第十二話 一度も、止めておりません
夜が明ける前に、ハンナが村へ上がった。
止めなかった。雪は積もっていたけれど、城下から村までは馬で一刻だ。峠は閉じていても、内側の道はまだ通る。
城下へも人をやった。役所の者に、昼までに屋敷へ上がってくれと伝えさせた。屋敷の中を調べる以上、屋敷の者だけで済ませるわけにいかない。
ハンナが戻ってきたのは昼前だった。この娘の後ろに、小さな人が立っていた。
布を巻いた頭に、雪が乗っている。手が、覚えているよりも大きく見えた。
「奥方様」
ハンナの祖母は、そう言って土間で足を鳴らした。
「灰穂だって聞いたよ」
「ご存じですの」
「知ってるよ。牛が食う。食うと立てなくなる」
「峠に生えておりますの」
彼女は首を振った。
「昔は出た。あたしが子どものころだ。夏に日の当たらない斜面が、灰かぶったみたいに白くなってね。……いまは見ない。もう三十年、あたしは見てないよ」
彼女は袖から布包みを出して、卓に置いて開いた。乾いた根が入っていた。
「立てなくなった牛には、これを煎じて呑ませる。呑ませて、水をやって、歩かせる」
包みの縁を、指で押さえた。
「人にやったのは、あたしゃ見たことがない」
「牛が立ちますの」
「立つ牛は立つ。立たない牛は立たない」
私はその根を手に取った。土の匂いが立った。皮の切り口が白い。掘って乾かしたものだ。
「これは、何と申しますの」
「峰芹。峠のほうの、日の当たらないとこに出る」
私は根を割って、断面を舐めた。苦い。あとから、舌の先が温かくなる。
舌の先だ。灰穂が最初に鈍らせたところと、同じ場所だった。
私はフランツを呼んだ。
「牛の量を、人の重さで割り直せますか」
「割れる。……根の乾き具合で効きが変わるから、薄いところから始める」
「では、薄いところから」
*
煎じるあいだ、祖母は厨房の隅に立っていた。
マルセルが鍋を貸して、下働きが水を運んだ。この人は誰にも指図をしなかった。ただ、湯の立ち方をじっと見ていた。
湯が鳴りはじめたころ、そう言われた。
「奥方様。あんた、根の断面を舐めたね」
「はい」
「皮じゃなくて、割ったとこを」
「はい」
彼女は湯から目を離さなかった。
「あんたのその見方は、どこで覚えた」
春に、この人は二度、同じところを訊いている。
一度目は、村の家の裏で桶を洗いながら。誰に、と。私は、母に、と答えた。二度目は、広場の樽が空になった日の帰り、川へ下りる道で。あんたのおっ母さんは、誰の疑いを晴らしたんだね、と。あのときは答えられなかった。母がどこで覚えたのかを、私が知らなかったからだ。
三度目だった。
「母でございます」
「そうかい」
湯が立った。祖母は布で鍋を掴んで、自分で漉した。漉しながら、こちらを見ずに言った。
「三度も同じことを訊いたら、あたしも覚えるよ」
*
夫が匙を三度呑んだのは、昼を過ぎてからだった。
一度目は、半分こぼれた。二度目で喉が動いた。三度目で、目が開いた。
フランツが脈を取って、しばらく黙っていた。
「速いのが、少し落ちた」
それから、私のほうを見ずに言った。
「まだ何とも言えん。だが、悪くはなっとらん」
私は寝台の脇に膝をついた。
「アレクシス様。名が付きました」
黒い目が、天井から私のほうへ来た。
「箱か」
「ご存じでしたの」
「奥に、黒いのがある。……子どものころ、開けるなと言われた」
私は掛布の縁を握った。
「誰に、と伺ってもよろしゅうございますか」
「父だ」
*
午後、私は蔵の前に立った。
家令が湯の小鍋と鍵の束を提げてきた。昨日と寸分たがわぬ手順で、扉が開いた。
私は扉の内側で足を止めた。
「毎度、湯からでございますね」
「凍みますので」
「鍵を、お預けにはなりませんの」
「預けません」
家令は束を袖に納めた。
「錠が古うございます。掛かりが浅いので、慣れない手ですと壊れます。……冬のあいだは、私が開けて、私が閉めます。先代様のころからそうしております」
この人が先代様の名を出すのを、私は初めて聞いた。
「では、この十日に蔵へ入った方を、挙げていただけますか」
彼はすぐに挙げた。厨房の下働きが二度。薪を入れた者が三度。奥方様が二度。うち一度はマルセルもご一緒に。
諳んじていた。数えていたのではなく、覚えている言い方だった。
私は、その七度を紙に書き取った。書きながら、この人が自分を数に入れていないことに気がついた。
「その方々は、あなたの前におられましたのね」
「おりました。私が扉を開けて、閉めるまででございます」
「どなたか、奥の壁際へ行かれましたか」
「薪を入れた者が。……薪は奥に積みますので」
「そのとき、あなたは」
「扉のところにおりました」
私は蔵の奥のほうを見た。手燭の火が届かない。
「薪を入れる者は、二人でございますね」
「二人でございます」
「あの木の箱は、二人でなければ動きません。……動かしたのなら、二人とも見ております」
家令は、そこで一度だけ袖の中の束を持ち直した。
「奥方様。何をお調べでございましょう」
「入れる者を、数えております」
*
薪の二人は、その日のうちに呼んで訊いた。役所の者に立ち会ってもらった。
一人は十九、一人は十六の男で、二人とも同じことを言った。箱は動かしていない。動かすのは冬の初めに一度だけで、それは閂の下りる前に済ませた。薪を積むとき、箱の上には積まない。上に積むと、春に薪を出すときに箱まで引き出すことになるからだ。
「箱の蓋を、開けられたことは」
「ございません」
「封が割れていたのは、ご存じでしたか」
「見ておりません。あの奥は、手燭を置く場所がございませんので」
私は二人に礼を言った。
嘘をつくなら、二人で口を合わせなければならない。合わせた口は、たいてい同じ言葉になる。この二人の言い方は、揃っていなかった。揃っていないのに、中身が同じだった。
*
その晩、私は書斎に紙を広げた。
蔵に入った者。十日。全部で七度。
七度とも、扉のところに家令がいる。
私は羽根を置いて、別の紙を出した。
塩の袋は十四。開いていたのは一つ。閉じた十三には粉が無い。
開いていた袋は、蔵にあった。厨房の壺へ移したあとの残りが、蔵で口を開けたまま積んである。
私は紙に線を引いた。
蔵の中で、開いた袋にだけ粉を入れれば、厨房の壺は次に汲んだときから毒になる。
誰も見ていない。袋は口が開いている。縄を解く必要すらない。
蝋燭の芯が傾いた。私はそれを立て直して、もう一枚、紙を継いだ。
この人の名を、私は知らない。
一年、家令としか呼んでいない。訊けば答えただろうけれど、訊く用が一度も無かった。
名前の無い人が、毎朝いちばんに扉を開けている。
*
次の朝、夫が椅子に座った。
立てなかった。マルセルと下働きが両側から抱えて、書斎の椅子まで運んだ。座らせると、背を凭れさせて、それきり動かなかった。
「アレクシス様。寝ておられたほうが」
「座る」
それだけだった。
フランツが壁際に立った。ハンナが扉の脇にいた。マルセルが卓の後ろに立って、両手を前で組んでいた。役所の者が二人、戸口の外に控えた。
私は家令を呼んだ。
*
「三つ、伺います」
家令は卓の前に立った。頭を下げてから、まっすぐに立った。
「一つめ。この屋敷の塩に、灰穂が混ぜてございました。混ぜたのは、蔵の中で、口の開いた袋へでございます」
彼は動かなかった。
「二つめ。灰穂は、どこからも買えません」
私は札を卓に置いた。剥がれた紙の札だ。
「薬種商にも、王都からも、隊商の荷にも。峠にも三十年出ておりません。……買えないものが、閂の下りた屋敷にございました」
家令は札を見た。目だけを落として、また上げた。
「三つめでございます」
私は、彼が挙げた七度を書き取った紙を、卓の上へ置いた。
「昨日、この十日に蔵へ入った方を挙げてくださいました。厨房の下働きが二度。薪を入れた者が三度。私が二度。……七度でございますね」
「左様でございます」
「入った者は、みな、あなたの前におりました。あなたがそう仰せでした」
私は紙の端を指で押さえた。
「その七度に、あなたご自身が入っておりません」
*
家令が、こちらを見た。
「扉を開けた方が、いつも一人だけ、数の外におられます」
「奥方様。錠は古うございます」
声は変わらなかった。
「壊せば、開きます」
「壊れておりません」
「壊さずに開ける者もございましょう」
「では、その方は、湯もお持ちにならずに凍った錠を回されたことになります」
マルセルのほうへ目をやった。この人が小さく頷いた。
「湯は厨房から運びます。運んだ者は、みな覚えております」
彼は答えなかった。
「薪を入れた二人にも、昨日伺いました。箱は動かしていない。蓋も開けていない。封が割れていたことも知らない、と」
私は指を折り直した。
「箱の封を割るのに、湯は要りません。錠が凍る前——閂の下りる前でよろしいのですから」
*
「もう一つ、申し上げてよろしゅうございますか」
私は、マルセルのほうを見た。
「毒は、屋敷じゅうの塩に入っておりました。二十二人のうち、十九人が鈍っております。けれど倒れたのは、大公様お一人でございます」
マルセルの手が、組んだまま動いた。
「大公様のお皿には、マルセルが最後に塩を当てます。十八年、この人だけが当てております。振りすぎだと言われるほど当てます」
私は家令へ向き直った。
「大公様は、毎朝それを仰せになります。塩が多い、と。……あの三晩、一度も仰いませんでした」
私は卓に手を置いた。
「薄く撒いて、お一人だけ濃くする仕掛けを、この屋敷は毎晩やっております。それを十八年、毎晩ご覧になっていた方が、この屋敷にはおられます」
*
「証がございません」
家令が言った。
「奥方様のおっしゃることは、筋でございます。筋は、証ではございません」
「そうでございますね」
私は頷いた。
「では、筋の話を、もう一つだけ」
私は袖から、二枚目の紙を出した。
「大公様は、八つのときから狙われておられます。ご自分で数えて、十八回。私はその数を伺っただけでございます」
夫が椅子の中でこちらを見た。
「十八年でございます」
私は家令を見た。
「あなたは、この屋敷に十八年おられます。十八回のうち、幾つがこの屋敷で起きたかは存じません。けれど、十八年ここにおられて、扉という扉を開けて閉めてこられた方が、」
息を継いだ。
「あなたは、一度も止めておりません」
*
広くない部屋が、静かになった。
薪が鳴った。誰も動かなかった。
「危のうございます、と言われたことが一度もない。大公様がそう仰せでございました。十八年、誰にも言われたことがない、と」
家令は、まだ立っていた。
「気づかなかった、ということもございましょう」
「ございます」
「では」
「気づかない方が、十八年、扉のところに立っておられたことになります」
私は札に手を添えた。
「止めなかったことは、罪ではございません。……けれど、この毒を出せる方が、十八年、一度も止めなかったのでございます。二つは、同じ一人でございます」
「それも、筋でございます」
家令が言った。声はまだ変わらなかった。
私は、卓の上の紙を一枚めくった。蔵で書き取ったものだ。
「では、筋ではないものを一つ申し上げます」
私は紙を彼のほうへ滑らせた。
「一昨日、あの箱を検めました。桝が二十四。壺が二十四。……数は合っておりました」
そうは書いていない。
家令は紙を見なかった。見ないまま、少しだけ首を傾げた。
「二十三でございます」
部屋の音が、そこで止まった。
この人は、書類の数が合わないのを黙って見ていられる人ではない。十八年、そこだけで身を立ててきた人だ。
「はい」
私は紙を戻した。
「桝は二十四。壺は二十三。空いている桝が一つ。……いま仰せのとおりでございます」
彼の手が、袖の中で止まった。
「数えた日の帰りに、蔵の扉のところで伺いました。あの箱は先代様のころから封のまま、開けられたことはございません、と。……あなたご自身のお言葉でございます」
「あの桝を数えたのは、この屋敷で私ひとりでございます。マルセルは蓋を上げるのを手伝っただけで、中は覗いておりません。書き取ったのも私で、その紙はいま、この卓の上にございます」
私は札の隣に指を置いた。
「開けたことのない箱の中身を、なぜ数えてご存じですの」
*
家令が、初めて息を吐いた。
長い息だった。肩が下りて、それきり上がらなかった。
「……ヨーナスと申します」
私は羽根に手を伸ばしかけて、止めた。
訊いたのは、壺の数のことだった。




