第八話 掘った塩は、消えておりません
翌朝、役所の蔵で三十五の樽を開けた。
役所の者と、屋敷から連れてきた者で蓋を起こし、上と底から一粒ずつ取り分けてもらって、私が順に舐めた。舐めるだけなら、三十五でも半日で終わる。
樽の腹には、焼き印が押してある。詰めた日だ。私はそれを書き取りながら回った。
前の日の七つと合わせて、四十二。
苦かったのは、十九だった。
焼き印の日で並べると、十九は後ろに固まっていた。先に詰めたぶんには、一つも無い。
蔵の帳面には、袋の口を縛っていた印が貼ってある。切ってから貼る決まりだそうで、四十二枚が日付の順に並んでいた。
どれも同じ印で、破れているものは無かった。
*
昼を過ぎてから、私は峠側の坑へ登った。
坑は、山の腹に横から穴が開いている。入口は木で組まれていて、そこから斜めに下りていく。降りる前に、坑の頭が板を持ってきて、私の名を書き込んだ。
「奥方様。お名前を頂きます」
「名を、ですの」
「降りた者を数えます。上がってきた者と、数が合わないと困りますので」
合わないと困る、という言い方だった。
「毎日、書いておられますの」
「毎日です。二十年、一日も抜けておりません」
私は名を書いた。ハンナも書いた。
ギースラーは、坑口で外套の襟を立てた。
「私はここで待ちます」
「降りられませんの」
「坑は冷えますので。……検分は、上がってきたものを見れば足ります」
塩税監は、そう言って背を向けた。従者が鞄を抱えて、その隣に立った。
*
坑の中は、明るかった。
壁が白い。手燭の火をひとつ持っただけで、光が壁から返ってくる。天井の低いところをくぐって、板の敷かれた斜面を下りていく。息は白くならないのに、手燭を持つ手だけが冷えた。
坑の頭が壁を叩いた。
「ここが、いま出しているところです」
粒が大きい。角が立っていて、火を透かすと薄く青みが見える。ひとつ摘んで舌に載せた。塩の味だけがした。後ろに何も残らない。
「これが上の層で」
「下は」
「もう少し下ります。お召し物が汚れますが」
*
下の層は、壁の色が違った。
白いのに、白の中に灰色が混じっている。粒も小さい。摘んで舐めると、舌の奥の両側に、あの苦みが立った。
「これは、何と呼んでおられますの」
「捨て塩です」
「捨てる、と」
「食えませんので」
「どれくらい出ますの」
「掘れば出ます。下の層に当たったらその日は上へ戻りますが、当たるまでに削り取るぶんが出ますので。……外の積み場に、山になっております」
私は手燭を近くへ寄せた。壁の上のほうと、下のほう。
境目は、線ではなかった。じわりと混ざっている。
「頭。上の塩と下の塩は、見て分かりますの」
「分かります」
「私には分かりませんわ」
坑の頭は少し笑って、それから真面目な顔に戻った。
「割れ方が違います。上は角が立つ。下は崩れる。……ですが、」
彼は言葉を止めた。
「一度砕いて、粒を揃えてしまうと、私にも分かりません」
「掘り下げすぎて、下の層が袋に入ることはございますの」
「ありません」
坑の頭の声が低くなった。
「境目は、掘っている者がいちばんよく見ています。混ぜて出したことは、二十年、一度もありません」
*
坑を上がると、板の名が上から順に消された。残っている名は無かった。
ギースラーは坑口で立ったままだった。外套の裾に、まだ泥が一つも跳ねていない。
「妃殿下。中はいかがでございました」
「白いところでした」
「それは重畳」
私は積み場のほうへ歩いた。坑の外の斜面に、灰色を含んだ白い山があった。雨に叩かれて表が固まっている。
その山の腹に、掻き出した跡がある。
崩れた面の色が、まわりより新しい。
*
城下へ下りる道に、荷車が二台止まっていた。
塩を積んだままだ。隊商の者が縄を解いて、また掛け直していた。行くとも行かないとも決まらない荷は、こうして待つしかない。
「奥方様」
道の脇から、桶屋の女房が出てきた。前掛けで手を拭きながら、少し離れたところで足を止めた。
「塩は、行くんでしょうか」
「まだ、決まっておりません」
「行かないと、麦が来ないって、うちの人が」
私は足を止めた。
「決まりましたら、いちばんに触れを出します」
「……はい」
それ以上は訊かれなかった。
道の両側の家から、人が出てきていた。誰も何も言わない。私が通るあいだだけ、市の音が小さくなった。
*
役所へ下りて、私は書記に袋のことを訊いた。
「袋は、どこで縛りますの」
「恐れながら、坑でございます。縛って、印を掛けて下ろしてまいります。蔵では印を検めまして、口を切って、樽へ空けるだけでございまして」
「切った印は」
「蔵の帳面に貼っておきます。四十二枚、揃っております」
「その印は、どなたのものですの」
「選り分けを預かる者のものでございます。坑の頭の印は帳面のほうに掛かりますので、袋には掛かりません」
書記は、そこで書類の端を揃え直した。
「……恐れながら、もう一つ。塩税監様の検分書の控えでございますが」
「はい」
「坑に入り上層の塩を検む、と書かれておりまして。……あの日は、蔵の前においででしたので」
私は貼られた印をもう一度見た。四十二枚。どれも同じ印で、破れているものは無い。
役所の者が袋を開けたのは、蔵で樽へ空けるときだけだ。それより前に手が入っていれば、印が変わるか、破れるかしている。
変わっていない。
「では、中身が決まるのは坑でございますね」
「……左様でございます」
役所は、どこで数を取るのかも訊いた。袋が下りてきたときに重さを量る。粒の数は誰も数えない。坑で袋に詰めた時点の重さは、坑の帳面に残っている。
二つは、毎年きれいに合っている。
春に押収した帳面と同じだ。包の数だけを数えていれば、中身が抜かれても数は合う。
「重さで合わせているのなら、掘った塩を抜いて、抜いたぶんだけ捨て塩を足せば、重さは動きません」
*
印を持っているのは、坑の塩番だった。
峠側の村の者だ。春にこの村の樽が疑われたとき、私はこの人たちの側に立った。
坑の頭ではない、と私は思った。あの人は、樽が開くたびに坑を振り返っていた。自分のところから出た塩を疑っている人は、混ぜた人ではない。
蔵の前で塩番を呼ぶと、縄を持ったまま来た。
「昨日、お答えがございませんでした」
「……へえ」
「苦かった十九を、焼き印の日で並べました。あとの十九でございます。先に詰めたぶんには、一つもございません」
塩番は縄を握り直した。
「奥方様」
「掘った塩は、消えておりません。どこかにございます」
塩番は、坑のほうを見た。それから、口を開いた。
「村に」
声が低かった。
「村に、回しました」
*
春に見た差が、頭に浮かんだ。
去年の掘った塩と、配られた塩が合わない。行き先は、いまも書かれていない。冬の漬け物が薄くなって、酸が立たなくなって、春に城下で六人が倒れた。
割り当ては、まだ元に戻っていない。
「秋に漬けます」
塩番は、そう言った。
「秋に漬けなけりゃ、冬に食うもんがねえ。……去年みてえに薄く漬けて、また誰か倒れるわけにゃいかねえ」
「役所へ申されましたか」
「言った。春に。……代官がいねえ。誰も預からねえ」
私は帳面を開いた。
この人の名を、私はまだ一度も書いていない。書かずに済ませられるところまでは、書かずにいた。
羽根を持って、私はその名を書いた。
書き終えても、羽根を置く気になれなかった。
「明日の朝、役所へ来てくださいまし」
*
ハンナが、蔵の柱の陰に立っていた。
いつからそこに居たのかは訊かなかった。
「奥方様」
「はい」
「……また、うちの村ですか」
「ハンナ」
「春も、うちの村でした。あのときは、違うって言ってくださいました」
この娘は、そこで一度息を継いだ。
「……おばあちゃん、知ってました」
声が、いつもの半分の大きさだった。
「夏に、村へ帰ったとき。塩がありました。去年より、ずっとありました。うちの村に、あんなに塩があるはずないんです」
「お訊きになりましたの」
「訊きました。『どこの塩』って」
ハンナは袖を握った。
「『数えるのは、来年からだろう』って」
*
来年の塩は私が数えます、と私は言った。今年のことは言わなかった。
ハンナが村で話したのだろう。あの方は、それを知っていた。
「おばあちゃんは、悪くないです」
「ハンナ」
「村のみんなが冬に食えるようにしたんです。誰も倒れないようにしたんです。……悪くないです」
この娘は、泣かなかった。泣かずに言うほうが、こちらには重い。
「ハンナ。村は罰しません」
ハンナが息を吸った。
「回された塩を使ったのは、村じゅうでございます。お婆様も、漬けた人も、食べた人も。……そこまで数えたら、村が無くなります」
「じゃあ」
「けれど、抜いた人は罰します」
ハンナの顔が、止まった。
「あの人は、村の人です。うちの隣です」
「はい」
「村のために、やったんです」
「はい」
「村を罰さないぶんを、あの人お一人に負わせます。……それが軽いことだとは、思っておりません」
ハンナは何も言わなかった。
「ハンナ。春に私は、あなたの村を庇いました」
言いながら、自分の声が硬くなっていくのが聞こえた。
「あれは、村が正しかったからです。……今年は」
そこから先は、明日あの人に言うことだった。
*
夕方、ギースラーが役所へ来た。
外套を脱いで、椅子に腰を下ろして、従者から鞄を受け取った。革の留め具を外す音が、広くもない部屋に響いた。
「妃殿下。お調べは進みましたか」
「進みました」
「それは何よりでございます。……ところで、私からお預かりしたものがございまして」
鞄から出てきたのは、紙の束だった。糸で綴じてある。
「王都から、妃殿下の身元照会が回っております」
「身元、と申しますと」
「妃殿下は、ご自分の舌で献上の塩をお止めになりました。……その舌が信に足るかどうかを、王都は見ております。形ばかりのものでございますが」
彼は、その束を机に置いた。置いてから、こちらへ滑らせた。
「五年分でございます」
私は、束の端に触れた。
紙が新しい。五年前の紙ではない。写しだ。
項目は、私が書いていたものと同じだった。日付。症状。毒の種類。同席した者。そのときの状況。
どれも、私の字ではなかった。
「毒見の日誌でございます。ご存じでございましょう」
「日誌は、王宮にございます」
「はい。王宮にございます。……ですので、これは写しでございます」
私は頁を繰った。
三年目の秋のところで、余白に一行、また別の手が書き込みを入れていた。
――この日、ミレーユ嬢は在らず。
その下に、もう一行。
――同様、この日を含めて十一箇所。
私は指を止めた。
「……そんな日は、ございません」
「妃殿下」
「三十二回。そのすべてに、あの方はいらっしゃいました。同じ席に、同じ椅子に。私はそれを、日誌に書きました」
ギースラーは、何も言わなかった。
「これを書いた方は、日誌をお持ちなのですね」
「照会に回っている紙の出どころを、私が申し上げる立場ではございません」
彼は立ち上がって、外套を取った。
「納めまで、あと六日でございます」
*
束は、机に置いたままだった。
ミレーユ様の裁定は、貴族令嬢に対する三十二件のほかに、王妃殿下に一件、王太子殿下に一件。王太子殿下の一件は、あの大広間で小鳥が落ちるのを、居合わせた者が全員見ている。余白に何を書いても、あれは消えない。
消せるのは、私の書いた三十二のほうだ。
十一箇所が「在らず」なら、私の日誌は当てにならない紙になる。当てにならない紙を五年書いていた女の舌は、当てにならない。
――献上の塩を止めた、その舌が。
塩と同じだった。重ささえ合っていれば、中身は問われない。
*
屋敷へ戻ると、夫が食堂にいた。皿はまだ出ていなかった。
「村の者を、役所へ呼びました」
「そうか」
「春に、私が庇った村でございます」
黒衣は、こちらを見なかった。
「呼ばずに済ませる道は」
「ございません」
「なら、呼べ」
それから、短く。
「明日は、俺も役所にいる」
私は頭を下げた。
*
その夜、私は塩の帳面のほうへ戻った。
納めまで六日ある。十九を詰め直して、坑から上の塩を出させて、重さを合わせて、封をする。それだけでも足りない。
塩番を罰すれば、選り分けのできる手が一つ減る。
罰さなければ、混ぜたことを領が呑んだ形になる。呑んだ形のまま王都へ着けば、止めた意味が消える。
どちらにしても、塩税監は困らない。
それから、もう一つ。
春から夏にかけて、村の割り当ての帳面を握っていたのは私だ。数え直すと言って、数えていた。細らせたままだと分かる場所に、私はいた。
私は羽根を置いた。
――あの方は、坑口から一歩も動かなかった。
降りていない人が、降りたと書いている。
明日、坑の頭に頼んで、二十年ぶんの板を役所へ運んでもらう。
それから、宿駅にも人をやる。駅は継ぎの用向きを短く書かせると、書記が言っていた。あの方が城下に着いてから、何を、いつ王都へ出したか。
ハンナは、明日も役所へ来るだろう。来るとは言わなかった。言わないから、来る。




