第十話 外から、誰も参っておりません
道が閉じた日のことを、この土地では「閂が下りた」と言う。
峠の雪が根雪になって、隊商の通る道が消える。春まで、外から誰も来ない。誰も出ない。北の冬は、そういう形をしている。
屋敷でも同じ日に閂を下ろした。門の横木を落として、脇の潜り戸だけを残す。
この屋敷で、二度目の冬だった。去年の今ごろは、まだ何も分かっていなかった。閂の音を聞いても、何の音か知らなかった。
音が、思っていたより低かった。
家令が横木の端を掌で二度叩いて、それから頭を下げた。毎年そうするのだと、ハンナが言った。
「叩くと、春まで落ちないんです」
「落ちますの」
「落ちたことはないそうです。でも、叩くんです」
*
閂が下りる三日前に、献上の塩が王都へ着いた。
等級が付いたという報せが、最後の早馬で戻ってきた。去年と同じ等級だった。商会が値を付け、穀物の手当てがついた。この冬、城下で人が飢えることはない。
書記がその報せを持ってきたとき、役所の土間で誰かが泣いた。誰が泣いたのかは分からない。私は帳面から顔を上げなかった。
顔を上げれば、こちらも泣くところだった。
秋の七日を、私は数えて過ごした。苦かった十九を詰め直して、四十二とも重さを量り直して、封をして、隊商に間に合わせた。間に合わなければ、いま泣いている人が冬に麦を買えない。
塩税監のことは、何も返ってこなかった。
夫の早馬で送った書類は、あの人より先に王都へ着いているはずだった。坑へ降りずに検分書を書いたこと。着く前に混ぜ物の報せを出したこと。
王都からは、詫びも咎めも来なかった。
閂が下りるまでの三日、私は毎朝それを待った。下りてしまえば、春まで来ない。
*
冬のあいだ、屋敷に残るのは二十二人だと聞いた。
夏は倍近くいる。城下から通ってくる者は、道が悪くなる前に暇を出される。残るのは、屋敷で寝起きする者だけだ。
厨房も人が減る。マルセルと、下働きが二人。
蔵の鍵も、冬は一つにまとめると言われた。夏は厨房にも一つ預けてあるが、扉が凍みるので開ける回数を減らすのだという。まとめた鍵は家令が持つ。要るときは家令に申し付けるのだと、マルセルが言った。
言いながら、彼は樽の腹を平手で打った。返ってくる音を、ひとつずつ確かめている。
私は、その音を数えるでもなく聞いていた。
*
塩の帳面は、まだ終わっていない。
去年の差が残っている。掘ったぶんと配ったぶんが、どうしても揃わない。行き先はどこにも書かれていない。前の代官が細らせた割り当ては秋に戻したけれど、細らせていた年のぶんは、まだ数え切れていなかった。
冬は、数えるには良い季節だった。外へ出られない。誰も来ない。
ハンナが暖炉に薪を足しながら、頁を覗き込んだ。
「奥方様。冬中それですか」
「冬中これですわ」
「春になったら、終わりますか」
「終わらせます」
ハンナは笑って、それから少し黙った。
「うちの村、今年は塩がちゃんとあります」
「そう」
「おばあちゃんが、秋の漬け込みは久しぶりに手が痛くなったって」
塩が足りていれば、樽に塩を打つ手が働く。手が痛くなるのは、いいことだそうだ。
私は羽根を置いて、指を握って開いた。
この数日、指の先が重い。冬のせいだろうと思っていた。
*
閂が下りて四日目の夕餉に、羊の塩煮が出た。
冬の初めに屋敷で食べるものだと、マルセルが言った。秋に漬けた肉を、根菜と一緒に長く煮る。塩を抜いてから煮るので、最後にもう一度、塩を当てる。
「大公様のお皿は、私が仕上げます」
彼は十八年そうしている。下働きが盛ったものを受け取って、自分の手で塩を振り、それから出す。
「振りすぎだと、よく叱られますな」
「叱っておられますの」
「毎朝でございます」
この屋敷へ来てから、私は毎朝それを聞いている。粥でも、汁でも、夫はひとこと言う。塩が多い、と。言ってから、そのまま食べる。文句ではなく、報告のような言い方だった。
私は自分の皿を先に見た。
湯気の立ち方。色。香り。含む前に、だいたいは分かる。それから匙を口へ運んだ。
――辛くない。
塩煮の塩が、薄い。マルセルが振りすぎると言われている塩が、私の舌に立ってこなかった。
「マルセル」
「はい」
「今日は、控えめでございますね」
「控えめ?」
彼は自分の指を舐めて、それから鍋の縁を舐めた。
「……いや、いつもどおりでございますが」
向かいで、夫が黙って食べていた。
私は、そのとき気づかなかった。
この人は、何も言わなかった。
*
次の日も、辛くなかった。
私は自分の舌を疑った。冬に入って乾いたのかもしれない。風邪をひきかけているのかもしれない。
昼にハンナと台所で茶を飲んだとき、この娘が欠伸をした。
「すみません」
「お眠いですの」
「なんか、みんな眠いんです。下の子たちも。冬になると眠いのかなって」
冬になると眠い。それはそうだろうと思った。日が短い。動く量が減る。人は冬に眠くなる。
私はそのとき、そう思った。
*
三日目の夜だった。
夕餉のあと、夫は書斎へ行かずに食堂に残った。椅子に座ったまま、卓に手を置いていた。
「アレクシス様」
「……いや」
それだけ言って、立ち上がろうとした。
椅子が鳴った。
私が見たのは、黒い袖が卓の縁を掴もうとして、掴めなかったところだった。
*
人を呼んだ。マルセルが走ってきた。下働きが走った。ハンナが階を駆け上がった。
夫を寝台へ運ぶまでに、四人の手が要った。
運びながら、私はこの人の口の匂いを嗅いだ。何も立たなかった。酒の匂いも、杏子の甘い匂いもしない。
脈を取った。速い。浅い。
瞼を上げた。目は動いていた。私を見て、それから壁のほうを見た。
「アレクシス様。お名前を」
「……アレクシス」
「今日、召し上がったものを」
「……羊」
言葉は出る。舌が回っていない。
私は懐から解毒の粉を出して、包みの角を折った。
折ったところで、手が止まった。
――何の毒か、分かっていない。
この粉は、何にでも効くものではない。母がそう言った。効かないものに使えば、ただ胃を荒らすだけだ。効く毒に使わなければ意味がない。
私は包みを折り目のまま懐へ戻した。
*
馬を出させたのは、家令だった。
誰が言いつけるより先に厩へ行って、雪の中へ人を出していた。戻ってきて、寝室の戸口で頭を下げた。
「医師をお呼びいたしました」
「ありがとう」
「……蝋燭を、増やさせます」
その晩、廊下の燭台に火が入った。冬の屋敷が明るくなった。
*
フランツが来たのは、真夜中だった。
城下から屋敷までは、雪のない季節なら半刻もかからない。この夜は一刻半かかった。往診の鞄が雪で白くなっていた。
彼は外套も脱がずに寝台の脇へ座って、脈を取り、瞼を上げ、爪を押し、足の裏を掻いた。
「毒だな」
「はい」
「何の」
私は答えなかった。
「あんたが分からんのか」
「分かりません」
フランツは私を見た。それから、もう一度夫の手を取った。
「息が浅い。……あんた、いつからだ」
「三日前から、屋敷の者が眠いと申しております。私も、指の先が重うございました」
「あんたもか」
「はい」
「大公は」
「倒れられたのは今夜が初めてでございます」
彼は舌打ちをした。
「三日、少しずつ入ってる。それが今夜きた」
鞄を開けて、閉じて、また開けた。
「奥方様。はっきり言うぞ」
「どうぞ」
「息の浅さが、この速さで進むなら、三日だ」
彼は指を三本立てた。
「三日で、息が止まる。……止まらん毒なら、明日には持ち直す。止まる毒なら、三日だ。どっちかは、俺には分からん」
「分けるものは」
「毒の名だ。名が分かりゃ、こっちにも当てるものがある」
*
私は食堂へ戻って、皿を集めた。
下げたばかりのものが、まだ洗い場に積んであった。夫の皿、私の皿、屋敷の者の皿。鍋も残っていた。
匙で汁をすくって、指の先に落として嗅いだ。
肉の匂いと、根菜の匂い。それだけだ。
鍋のほうも嗅いだ。同じだった。
私は夫の皿の縁に残った汁を、指の先につけて、舌に載せた。
辛くない。
三日、私はそれを自分の舌のせいにしていた。乾いたのだろう、風邪をひきかけたのだろうと。
塩は減っていない。マルセルは振りすぎるほど振っている。彼の指も、鍋の縁も、いつもどおりだと言った。
――この人は、三日、塩が多いと言わなかった。
毎朝言う人が、三晩とも黙っていた。
辛くないのは、塩ではない。
辛さを覚えている舌のほうが、鈍っている。
私は洗い場の縁に手をついた。
屋敷じゅうの者が眠い。私の指が重い。夫が倒れた。
同じものが、全員に入っている。量だけが違う。
*
厨房の塩壺を見た。
白い。粒が大きい。指で押すと、角が立っている。北の塩だ。
舐めた。辛くない。
私は、その塩壺を抱えて厨房を出た。
*
書斎の卓に、塩壺と、皿と、鍋を並べた。
蝋燭を寄せて、上から見た。塩の粒のあいだに、粉が沈んでいる。白い。塩より細かい。
白い粉は、白い粉に紛れる。
私は、その粉を紙の上へ取り分けた。指の先に付けて、鼻へ近づけた。匂わない。
舌に載せる寸前で、手を止めた。
塩に混ざったものを舐めるのと、粉だけを舐めるのとは、量が違う。名前も分からないものを、いま濃いままで含むわけにはいかない。
紙を折って、袖へ入れた。
*
夜が明けかけたころ、私は蝋燭の脇に紙を広げて、書き出しはじめた。
この屋敷の塩は、蔵から出る。蔵の鍵は、冬のあいだ一つにまとめてある。
塩が入ったのは、閂が下りる前だ。秋の終わりに、冬ぶんをまとめて入れた。
閂は下りている。
外から誰も来ない。誰も出ない。峠は雪で、道は消えている。
――外から、誰も参っておりません。
私は羽根を置いた。
この屋敷には、二十二人いる。
三日前から、そのうちの何人が眠いと言ったか。誰の皿が薄かったか。誰が塩を触ったか。
この一年、私は外ばかり見ていた。城下と、村と、役所と、坑。事件はいつも外にあって、屋敷は帰ってくる場所だった。
この家の中を、私は一度も数えていない。
窓の外が、少しだけ白んだ。雪が降っていた。降り方が細かい。積もる降り方だ。
春まで、誰も出られない。
*
ハンナが階を上がってきた。
「奥方様。旦那様が、目を覚まされました」
「お話しになりますの」
「はい。でも……」
この娘は、そこで一度言い直した。
「手が、上がらないみたいです」
私は立ち上がって、紙を折って袖へ入れた。
あと二日と、少し。




