第十三話 その名は、どこにも書かれておりません
その名前を、私は聞いたことがなかった。
書斎には、朝から誰も出入りしていない。夫は椅子から動けず、ほかの者も居場所を変えないまま立っている。薪だけが、ときどき鳴った。
私が訊いたのは、蔵の箱の壺の数だ。返ってきたのは、名前だった。
「どなたのお名前でございますか」
「私の父でございます」
彼は札を手に取った。
「二十四番目の壺を、父は毎日開けておりました」
札を、指の腹で撫でた。
「覚えるためでございます。何が毒であるかを、舌で覚えるのが毒見の役でございますので。毎日、ほんの少しずつ含みます。……十年も続ければ、身体のほうに溜まります」
彼は札を卓に戻した。
「先代様のお膳に、灰穂が入っておりました。父が気づきまして、申し上げまして、それから自分で食べました」
「誰が入れたのでございますか」
「とうとう分かりませんでした」
彼は、そこで少しだけ息を吸った。
「役を廃してしまえば、調べる者もおりません」
「なぜ」
「気づいた者が食べなければ、誰も信じませんので」
私は椅子の背を握った。
「一膳でございます。一膳で、父は三日で息をしなくなりました。……溜まっていた者には、それで足ります」
彼は、そこで初めて声を落とした。
「先代様は、その月に毒見の席をお廃しになりました。もう人を死なせぬように、と仰せでございました。……立派なことでございます。私もそう思いました。十八年、そう思ってまいりました」
*
「けれど、席を廃されますと、席に居た者も消えます」
彼は続けた。
「俸禄の帳面から名が落ちます。役が無くなったのですから、当たり前でございます」
私は、まだ何も書いていない紙を見た。
「弔いは家でいたしました。屋敷では何もございません。……父の名は、この屋敷のどこにも書かれておりません」
夫が椅子の中で身じろぎした。
「私は十六でございました。父の死んだ月に、父の代わりに屋敷へ上げていただきました。扉を開ける役でございます。ありがたいことでございました」
彼は袖の中の鍵の束を、掌に出した。
「その年の冬に、先代様が亡くなられました。八つの若様が大公になられました」
鍵が鳴った。
「その日から、この家には大公様がおられます。父の名の無い家に、大公様がおられます」
*
窓の外で、雪が屋根から落ちた。
誰も動かなかった。薪が鳴って、また静かになった。この人が喋っているあいだ、屋敷はいつもどおりの音を立てている。
「……私的なことでございます」
彼はそう言った。
「王都のことでも、位のことでもございません。私は、この家に大公がおられることが、十八年、我慢がなりませんでした」
私は帳面を開いた。
「十八回は、あなたでございますね」
八つの菓子から、春の燻製まで。十八回目を止めたのは私だ。まだ十九回目がございますでしょうけれど、とそのとき申し上げた。夫は、あるだろうな、と言った。
「十八と伺いました。私が数えたのは、二十二でございます。この冬のを入れれば、二十三でございます」
夫が、椅子の肘を掴んだ。指が白くなった。
「四回は、大公様のお気づきにならなかったぶんでございます。効かなかったか、口をお付けにならなかったか。……そのどちらかでございます」
「二十二を、十八年で」
「いいえ」
彼は首を振った。
「一度しくじりまして、それから八年は、手が出せませんでした」
私は羽根を止めた。
「王都から人を雇われましたか」
「雇いました。春の、隊商の若い者も」
「あなたが、直に」
「商会に頼みます。荷積みの朝に一人乗せてくれと申せば、乗せてくれます。……口利きの名しか残りません」
*
書き取る手が、そこで止まった。
春の若い男。名も雇い主も言わずに縄に付いた男。あのとき私は、糸は王都へ伸びて、そこで切れていると思った。
伸びていたのは、行きの糸だった。
北から出て、王都で人を拾って、また北へ帰ってくる。端も、もう一方の端も、この屋敷にある。
「あなたが、荷を」
「贈り主の名を書かなければ、誰の荷でもございません」
彼は言った。
「私は十八年、そればかりやってまいりました。人を雇うのと、扉を開けるのと、この二つでございます」
春に、私は役所の土間で目録を読んだ。贈り主の名の無い燻製が二包、御用の判で通っていた。あのとき私は、判を捺した王都の商会を見ていた。
荷が屋敷へ着いてから誰の手を通ったかは、一度も数えていない。
あの朝、蔵へ納める前にそれを帳面へ書き写したのは、目の前に立っているこの人だ。
*
私は、そこで訊いてはいけないことを訊いた。
この人が十八年でただ一度しくじった話だ。訊けば、語らせることになる。語れば、この人は一度だけ勝った気になれる。それが分かっていて、訊いた。
「八年、手が出せなかったのは、なぜでございますか」
家令の目が、こちらへ来た。
「見ている者がおりましたので」
「どなたが」
彼は答えなかった。答えないまま、待っていた。私が先に言うのを待っている顔だった。
「十八年前に、一度ございますね」
私は言った。
「八つの若様が王都へ上がられた年でございます。襲爵のご挨拶で。……その席で、菓子が」
彼は、口の端を動かした。
「女がおりました。名は存じません。王都の伯爵家の奥方でございましたか、そのくらいでございます」
彼はそう言ってから、少し首を傾げた。
「あの席は、王都の家がひととおり呼ばれる席でございます。……そのなかで、ただ一人、菓子に手を伸ばさなかった方でございました。若様のお皿を、先にご自分のほうへ寄せられました」
「若様は」
「見ておいででした」
彼は、言葉を選ぶように少し止まった。
「あの方が皿を寄せるのを、まっすぐご覧になって、それから、伸ばしかけた手をお引きになりました。八つでございます。何も仰いませんでした。……ご自分でお引きになったのは、たしかでございます」
*
「……それから」
彼は続けた。
「その方は、寄せた菓子を、ご自分で召し上がりました。ひと口だけでございます」
私は羽根を置いた。
「召し上がってから、懐の紙包みを開けて、粉を呑まれました」
部屋が、遠くなった。
「……騒ぎには」
「なりませんでした」
彼は、そこがいちばん癪だという顔をした。
「あの方は、残りの皿を指して、こちらは召し上がってよろしゅうございますと仰せになりました。それだけでございます。誰も箸を止めず、誰も疑われず、席は終いまで続きました。……毒が出たと知れれば、あの日あの席で給仕をした者は、みな疑われておりました」
「私は、そのとき初めて、しくじったと思いました。……粉を持って茶会に出る方が、いらっしゃるとは存じませんでしたので」
彼は、私の顔を見ていた。
「その方は、それから八年、こちらのことを調べておいででした。王都で人を雇うのは、私の仕事でございます」
私は、そこで訊いた。
この人が「殺した」と答えるほうが、こちらには楽だ。楽なほうを期待している自分に気がついて、それでも訊いた。
「その方は、どうして亡くなりましたの」
「存じません」
彼は、こちらを見たまま答えた。
「八年目に、ぱたりと止まりました。それきり何も参りません。……亡くなったのだろうと思っただけでございます」
「あなたが」
「私は何もしておりません」
彼は少しだけ首を振った。
「手を下すまでもございませんでした。……あれは、運でございます」
*
母は、寝間で死んだ。
私が八つの年だ。冬のあいだ咳が続いて、春に医者が来て、夏まで薬を煎じて、それでも起きなかった。誰も毒だとは言わなかった。私も、そうは思わなかった。
この人は、母が調べているあいだ手を出せなかった。母が死んで、また出せるようになった。
それだけだ。
母の死は、この人の勘定に載らない。
私の帳面にも、載せようがない。
*
私は、袖の中で手を握った。
あの粉は何にでも効くものではないと、母は私に言い聞かせた。効く毒に使わなければ意味がない、と。
どうして知っていたのか、私は訊いたことがない。
自分で呑んで、効かなかったからだ。
効かなかったことを私に教えて、それでも、懐に入れて持って歩けと言った。
「イルゼと申します」
私は言った。
家令の目が、少しだけ動いた。
「私の母でございます」
*
夫が、椅子から立とうとした。
立てなかった。肘掛けを掴んで、そこで止まった。
「……リーゼ」
夫に名を呼ばれたのは、二度目だった。
「アレクシス様。お掛けになっていてくださいまし」
「君の母は」
「はい」
「俺の菓子か」
私は夫のほうを向いた。
言わずに済ませる道が、ここにはあった。この人は十八年、誰も守ってくれなかったと思って生きてきた。そう思ったまま生きるほうが、たぶん軽い。
私は、母を数える側に立つと決めた人だ。
「はい」
夫は、しばらく私を見ていた。それから、目を閉じた。
「……そうか」
この人が私を娶ったのは、王都の間者が報せてきたからだ。王宮に、毒見の日誌をつけている令嬢がいる、と。あのとき閣下は、日誌のことしか知らなかった。母のことは、誰も報せていない。
母がひと口だけ食べた菓子の皿の向こうに、八つのこの人が座っていた。その十三年後に、私はあの日誌を書きはじめた。
繋がってはいない。二つの出来事のあいだに、線は一本も引けない。
それでも私は、その二つを同じ紙の上に並べて数えたくなっている。
この人は、それきり何も言わなかった。
*
罰を言ったのは、夫だった。
声が掠れていた。息が足りていない。それでも短かった。
「役所の座敷牢へ入れろ」
家令が頭を下げた。
「春に王都へ書状を出す。判が要る。……身柄は渡さん」
彼はそこで一度、息を継いだ。
「判が下りるまで、あの座敷牢に置く。下りたら、この領で執る」
夫は壁のほうを見た。
「王都へ渡せば、王都の話になる。これは家の話だ」
役所の者が入ってきて、家令の両側に立った。出ていくとき、この人は敷居のところで一度止まって、扉の把手に手を掛けた。
開けるためではない。閉めるためだった。
*
部屋に誰も口をきかない時間があった。
マルセルが先に動いた。卓の札を拾って、埃を袖で払って、私のほうへ差し出した。
「奥方様」
「はい」
「私は、味見をいたしません」
彼は札を私の手に載せた。
「けれど、これからは大公様のお皿に振る前に、奥方様にお見せいたします」
*
その日のうちに、城下へ触れを出した。
毒は屋敷の中から出たこと。出どころは押さえたこと。城下の塩には何も入っていないこと。大公は生きていること。
書記が読み上げて回ったそうだ。ハンナが夕方に戻ってきて、市の音が戻っていたと言った。
「奥方様のことを言ってた人たちは」
「よろしいのです」
「よくないです」
「触れに、私の名は入れませんでした。……入れると、言い返しているように見えますので」
ハンナは何か言いかけて、やめた。
*
その晩、私は屋敷の帳面を出した。
俸禄の帳面だ。十八年前の頁は、糊が乾いて浮いていた。
毒見の席の欄が、線で消してあった。線の下の字は読めない。消したのではなく、塗ってある。
私は新しい紙を継いで、そこへ書いた。
――ヨーナス。毒見。先代大公の膳に灰穂を認め、これを食して三日ののちに没す。
書いてから、羽根を止めた。
この人の父を数えたところで、この人がしたことは軽くならない。二十三回は二十三回で、母は帰らない。
二つは、別に数える。
私は行を変えて、もう一行書いた。
――イルゼ。伯爵家へ嫁いだ人。十八年前、王都にてノルデン大公家の子の菓子を止む。八年ののちに没す。
母は毒見の役に就いたことがない。屋敷の者でもない。俸禄の帳面に載る名ではない。
書いた。
書きながら、春に川べりで訊かれたことを思い出した。あんたのおっ母さんは、誰の疑いを晴らしたんだね。
答えは、いま聞いたところにあった。あの席で給仕をした者たちだ。名前も知らない、その日そこにいただけの人たちだ。母は毒の皿を黙って引き取って、残りは召し上がってよろしいと言った。
毒を見つけるより、そちらのほうが手間がかかる。
私は春に、同じことを城下の広場でやった。母から教わったとは、そのとき思っていなかった。
あの人の名は、書かなかった。書くのは、領の裁きの帳面のほうだ。
*
夫が歩けるようになったのは、それから十日後だった。
最初は書斎までだった。次に食堂まで。そのころには、屋敷の者の眠気も抜けていた。塩の袋は十四とも入れ替えて、蔵の箱は封をし直して、鍵は二つに分けた。
書斎までの廊下を、夫は壁に手をついて歩いた。私はその半歩後ろを歩いた。
「リーゼ」
「はい」
「あの男は、毎朝この扉を開けていた」
「はい」
「俺は、十八年、礼を言ったことがない」
私は足を止めた。
「アレクシス様」
「言えば止まったとは思わん」
夫は壁から手を離して、自分の足で二歩進んだ。
「思わんが、数えてはいなかった」
*
冬のあいだ、私は帳面を続けた。
去年の差は、春が来る前に数え終わった。掘ったぶんと配ったぶんの差は、六百斤と少しだった。行き先は、前の代官の家の蔵から出た。
*
春の初めに、閂が上がった。
横木を持ち上げる音は、下ろすときより高かった。上げたのは別の者で、端を叩かなかった。叩く決まりだったのかどうかも、いまは誰も知らない。
門の外に、雪解けの道が黒く伸びていた。
城下から人が上がってきて、村から荷が下りてきて、市の音が大きくなった。
最初の隊商が峠を越えたのは、その十日後だった。
塩税監のことは、とうとう何も来なかった。詫びも、咎めも、問い合わせも。道だけが開いた。
*
私は書斎の抽斗を開けて、鍵を外した。
糸で綴じた紙の束が入っている。秋に王都から来たものだ。私の五年が、私の字でない字で写してある。
三年目の秋の余白に、ミレーユ様はその日いなかったと書き足した手がある。十一箇所。私はもう、その日付をひとつずつ覚えている。
あの方は、三十二回すべての席にいらした。それを消せるのは、王宮の茶会の記録ごと書き換えられる手だけだ。
私は束を閉じて、旅の荷の底へ入れた。
「ハンナ」
「はい」
「王都まで、馬車で二日でございますね」
「……行かれるんですか」
私は窓を開けた。
風が入った。冷たいけれど、乾いていない。雪の匂いではなく、土の匂いがした。
「この領の帳面は、数え終わりました」
*
発つ前の晩、夫が食堂で私の向かいに座った。
マルセルが皿を運んできて、卓の脇で塩の壺を開けた。私に見せてから、振った。
夫が匙を取った。取ってから、一度止まった。
「君は」
いつもの短さだった。
「まだ、確かめるのか」
「確かめます」
私は皿を先に見た。湯気の立ち方。色。羊の脂の匂いに、根菜の甘さが混じっている。それから匙を口へ運んだ。
「辛うございますわ」
夫が、匙を口へ運んだ。
「塩が多い」
その晩も、皿は空になった。




