第九話 あなたは、坑へ降りておりません
次の朝、役所の土間に塩番が立った。
塩番には椅子を出さなかった。夫には出したが、壁際に立ったままだった。この人は、こういう場では座らない。ハンナは柱のところに居た。居ていいと私が言った。
「抜いた塩の重さを、坑の帳面から出しました。……積み場の掻き出した跡とも、だいたい合います」
私は帳面を開いた。
「十九の樽ぶんでございます。これを弁済していただきます。今年と来年の、坑の手当から引きます」
塩番は頭を下げた。
「それから、選り分けの役を解きます」
顔が上がった。
「奥方様。……選り分けができるもんは、村に三人しかいねえ」
「存じております」
「納めまで、あと五日だ」
「存じております」
「役を解くのは、見せしめではございません。あなたが預かっていた印で、袋の中身が入れ替わりました。……その印を、もう預けられません」
塩番は、そこで初めてこちらを見た。
「春は」
声が、低かった。
「春は、うちの村の側に立ってくだすった」
私は袖の中で手を握った。
「はい」
それだけ言うのに、少し時がかかった。
「あのときは、村が正しゅうございました。今年は違います」
塩番は、また頭を下げた。
「もう一つ、申し上げます」
私は別の帳面を出した。役所から借りている、割り当ての帳面だ。
「峠側の村の塩の割り当てを、去年の秋より前の数に戻します。城下のぶんも同じに戻します。今年の秋の漬け込みに、間に合わせます」
「……なんで、いま」
「去年細らせたまま置いたのは、こちらの落度でございます。夏のあいだ、その帳面を持っていたのは私でございました。戻せる場所に、私はおりました」
私は帳面を閉じた。
「あなたが抜いたのは罰します。抜かなければ村が食えなかったことは、こちらの咎でございます。……二つは、別に数えます」
塩番が土間を出ていったあと、夫が壁から離れた。
「言えたな」
「はい」
「……手が、震えている」
この人は、見なくていいものをよく見る。
*
入れ替わりに、坑の頭が板を運び込んできた。
年ごとに束ねてあって、荒縄で結んである。二人がかりで、蔵の床に積み上げた。
「奥方様。二十年分です」
「ありがとうございます」
私は書記を呼んだ。
「昨日、検分書の控えのことを伺いました」
「ございます。王都へ出したものの写しを、こちらでも一部預かる決まりでございまして」
「見せてくださいまし」
書記が持ってきたのは、二つ折りの紙だった。役所の字ではない。速くて、崩れていた。
昨日聞いたとおりのことが書いてあった。
――坑に入り、上層の塩を検む。選り分けの場に立ち会う。異常なし。
「これは、いつ書かれたものですの」
「検分の日でございます」
検分の日、あの方は役所の蔵の前から一歩も動いていない。私も、書記も、坑の頭も、塩番も、そこにいた。
私は今年の束を解いた。日付が縦に並んでいて、その下に降りた者の名が書き足されている。上がったぶんは、上から順に消してある。
検分の日の板には、坑夫が七人。それだけだった。
その次の日の板に、坑の頭の名と、私の名と、ハンナの名がある。
「頭。この二十年で、王都の役人が降りられたことはございますの」
「ありません」
「一度も」
「一度もありません。降りるなら書きます。書かずには降りられません」
彼は板の縁を指でなぞった。
「合わないと、中に誰か残ります。だから書きます」
*
王都へ向かう道の最初の駅へは、夜が明けるとすぐに人をやってあった。
城下から半日のところにある。王都までの早馬は、そこで馬を継ぐ。継ぐには、駅の者が荷を受け取って、次の駅まで走らせなければならない。
「駅の帳面には、何を書くのですって」
日が傾くころに戻ってきた役所の者が、写しを差し出した。
「日付と、出した者の名と、宛先と、それから――継ぎの用向きだそうでございます。至急のものは順を先にいたしますので、何の用かを短く書かせると」
私は写しを開いた。
ギースラーの名が、二つあった。
一つは、検分の日の午後。宛先は王都。用向きの欄に、「着到」とある。
もう一つは、その前の日。
宛先は同じ王都。用向きの欄には、こう書いてあった。
――献上塩、混ぜ物の儀につき至急。
城下に着いたその日で、検分の前日だった。
*
夕方、私は役所の広間に塩税監を呼んだ。
夫が壁際に立っていた。役所の者が両側に並んで、坑の頭が今年の束を抱えて後ろに控えた。あとの束は、蔵に積んだままだ。
「妃殿下。お呼びと伺いました」
ギースラーは、外套を脱がずに入ってきた。裾に、この日もまだ泥が一つも跳ねていない。従者が、薄い鞄を抱えて戸口に立った。
「二つ、お伺いいたします」
「何なりと」
「一つめ」
私は検分書の控えを机に置いた。
「これは、あなたの字でございますか」
彼は覗き込んで、頷いた。
「私の字でございます」
「では、読み上げてくださいまし」
「妃殿下」
「読み上げてくださいまし」
ギースラーは紙を取った。声は落ち着いていた。
「坑に入り、上層の塩を検む。選り分けの場に立ち会う。異常なし」
彼は紙を置いた。
「何かご不審が」
「あなたは、坑へ降りておりません」
広間が静かになった。
「これをお書きになった日、あなたは役所の蔵の前におられました。朝から昼まで、一度も坑へ向かっておられません。……私も、書記も、坑の頭も、塩番も、そこにおりました」
「妃殿下。言葉のあやというものが」
「頭」
坑の頭が前へ出て、束を机に載せた。荒縄が鳴った。
「今年の分です。あとは蔵に。今年をのぞいて十九年」
私は検分の日の板を抜いた。
「坑は、降りた者の名を書きます。数が合わないと、誰かが中に残るからでございます。……この日の板に、あなたのお名前はございません」
「書き落としということも」
「頭。書き落としたことはございますか」
「ありません」
坑の頭の声は、大きくなかった。
「書き落とせば、人が死にます」
「二十年、一日も欠けていないと伺いました。……蔵の十九年分も、お望みならこの場で解きます」
ギースラーは、板を見なかった。
*
「妃殿下。仮に私が坑へ降りていなかったとして、それが何でございましょう」
彼はゆっくり言った。
「私は異常なしと書きました。異常なしと書いた者が坑へ降りていなかったのなら、それは私の落度でございます。落度は落度として、王都でお咎めを受けましょう。……ですが、」
彼はこちらを見た。
「妃殿下が塩を止められたことと、関わりがございません」
筋は通っていた。通っているところだけを選んで並べてある。
「二つめでございます」
私は、従者の抱えている鞄を見た。
「昨日お見せくださった綴じを、もう一度出してくださいまし」
従者が動かなかった。ギースラーが顎で示して、束が机に載った。
「私の身元照会だと伺いました。……理由も伺いました。私が自分の舌で献上の塩を止めたので、その舌が信に足るかどうかを王都が見ている、と」
「左様でございます」
「私が塩を止めましたのは、二日前でございます」
広間が、また静かになった。
「王都までは、早馬で二日。往きだけで二日でございます。二日前に私が止めて、それが王都へ届いて、王都が照会を起こして、五年分の日誌を写して、綴じて、あなたのお手元へ戻る。……二日では足りません」
ギースラーは答えなかった。
「あなたは、この綴じを持って城下へお入りになりました。私が塩を止めるより前に、私の舌を疑う紙が作られていたことになります」
私は、束の端を指で押さえた。
「王都は、私が止めるより前から、私の舌を疑うつもりでいた。……そういう紙でございますね」
従者が、机のほうへ手を伸ばした。
「それは」
ギースラーの声が、はじめて大きくなった。
「それは、こちらの預かりものでございます」
「では、預からせていただきます」
私は束を引き寄せた。従者の手が、途中で止まった。
*
それから、宿駅の写しを机に出した。
「三つめになってしまいました」
紙を彼のほうへ滑らせた。
「検分の日の午後に、あなたのお名前で早馬が出ております。用向きは、着到」
私は、その下の行を指した。
「その前の日にも、出ております。……献上塩、混ぜ物の儀につき至急」
ギースラーの手が、外套の襟から離れた。
「城下に着いたその日でございます。坑にも降りず、樽も開けず、重さも量らないうちに、あなたは混ぜ物の儀を王都へ急がせておられます。……着到のほうは、その翌日でございました」
私は紙を戻した。
「どこでお聞きになりましたの。塩に混ぜ物があると」
ギースラーは、外套の襟に手をやった。それだけだった。
*
「あなたは、二枚の紙を書かれました」
私は続けた。
「この領へは、異常なし。王都へは、混ぜ物の儀につき至急。……異常が無いものを、急ぐ必要はございません」
今度も、返ってこなかった。
「異常なしと書いて封をさせれば、塩はそのまま王都へ着きます。王都には、あなたが先に出された報せが届いております。あとは、王都の検分が蓋を開ければよろしい。北の大公領が、捨てる塩を献上に混ぜて送った。……そういう形になります」
私は、机の上の三枚を並べた。
「そうなれば、この領の塩は買い手を失います。塩を売って穀物を買う土地でございますから、この冬、人が飢えます」
「妃殿下」
ギースラーが口を開いた。
「私は、塩に手を触れておりません」
「はい」
「捨て塩を混ぜたのは、この領の者でございます」
「はい。そちらは、けさ罰しました」
私は、彼の目を見た。
「あなたを罰するのは、混ぜたからではございません。……見てもいないものを、見たと書いたからでございます」
それから、もう一言だけ足した。
「あの塩は、苦くないものになって王都へ着きます。蓋を開けて舐めれば、そう出ます。……そのとき嘘を書いたことになるのは、この領ではございません」
*
夫が、そこで初めて壁から離れた。
「送り返せ」
短かった。
「馬は貸す。糧も持たせろ。……この三枚は、俺の早馬で送る。あんたより先に着く」
ギースラーは、外套の前を合わせた。合わせるとき、指が少し滑った。
「大公殿下。この件は、私一人の落度ではございません」
「そうだろうな」
「王都には、王都の――」
「そこから先は、俺に言うな」
夫は、そこで一度息を置いた。
「聞けば、俺が王都へ行くことになる」
*
次の日から、蔵に人が入った。
城下の女たちが来た。峠側の村からも来た。春に酸漬けを疑われた村の人たちで、来いと言った覚えはない。
「奥方様」
ハンナの祖母が、先頭に立っていた。手だけが大きい、小さな人だ。
「選り分けは、あたしらでもできるよ」
「三人しかおられないと伺いました」
「役に付いてるのが三人さ。目のあるのは、もっと居る」
彼女は、そう言って蔵の中へ入っていった。
すれ違うとき、一度だけこちらを見た。
「あんたは、数える人だね」
「はい」
「そうかい」
それだけだった。母のことは、何も言わなかった。
*
納めの日の朝、四十二の樽が蔵の前に並んだ。
坑から上の塩を出し直して、村の女たちが選り分けて、重さを量って、封をした。マルセルが樽を叩いて回り、鳴りの濁った四つだけ詰め直させて、それから縄が掛かった。
私は全部の樽から一粒ずつ取って、舐めた。苦みは、どこにも無かった。
縄を掛ける列のいちばん端に、塩番が立っていた。縄は持っていない。重さを量る台のところで、錘を並べていた。
夫が役所の戸口から出てきた。
「間に合ったな」
「はい」
「あの塩を通していたら、どうなっていた」
「この冬、穀物が足りません」
「そうだな」
彼は、荷を見ていた。
「君は、七日前に四十二の樽を止めた。止めた理由は、苦かったからだ」
黒い袖が、こちらへ向いた。
「苦いと言った者はいたが、止めろとは誰も言わなかった。医者は害が無いと言った。王都の役人は異常なしと書いた。……それでも君は止めた」
「はい」
「それで合っていた」
「……アレクシス様。お訊きしてもよろしゅうございますか」
「言え」
「私が間違っておりましたら、どうなさいましたの」
夫は少し黙った。
「俺の責だと言った」
*
隊商が出たあと、私は机の上の綴じを開いた。
――この日、ミレーユ嬢は在らず。同様、十一箇所。
三年目の秋を含めて、十一。その日付を、私は一つずつ確かめた。三年目の秋の東屋。四年目の春の、風の強かった日の東屋。どの日も、あの方は同じ卓にいらっしゃった。私はその横で、茶碗を先に取っていた。
王宮には、茶会の記録がある。日付も、席次も、給仕の名も残っている。
あれを書き換えられる手でなければ、この余白には書けない。
私は綴じを閉じて、抽斗に入れた。
「ハンナ」
「はい」
「来年の塩は、私が数えます」
「……はい。春に、そう言ってくださいました」
「今年の塩も、数えました」
私は抽斗に鍵を掛けた。
「去年の差も、まだ数えておりません。掘った塩と、配られた塩の合わないぶんでございます」
「……はい」
「王都にも、数え違いがございます。……あれも、いずれ数えに参ります」




