第十一話 この毒は、もう売っておりません
夫は、目だけで私を見た。
枕から頭が上がらない。上げようとして、途中で戻る。手は掛布の上に置いたままだった。
「アレクシス様」
「……ああ」
「毒でございます」
「そうか」
驚かなかった。この人は十七回、自分で気づいて自分で避けてきた人だ。十八回目だけは、私が止めた。
「どこから入った」
「まだ分かりません」
「屋敷か」
「はい」
黒い目が、天井のほうへ動いた。
「……閂は」
「下りております」
それから、少し間があった。
「なら、中にいるな」
私は答えなかった。答えるかわりに、掛布の上の手に自分の手を重ねた。冷たくはない。ただ、重かった。
「アレクシス様。三日と申し上げます」
「聞いた」
「言い直します。あと二日でございます」
「……そうか」
この人は、そこで一度だけ目を閉じた。
「君が確かめるんだろう」
「はい」
「なら、いい」
*
私は紙を持って、屋敷の中を歩いた。
二十二人。名前と、寝起きしている場所と、この三日のあいだに何を感じたかを、一人ずつ訊いて書いた。
訊かれた者はみな、はじめに首を振った。何ともございません、と言ってから、少し考えて、そういえば、と言い直す。
眠い。手が重い。味がしない。頭が痛い。何ともない。
書き終えて、卓に広げた。
厨房で食べている者は、全員が何かを訴えていた。屋敷の食堂で出たものを食べている者も同じだ。
何ともない、と答えたのは三人。
馬丁が二人と、門番が一人だった。
私はハンナを呼んだ。
「この三人は、どこで召し上がっておられますの」
「厩の脇に小屋があって、そこで自分たちで煮るんです。……冬は、厩から離れられないので」
「塩は」
「小屋に、別の壺があります。秋に一袋、そのまま持っていくんです」
私は紙の端にそれを書いた。
厩の三人だけが、屋敷の塩を使っていない。
昨夜、私が知ったのは「同じものが屋敷じゅうに入っている」までだった。ここまで来て、入り口が一つに絞れた。
春に、私は同じ形の紙を書いた。城下で倒れた人を並べて、同じ樽から買った者ではなく、同じ年に薄く漬けた樽から買った者だと見つけた。あのときは、それで毒ではないと言えた。
今度は逆だ。ひとつの壺が、名指しできる。
*
厨房の塩壺は、蔵から出る。
蔵は屋敷の北の端にある。石を積んだ低い建物で、扉が二重になっていた。
「家令を呼んでくださいまし」
鍵が来るまでに、少し待った。
家令は鍵の束と、湯の入った小鍋を提げてきた。下働きの娘が、その後ろから布を持ってついてくる。
「湯を、ですの」
「外の錠が凍みております。この時季は、湯をかけませんと回りません」
彼は錠の腹へ細く湯をかけて、布で拭いて、それから鍵を差した。外を外し、内を外し、扉を押す。冷たい空気が、下から流れ出てきた。
「奥方様。灯りをお持ちいたします」
「結構でございます」
私は自分の手燭を持って入った。
塩の袋は、右手の壁に積んであった。麻の袋で、口を縄で縛って、封の紙が貼ってある。
数えた。十四。
そのうち一つだけ、口が開いていた。縄が緩めてあって、封の紙が切れている。厨房が使っているぶんだ。
私は開いた袋へ腕を入れた。肘の近くまで入れて、底の塩を掬い上げ、蝋燭に透かした。
厨房の壺で見たものが、ここにもあった。掌の塩を傾けると、角の立った粒が先に滑って、細かいほうが後に残る。
紙を出して、掬ったぶんをそこへ落とした。
閉じている十三の袋も、一つずつ縄を解いて確かめた。
どれも塩だけだった。
開いていた袋だけに、粉が入っている。
*
昼前に、ハンナを城下へ下ろした。この秋に薬種商で白い粉を買った者がいないか、訊いてきてほしいと言って出した。
戻ってきたのは午後で、この娘は扉のところで立ち止まった。買った者はいなかったという。
「奥方様」
「はい」
「……言わないほうがいいですか」
「おっしゃってくださいまし」
この娘は、袖を握ってから言った。
「城下で、奥方様のお名前が出てます」
私は羽根を置いた。
「毒に詳しい方だ、って。解毒の粉をいつも持ってらっしゃる、って。……厨房にも蔵にも出入りされる、って」
言いながら、この娘の声が小さくなった。
「あと、王都から、奥方様の身元を調べる紙が来てたって。誰かが役所で聞いたみたいで」
私は頷いた。
「他には」
「……大公様が亡くなったら、この領はどうなるんだって」
それが、いちばん大きい問いだった。城下の人が知りたいのはそれだ。誰が盛ったかではない。冬を越せるかどうかだ。
「ハンナ。私が盛ったと思いますの」
「思いません」
即答だった。
「思いませんけど、思ってる人がいるのが、腹が立つんです」
私は、この娘の袖を見た。握ったところに皺が寄っていた。
春に、この娘の村が同じことを言われた。あのとき私は、村の側に立った。
*
フランツが二度目に来たとき、私は蔵から取った紙包みを卓に置いた。
「これでございます」
「塩か」
「塩に混じっていたものでございます。取り分けました」
彼は紙を広げて、粉を指の腹で潰した。それから鼻を近づけた。
「匂わん」
「はい」
「これだけで舐めたか」
「いいえ。塩に混じったものは、もう舐めております」
フランツは私を見た。
「舐めるつもりだな」
「はい」
「やめろ」
彼は紙を折って、自分のほうへ引き寄せた。
「あんたはもう三日ぶん入ってる。ここで足すやつがあるか」
「では、先生が舐めてくださいますか」
「俺が舐めても分からん」
彼は言ってから、口を閉じた。
「……分からん。俺は身体から入る人間だ。舐めても、苦いか辛いかしか言えん」
私は紙を彼のほうから引き戻した。
「先生。毒の名が分かれば、当てるものがあると仰せでした」
「言った」
「名が分からなければ、二日でございます」
「……そうだ」
彼は、しばらく私の手元を見ていた。
「量を決めろ。俺が見る」
*
私は水を持ってこさせた。
小さな椀に水を張って、粉をほんの少し落として、指の先で混ぜた。粉は溶けた。水は濁らなかった。
ハンナが柱のところに立っていた。出ていなさいと言おうとして、やめた。
この娘は、見ていると決めて立っている。
「ハンナ」
「はい」
「私が倒れましたら、この椀を先生の手元へ。中身ではなく、椀ごとでございます」
「……はい」
「それから、旦那様のお部屋には行かないでくださいまし。夜まで、何も申し上げないように」
この娘は、そこで初めて頷かなかった。それでも、動かなかった。
この屋敷へ来てから、私は決めて読んでいる。読まされるのではなく、読むと決めてから含む。それは、もう半年より長く続けていることだ。
けれど、名の分かっているものを確かめるのと、名の無いものを含むのとは違う。
読んで、それでも名が出ないかもしれない。出ないまま、私も三日で息が止まるかもしれない。
私は指の先を水に浸して、舌に載せた。
*
塩の味が、しなかった。
水だから、当たり前だ。けれど、水の味もしなかった。
舌の先から順に、薄い布を掛けられるように、感じるところが下りていく。先が消えて、両側が消えて、奥だけが残った。
私は、その残ったところで待った。
舌の奥に、細い甘さが立った。焦がした杏子ではない。もっと薄い、草を噛んだあとに残る甘さだ。
鈍りの下りていく速さを数えた。先から奥へ、七つ数えるあいだ。
水を含み直した。戻り方を見た。奥から先へ、二十を数えるあいだ。戻ってきた。
戻ったのなら、これは一度で殺す毒ではない。積むものだ。
草だ。根ではない。根なら土の匂いが立つ。
乾かしてある。生なら青みが立つ。
北のものだ。王都の毒ではない。私は王都で五年、三十二回、盛られたものを覚えている。この味は無い。
私は目を開けた。
フランツが、私の顔を覗き込んでいた。
「言え」
「北の草でございます。乾かしたもの。穂か、葉。……根ではございません」
「効き方は」
「舌から下ります。積みます。一度では殺しません」
「解毒は」
「――分かりません」
私はそこで、初めて詰まった。
「草の見当は付きます。名前が付きません。私が知っているのは、王都で使われた毒だけでございます」
フランツは、椀を取り上げて窓の外の雪へ捨てた。
「見当が付いたなら、上出来だ。名は、この土地の年寄りが知ってる」
*
マルセルを、書斎へ呼んだ。
この人は入ってきて、卓の上の椀と紙包みを見て、それから頭を下げた。
「奥方様。私でございましょう」
「マルセル」
「大公様のお皿に塩を振ったのは、私でございます。十八年、私だけでございます」
私は椅子を勧めた。彼は座らなかった。
「マルセル。あなたに伺います。……あなたが振りましたの」
「振りました」
「粉を入れましたの」
「入れておりません」
言い方が、いつもと同じだった。樽の音を確かめるときと同じ声だ。
庇いたくなった。この人は十八年、夫が確かめずに食べる唯一の皿を作ってきた人だ。
庇うのは、確かめてからにする。
「あなたは、味見をなさいませんね」
「いたしません」
「なぜ」
「毒見のようになりますので」
私は羽根を置いた。
「舌の良い者が先に食えば、その者が倒れます。倒れた者は、次の日から誰も信じません。……先代様のころに、そういうことがございました」
私は顔を上げた。
「先代様のころ」
「はい」
彼はそこで、初めて椅子の背に手を掛けた。
「私が参りましたのは、先代様が亡くなられた年でございます。その年に、前の料理番と、毒見の方が、同じ月に居なくなりました」
*
「毒見の方、と仰せですの」
マルセルは頷いた。
「この屋敷には、毒見の席がございました。私が参ったときには、もうございません。廃されたと聞きました」
「なぜ廃されたか、お聞きになりましたか」
「……いえ。役を解かれた、とだけ」
私は立ち上がった。
「マルセル。毒見の席には、道具がございます」
「はい」
「銀の匙、小鳥の籠、水差し。それから」
私は言葉を切った。
「見本がございます。何が毒であるかを覚えるための」
マルセルの手が、椅子の背から離れた。
「蔵の奥に、木の箱がございます」
声が低くなった。
「私が参りましたときから、ございます。封がしてあって、開けたことはございません。……冬に薪を入れ替えるとき、いつも動かします。重いので、二人で持ちます」
*
蔵の奥は、薪と、空の樽と、古い麻で埋まっていた。
箱は、その奥の壁際にあった。黒い木で、蓋に鉄の帯が二本掛かっている。埃が積もっていた。
マルセルと二人で引き出して、手燭を近づけた。
封の蝋は割れていた。
割れ口が新しい。まわりの埃は灰色に沈んでいるのに、割れ口だけが黒く光っている。
私は蓋を上げた。
中は、仕切りだった。木で桝を切ってあって、桝のひとつずつに小さな壺が納まっている。壺の肩に、紙の札が貼ってあった。
数えた。桝は二十四。
壺は、二十三。
空いている桝がひとつある。
私は手燭を寄せて、その桝の底を覗いた。
底に、札が一枚落ちていた。壺の肩から剥がれたものだ。糊が乾いて、紙だけが残っている。
拾って、蝋燭に近づけた。
古い字だった。役所の字ではない。丁寧で、少し右へ倒れている。
――灰穂
私は蓋を戻して、桝の数と、壺の数と、空いている桝の場所を、紙に書き取った。
*
私はその札を持って、蔵を出た。
雪は、朝より粒が大きくなっていた。
フランツが蔵の前で待っていた。手燭の火が風で寝た。
「名が付いたか」
「付きました」
私は札を彼に渡した。彼は札を見て、目を細めて、それから首を振った。
「知らん」
「ご存じない」
「聞いたことがない。……この辺の草じゃない、とは言わん。俺が若いころには、もう出回ってなかったんだろう」
彼は札を返した。
「奥方様。薬種商にも無えぞ。俺は城下の薬棚を端から端まで見てる。灰穂なんて名は、どの棚にも無い」
私は札を袖へ入れた。
この毒は、もう売っておりません。
城下にも、王都にも、隊商の荷にも無い。買えるものなら、誰かが買った跡が残る。買えないのなら、跡は残らない。
残るのは、置いてあった場所だけだ。
*
私は蔵の扉を見た。
外の錠と、内の錠。二重に掛かる。錠の腹に、湯をかけた跡が凍って光っていた。
家令が、内の錠を掛けてから外の錠へ手を伸ばした。
「あの箱は、いつから奥にございますの」
「先代様のころからでございます。封のまま置いてございます」
「開けられたことは」
「ございません」
彼は外の錠を掛けて、鍵を袖へ納めた。
私は雪の中を歩いて、屋敷へ戻った。
厨房の脇を通ったとき、下働きの娘が竈の前で膝を抱えていた。眠いのだろう。声を掛けずに通った。
階を上がって、寝室の扉を開けた。
夫は眠っていた。息が浅い。数えると、私の息の倍だけ速かった。
私は枕元に膝をついて、袖から札を出して、掛布の上に置いた。
「アレクシス様」
目は開かなかった。
「名前が付きました」
私は札の縁を指で押さえた。
「灰穂でございます。……十八年、あの蔵の奥にございました」
息の音が、少しだけ乱れた。返事ではない。
私は札を袖へ戻して、立ち上がった。
明日の朝、この屋敷の人を数え直す。
二十二人を、誰が何を開けたかで並べ直す。……そういう数え方を、私はまだ一度もしていない。




