」

「はい。そちらは、けさ罰しました」


 私は、彼の目を見た。


「あなたを罰するのは、混ぜたからではございません。……見てもいないものを、見たと書いたからでございます」


 それから、もう一言だけ足した。


「あの塩は、苦くないものになって王都へ着きます。蓋を開けて舐(な)めれば、そう出ます。……そのとき嘘(うそ)を書いたことになるのは、この領ではございません」


     *


 夫が、そこで初めて壁から離れた。


「送り返せ」


 短かった。


「馬は貸す。糧も持たせろ。……この三枚は、俺の早馬で送る。あんたより先に着く」


 ギースラーは、外套の前を合わせた。合わせるとき、指が少し滑った。


「大公殿下。この件は、私一人の落度ではございません」

「そうだろうな」

「王都には、王都の――」

「そこから先は、俺に言うな」


 夫は、そこで一度息を置いた。


「聞けば、俺が王都へ行くことになる」


     *


 次の日から、蔵に人が入った。


 城下の女たちが来た。峠側の村からも来た。春に酸漬けを疑われた村の人たちで、来いと言った覚えはない。


「奥方様」


 ハンナの祖母が、先頭に立っていた。手だけが大きい、小さな人だ。


「選り分けは、あたしらでもできるよ」

「三人しかおられないと伺いました」

「役に付いてるのが三人さ。目のあるのは、もっと居る」


 彼女(かのじょ)は、そう言って蔵の中へ入っていった。


 すれ違うとき、一度だけこちらを見た。


「あんたは、数える人だね」

「はい」

「そうかい」


 それだけだった。母のことは、何も言わなかった。


     *


 納めの日の朝、四十二の樽が蔵の前に並んだ。


 坑から上の塩を出し直して、村の女たちが選り分けて、重さを量って、封をした。マルセルが樽を叩(たた)いて回り、鳴りの濁った四つだけ詰(つ)め直させて、それから縄が掛(か)かった。


 私は全部の樽から一粒(つぶ)ずつ取って、舐めた。苦みは、どこにも無かった。


 縄を掛ける列のいちばん端に、塩番が立っていた。縄は持っていない。重さを量る台のところで、錘(おもり)を並べていた。


 夫が役所の戸口から出てきた。


「間に合ったな」

「はい」

「あの塩を通していたら、どうなっていた」

「この冬、穀物が足りません」

「そうだな」


 彼は、荷を見ていた。


「君は、七日前に四十二の樽を止めた。止めた理由は、苦かったからだ」


 黒い袖が、こちらへ向いた。


「苦いと言った者はいたが、止めろとは誰も言わなかった。医者は害が無いと言った。王都の役人は異常なしと書いた。……それでも君は止めた」

「はい」

「それで合っていた」


「……アレクシス様。お訊(き)きしてもよろしゅうございますか」

「言え」

「私が間違っておりましたら、どうなさいましたの」


 夫は少し黙(だま)った。


「俺の責だと言った」


     *


 隊商が出たあと、私は机の上の綴じを開いた。


 ――この日、ミレーユ嬢は在らず。同様、十一箇所(かしょ)。


 三年目の秋を含めて、十一。その日付を、私は一つずつ確かめた。三年目の秋の東屋。四年目の春の、風の強かった日の東屋。どの日も、あの方は同じ卓にいらっしゃった。私はその横で、茶碗(ちゃわん)を先に取っていた。


 王宮には、茶会の記録がある。日付も、席次も、給仕の名も残っている。


 あれを書き換えられる手でなければ、この余白には書けない。


 私は綴じを閉じて、抽斗(ひきだし)に入れた。


「ハンナ」

「はい」

「来年の塩は、私が数えます」

「……はい。春に、そう言ってくださいました」

「今年の塩も、数えました」


 私は抽斗に鍵を掛けた。


「去年の差も、まだ数えておりません。掘った塩と、配られた塩の合わないぶんでございます」

「……はい」

「王都にも、数え違いがございます。……あれも、いずれ数えに参ります」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。