第五話 境目は、樽にございません
朝のうちに、厨房の床几へ壺を三つ並べた。
夫が昨日、自分の手で運んだものだ。城下のはずれのお婆様の壺と、桶屋のご主人の壺と、市で魚を商う方の壺。
四つ目は無い。馬借の子どものお宅のものは、私が頼んで回ったあとで、母親が井戸端で洗ってしまった。怖かったのだそうだ。だから昨日、夫にお願いしたのは三つだった。
城下は、もう怖がりはじめている。
「古い順に検めましょう」
「はい」
いちばん古いのが、お婆様の壺だ。去年の秋に隣の家からいただいて、棚へ置いたまま、冬じゅう少しずつ召し上がっていた。
蓋を取った。
酸っぱい匂いは、しなかった。
代わりに、重く垂れ下がるような甘さが上がってくる。昨日、市の東の店の樽で嗅いだのと同じものだ。箸を入れると、汁が糸を引いた。
指の先につけて、鼻へ近づける。
酸が立っていない。
桶屋のご主人の壺も、魚屋の方の壺も、同じだった。
「三つとも、同じでございますな」
マルセルが言った。
「私の樽なら、蓋を開ける前に叩いて分かりますのですが。よその壺は、叩かせてもらえません」
「揃いすぎでございます」
私はそう申し上げた。
揃っているのは、私の言い分に都合がよい。都合のよいものほど、疑わなくてはいけない。三つの壺が同じように崩れていても、それは何も潰さない。毒の入った壺だとて、春になれば同じように崩れる。
昨日、レンツ様に言われたことが、まだ残っている。
――そのお婆様は、フランツ先生の仰る、毎年のお一人でございましょう。
冬を越した樽で当たる者は、毎年いる。今年はそれがあの方で、残る三軒へ毒が届けば、四人は揃う。二つの出来事を足せば、同じ形になる。
私は昨日、それに答えられなかった。
壺の中を覗いても、答えは出ない。答えは、壺の外にある。
「ハンナ」
「はい」
「倒れなかった方々を、数えに参ります」
*
診療所の前で、フランツが往診の鞄を提げて出てきた。
「四軒はもう回った」
「倒れた方のお宅ではございません。……何ともなかったお宅を回ります」
「何のためだ」
私は歩き出しながら申し上げた。
「毒であれば、境目がございます。毒の入った壺と、入らなかった壺。その境目が、どこにあるかを見とうございます」
フランツはしばらく黙って、それから鞄を持ち直した。
「訊く言葉は」
「去年の秋に漬けた酸漬けを、いつまで召し上がっていたか。そのあと、お腹をこわさなかったか。……それから、残っておりましたら、蓋を開けて見せていただきます」
城下は狭い。半日で足りた。
十九人いた。
寝込むほどではないけれど、この四、五日、腹を下している方が十九人。私はその方々の召し上がったものを、ハンナに書き取ってもらった。
買った先は、市の店が四軒。里からのもらいものが三軒。自分の家で漬けた方が六軒。
十三の樽に分かれていた。
そのうち十の樽は、まだ中身が残っていて、蓋を開けていただけた。
十とも、酸が立っていなかった。
そして、十九人が十九人とも、去年の秋に漬けたものを召し上がっていた。
今年の春に漬けたものを召し上がって腹を下した方は、お一人もいらっしゃらない。
十四軒目の戸口で、ハンナが帳面を落とした。
中の方が、この娘の顔を見て、戸を細く閉めたからだ。峠側の娘だと、もう知られている。私が拾って渡すと、ハンナは「すみません」と言って、それきり口を利かなくなった。
「……線が引けん」
フランツが、指を折るのをやめて言った。
「重いのが四人、軽いのが十九人、何ともないのが残り全部だ。並べると、坂になってる」
「先生。境目は、どこにございましたか」
「……境目」
「毒であれば、境目は樽にできます。入った樽と、入らなかった樽。召し上がった量で重い軽いが分かれますのは、そのあとの話でございます」
私は帳面を閉じた。
「けれど、この城下の境目は、樽にございません。……秋と春のあいだにございます」
フランツは、しばらく私の手元を見ていた。
「……十三の樽ぜんぶに入れて回った奴がいる、と言わなきゃならんのか」
「毒だと申しますなら」
「そのうえで、春に漬けた樽だけは、きれいに避けた」
「はい」
フランツは、鞄を持ち替えた。
桶屋の女房殿は、土間に膝をついたまま、私を見上げていらした。
「去年のは薄いって、みんな言ってましたよ。……でも、薄いだけでしょう。腐ってたら、分かりますもの」
「分かりませんの」
私はそう申し上げた。
「酸漬けが崩れましても、腐った匂いはいたしません。甘くなるのでございます。果物のような、重い甘さに」
その方は、しばらく黙っていた。
「……甘いのは、上等な証しだと思っておりました」
*
昼を過ぎて、診療所へ二人運ばれた。
市で麻を商う方と、その隣の家のご主人。二人とも、去年の秋の壺を、今朝まで召し上がっていた。
その寝台は、十日ほど前まで大きな身体が塞いでいた。あの隊商の頭は、二十日ほどここで預かられて、歩けるようになってから峠を越えて帰っていったのだそうだ。
フランツは新しい二人を寝かせてから、しばらく戸口に立っていた。
「先生。はじめの四人の熱は」
「引いた。二日で起きた奴もいる」
「夜苦草の茶は、三日かけて弱ってまいります。三日目に、戻ってはまいりません」
「……夜苦草じゃねえ、ってだけだ。毒はほかにもある」
「はい」
私は頷いた。
「ですから、順に並べます。毒でございましたら、その毒は、二日で抜けて、十三の樽へ配られて、去年の秋に漬けたものにだけ入っていて、そして、いちばん少なく召し上がった方にいちばん強く効いたことになります」
「最後のは何だ」
「あのお婆様でございます」
フランツは寝台のほうへ顎をやった。
「……ああ。四人のうち、いちばん食ってねえのが、いちばん重かった。あの婆さんは去年の秋のを一昨日の晩まで持たせてる。一度に食う量なんざ、たかが知れてる」
「毒は、召し上がった量で決まります」
「三日かけて弱らせるやつなら、少しずつでも積もるぞ」
「積もりましたら、あの方は幾日も前から弱っておいででした」
フランツが、口を閉じた。
「前の日まで何ともなかった、と言ってたな。あの婆さん」
「四人とも、半刻のあいだにお倒れになりました。積もった方の倒れ方ではございません」
私は寝台のほうを見た。
「腐ったものは、量ではなく、幾度召し上がったかで効きます。あの方は、崩れてからのものを、いちばん長く召し上がっておいででした。少しずつ、大事に」
「ああ。腐りが回数で来るのは、俺も診てきた」
フランツは鞄を寝台の脇へ下ろした。
「夏の乳がそうだ。一度に腹いっぱい食う奴より、毎日ちびちび食う奴のほうが起き上がれなくなる。いつも不思議に思ってたが、そういうことか」
それから、私のほうを見た。
「俺は身体から入る、あんたは皿から入る、と言ったな」
「伺いました」
「……今度は、あんたのほうが先に着いた」
フランツは袖をまくった。
「だが俺は、人前で『毒じゃない』とは言わん」
「先生」
「医者が言えば、それで決まっちまう。次の一人が出たら、俺の口が殺したことになる。……あんたは昨日、広場で言ったんだろう」
「申しました」
「じゃあ、あんたのほうが、俺より重いものを持ってる」
*
役所へ上がる前に、屋敷へ戻った。
夫は書斎にいた。
「触れを出していただきとうございます」
「何と書く」
私は申し上げた。
「去年の秋に漬けた酸漬けは、蓋を開けて確かめること。酸っぱくないものは、召し上がらず、売らず、捨てていただくこと」
夫は羽根を置いた。
「城下の半分が捨てることになるな」
「はい」
「外れていたら」
「次に倒れる方は、私のせいで倒れます」
少し間があった。
「外れていたら、俺が出した触れだ」
「……いいえ」
「触れは領主の名で出る。君の名は載らん」
「それが、いちばん怖うございます」
夫が、こちらを見た。
「私が間違えましても、私の名は残りません。残りますのは、アレクシス様の名でございます」
黒い目が、しばらく動かなかった。
「――なら、間違えるな」
「はい」
「間違えたら、二人で謝りに行く」
私は頭を下げた。下げながら、袖の下で指を握った。
冷たくはなかった。
夫は紐を引いて人を呼んだ。私が書斎を出るより先に、馬が一頭、門を出ていった。
*
役所の土間は、押収された荷でまだ埋まっていた。前の代官様のものだ。帳面の検分が続いている。
レンツ様は、その真ん中に立って書付を数えていた。
「奥方様。触れは伺いました。城下は荒れております」
「存じております」
「今年の分まで捨てろとは仰いませんが、去年の秋のものを捨てますと、夏まで持ちません。菜は、まだ生えておりませんので」
「はい」
「それでも、なお仰いますか」
「申します」
レンツ様は書付を置いた。
「では、伺いましょう。なぜ薄うございましたので」
「塩の帳面を、見せていただきとうございます」
帳面が来た。
去年の秋、城下と峠側の村へ配られた岩塩の量が書いてある。一昨年の分も、その前の分もあった。
去年だけが、減っている。城下が三分の二、村は半分だ。
私は、掘り出した量のほうの帳面もお願いした。
そちらは、減っていなかった。
「掘った塩は、去年も同じだけございます」
「左様でございます」
「配られた塩が、減っております」
「左様でございます」
レンツ様は私の隣で帳面を覗き込んでいた。隠す気配は、まるでなかった。
「差の行き先は、どちらに」
「どこにも書かれておりません。私が書きましたので、覚えております」
「……あなたが」
「帳面は、すべて私が書いております。前の代官様は、字をお書きになりません」
私はその字を見た。細くて、揃っていて、行が真っ直ぐだった。
「では、割り当てを減らすとお決めになったのは」
「代官様でございます。私は、決まったことを書き取るだけの者でございますので」
この方は、隠さない。隠さないところだけを、丁寧に開いてみせる。
「その分の塩は、どちらへ参りましたの」
「存じません。書かれていないものは、書かれておりません」
帳面は嘘をつかない。書いていないことについても、嘘はつかない。
「もう一つ、拝見できますか」
私は申し上げた。
「昨日、仰いました。村が割り当てのことでいちばん声を上げた、その書付が役所に残っている、と」
「ございます」
書付が来た。
去年の秋の日付で、村の者の申し立てが三行書いてある。字は、同じ字だった。
「レンツ様。去年、村の割り当てを半分になさったのは、村が何かをしたからではございませんね」
「――」
「城下も減っております。城下は、代官様を恨んではおりませんでしょう」
レンツ様は、書付の端を指で揃えた。
昨日と同じ手つきだった。
*
「奥方様」
帰り際に、呼び止められた。
「峠側の村が、返された樽をもう一度市へ出すと申してまいりました。……城下が承知いたしません」
「はい」
「役所で検めてはいかがでしょう」
私は振り返った。
「奥方様は、毒ではないと仰せです。念のため検めて、何も出なければ、それが城下への答えになります。村の樽が売れませんと、あの村は今年の塩も買えません」
「どなたが検めますの」
「役所の者が。奥方様とフランツ先生に立ち会っていただければ、城下も文句は申しますまい」
断る理由が、一つも無かった。
「……お願いいたします」
「では、今日のうちに下ろすよう、村へお伝えくださいまし。日の落ちる前でしたら、この土間へ入れておきます」
*
峠側の村までは、馬で一刻ほどだった。
夫が供を五人つけて、自分も馬に乗った。
途中で荷車とすれ違った。空の荷車が、村から下りてくる。樽を戻して、城下へ帰るところだった。
村の手前の、道が曲がるところで、私は馬を止めた。
「アレクシス様。ここでお待ちくださいまし」
「なぜだ」
「アレクシス様がいらっしゃいますと、村の方々は黙ってしまわれます。……黙られては、伺えません」
夫はしばらく、村のほうを見ていた。
「昨日、あの書役が黙ったのは、俺が来たからだな」
「はい」
「あれは、君が勝ったわけではない」
「……はい」
夫は手綱を引いた。
「ここにいる。日が傾いたら、迎えに行く」
*
村の入り口に、返された樽が七つ並んでいた。日はまだ高い。
誰も蓋を開けない。触ると当たる、と言った子どもが叱られていた。
ハンナが駆けていって、それから足を止めた。
女衆が、こちらを見ていた。
「……あんた、お屋敷の人だろう」
誰かがそう言った。ハンナは、何も言い返さなかった。
私は馬を下りて、樽の前に立った。
「奥方様がお決めになったって、本当ですか」
「役人様は、村の樽に毒が入ってるって仰ってます」
「うちの村が、代官様を恨んでたからだって」
声が重なった。
「毒ではございません」
私は申し上げた。
「城下でお倒れになった方々は、去年の秋に漬けたものを、暖かくなってから召し上がった方々でございます。買った店も、漬けた家も、ばらばらでございました。この七つは、今年の春に漬けられたものでございましょう」
「……そうです」
女衆の一人が、そう答えた。
「では、この七つは、触れにも掛かりません」
「役人様も、そう仰ってくださいますか」
答えられなかった。
*
ハンナの祖母は、家の裏で桶を洗っていた。
小さな方だった。手だけが大きい。
「これから漬けるんだよ。去年の塩の残りでね」
「今年の塩は」
「まだ来ないよ。……去年の半分でも、来るのかどうか」
私は袖をまとめて、桶の縁を持った。
「洗い方を、教えてくださいまし」
ハンナの祖母は、私の手を見た。
少しのあいだ、そのままだった。
「……あんた、その手」
「はい」
「うちの若い衆にも、そういう手のがいるよ。塩をやってるとね、こうなる」
私は自分の手を見た。
北へ来てから、薄くなった手だ。消えなくても俺が覚えている、と夫が言った手だ。
塩で荒れた手と、毒で荒れた手は、同じ形をしているらしい。
「奥方様は、どうして分かったんだね。酸漬けのことなんぞ」
「酸漬けのことは、この娘に教わりました」
私はハンナのほうを示した。
「……けれど、塩をけちれば甘くなることは、もっと前に伺っております」
「誰に」
私は桶の水を替えた。
答えは持っている。ただ、口に出すのは、ずいぶん久しぶりだった。
「母に」
ハンナの祖母は、何も仰らなかった。
ただ、桶をもう一つ、こちらへ寄越した。
*
「今日のうちに、あの樽を役所へ下ろしてくださいまし」
「今日かね」
「はい。日の落ちる前でしたら、役所の土間で預かってくださるそうです。明日の朝、皆の前で検めます。……何も出なければ、城下は買います」
ハンナの祖母は、樽のほうを見た。
「荷車を出せば、じゅうぶん間に合うよ。……開けてもらって構わない。春に漬けたぶんは、けちってないから」
「春に漬けたぶんは」
「売るぶんには、先に入れるんだよ。春に漬けて、夏まで置くもんだからね。……足りないのは、うちで食う分から削るのさ」
私は、その方を見た。
「では、去年の秋にお漬けになったものは」
「薄いよ。去年は半分しか来なかったからね。うちで食う分から削っても、売るぶんまでは足りなかった」
「けれど、秋にも市へお出しになりましたでしょう」
「出したよ。薄いから早く食えって言って渡した」
その方は、桶の縁で手を拭いた。
「うちのは正月までに空にしてる。薄く漬けたものは、早く食う。当たり前だろう」
当たり前だ、とこの方は仰る。
城下の方々は、その当たり前をご存じなかった。買って、棚へ置いて、大事に残しておいでだった。薄いものほど長く置いてはいけないということを、渡されたときに一度、言われただけだった。
「そのことを、もう一度、城下で仰ったことはございますか」
「訊かれたことがないよ」
*
翌朝、役所の土間に樽が七つ並んだ。
城下の者が戸口まで詰めていた。フランツが、寝ずに来たような顔で立っている。ハンナは私の斜め後ろで、両手を前で握っていた。
レンツ様が、役所の者に蓋を開けさせた。
一つ目。酸っぱい匂いが立った。目にしみるほどの匂いだ。
二つ目も、三つ目も、同じだった。
戸口のあたりから、息の抜ける音がした。
四つ目の蓋が開いた。
匂いは同じだった。けれど、役所の者の手が止まった。
菜と根菜の上に、細い根が一本、載っていた。
黒い、節のある根だ。
レンツ様が、書付を胸から下ろした。
「……夜苦草でございますな」
戸口がざわめいた。誰かが叫んだ。ハンナが、私の袖を掴んだ。
私は、その根を見ていた。
塩の粒が、一つもついていない。
汁が、滴らない。
私はハンナの手を握り返して、何も申し上げなかった。




