第四話 これは毒ではございません
北の春は、終わるときが急だった。
峠の残り雪が数日で落ちて、風がぬるくなって、屋敷じゅうの窓を開ける日が続いた。ハンナは「今年は早いです」と言いながら、冬のあいだ閉じていた小食堂の鎧戸を押し開けた。
厨房では、マルセルが樽をひとつずつ叩いて回っていた。
「そろそろ、冬のものが終わりでございます。……塩の多い私が申すのも何でございますが」
「終わり、と申しますと」
「暖かくなりますと、持ちが変わります。塩漬けも、燻製も。……冬に大丈夫だったから春も大丈夫、というわけには参りません」
私はそれを帳面に書き取った。
この土地の食べ物のことを、来た日から一つずつ書いている。何を、いつ漬けて、いつまで食べるのか。どこの家でも当たり前に知っていて、誰も口にしないことばかりだ。
その帳面の途中で、ハンナが駆け込んできた。
「奥方様。城下で、人が倒れました」
「何人ですの」
「四人です。……朝から、みんな別の家で」
私は羽根を置いた。
――十九回目では、ない。
そう思ってから、自分の考えの向きに気がついた。報せが来るたび、私はまずそれを数えている。この半年、ずっとそうだ。
別の家で、同じ朝に、四人。
*
「城下へ参ります」
書斎でそう申し上げると、夫は書きかけの手を止めた。
「一人で行くな」
「はい」
「……フランツを呼べ。あの男が一緒なら、俺が追いかけずに済む」
この人は、私が診療所へ行くと分かっている。分かっていて、そう言う。
「行ってまいります」
「昼までに戻れ」
「戻れなければ」
「迎えに行く」
黒衣の背は、こちらを向かないままだった。
*
診療所の土間に、寝台が二つと、戸板が二枚並んでいた。
フランツが袖をまくったまま、こちらを見た。
「毒だ」
開口一番にそう言った。
「四人とも同じだ。痺れ、吐き気、熱。腹をやられただけならこうはならん」
「先生」
「前は俺が外した。古い樽の手当てをして、あんたに助けられた。……今度は間違えん」
私は寝ている方々を順に見た。
桶屋のご主人。市で魚を商う女の方。馬借の子ども。それから、城下のはずれで一人で暮らしている老女。
年も、住まいも、家業も違う。互いに知り合いですらないという。
「先生は、はじめてお会いしたときにこう仰いました。冬を越した樽の中で悪いものが増えて、毎年一人か二人は当たる、と」
「言った」
「今年は」
「四人だ。同じ朝に。……軽けりゃ家で寝てりゃ治る。死ぬ年もある。だが四人が一度には来ん」
フランツは寝台の脇の桶を足で寄せた。
「昨日どこで何を食ったかも訊いた。ばらばらだ。桶屋は家で食った。魚屋は市の屋台。子どもは母親の持たせた弁当。婆さんは一人で煮炊きしてる。同じ釜のものを食った者は、一人もいない」
毒は、誰かが入れなければ入らない。四つの家の釜へ、別々に入れて回った者がいる。そう考えるには、この城下は狭すぎた。誰かが四軒を回れば、必ず隣の誰かが覚えている。
「ご家族は、いかがでございますか」
「……何だ」
「同じ釜のものを召し上がったご家族は、どうしていらっしゃいますか」
フランツは、しばらく黙っていた。
「桶屋の女房が、朝から腹を下してる。寝込むほどじゃない。魚屋のところの娘もだ。粥を食わせて帰した」
「重い方が四人。軽い方が、何人も」
「……ああ」
「毒は、そういう配られ方をいたしません」
「量が違えば、軽いのも出る」
私は口を開いて、閉じた。
壺ごと、樽ごとに入っていれば、量は召し上がった方が自分で決める。よく食べた方が重く、箸をつけただけの方が軽い。重い方と軽い方が並ぶのは、毒を配った証しにはならない。
「……仰るとおりでございます。いまの申しようは、まだ届きません。取り下げます」
「珍しいな。あんたが引くのは」
「届かないものを申し上げても、次の方が倒れるのが遅くなるわけではございませんから」
私はフランツの手元を見た。
「もう一つ伺います。この方々は、いつお倒れになりましたか」
「朝だ。四人とも。呼ばれたのは半刻のあいだに四度だ」
毒なら、盛られる時刻がばらつく。効くまでの間も、量で変わる。三日かけて弱っていく毒もあれば、半刻で来る毒もある。
四人が、同じ朝に、そろって。
「先生。これから四軒を回ってまいります」
「何を訊く」
「昨日、何を召し上がったかを。……先生がお訊きになったのと同じことを、訊き方を変えて」
フランツは私の顔を見た。
「あんたは、どこでそれを覚えた」
「五年、配られる側におりました」
私はそう申し上げた。
「配る人は、必ずどこかで欲張ります。……欲張らない毒を、私は見たことがございません」
*
私は城下を歩いた。
「昨日召し上がったもので、買っていらしたものはございますか」
桶屋のご主人の台所に、蓋の開いた小さな壺があった。魚屋の方の屋台の裏にも、同じ形の壺が一つ。
子どもの弁当の包みには、汁の染みだけが残っていた。母親が昨日の朝、詰めたのだそうだ。壺は台所の窓辺にあった。その方も一緒に少しつまんで、昨日の昼から腹を下していらした。寝込むほどではない、と仰った。
老女の棚にも一つあった。去年いただいたものだ、と細い声で仰る。去年の秋に隣の家からもらって、冬のあいだ少しずつ食べて、残りをそのまま棚に置いていたのだという。
隣の家にも伺った。冬のあいだも、雪が緩んでからも、あの家へ上がった者はいない。用があるときも戸口で渡すのだそうだ。
酸漬け。
根菜と菜を塩で漬けて、冬じゅう置いておく。この土地の食卓には必ず一鉢は載っているものだと、ハンナに教わっていた。
「奥方様、うちの村でも毎年漬けます。……でも、酸漬けで人が倒れるなんて聞いたことないです」
「四つとも、同じお店のものかしら」
「違います。桶屋さんのは市の東の店で、魚屋さんのは西です。子どものは母親が里から持ってきたもので――あそこも峠側です。お婆さんのは去年のもらいもので」
売り手が違う。樽が違う。漬けた人も違う。
それでも、四つとも酸漬けだった。
私は四つの壺を、そのまま置いていただくようお願いして回った。あとで検めさせていただきます、と。
*
市の東の店で、樽を見せていただいた。
私が来たと知って、店の女の方は青くなっていた。そうなるだろうと思っていた。だから樽より先にその方の目を見て、まだ何も分かっていないのだと申し上げた。
蓋を開けた。
酸漬けは、蓋を取ると顔をそむけたくなるほど酸っぱい匂いが立つ。屋敷の台所で、ハンナに笑われながら一度嗅いだことがある。目にしみるのだと。
この樽は、匂いが薄かった。
代わりに、甘い。果物の甘さではない。重く垂れ下がるような、腐りかけたものの甘さだ。
柄杓で汁を掬った。濁っている。柄杓を上げると、糸を引いた。
私は指の先につけて、鼻へ近づけた。
酸が立っていない。
毒の匂いはしない。けれど、それは何の証しにもならない。夜苦草は水では香らず、酒に落ちたときだけ立つ。匂いで分かる毒のほうが、本当は少ないのだ。
含めば分かることもある。けれど、崩れたものを含んで分かるのは、崩れているということだけだ。それはもう、目で分かっている。
私は柄杓をハンナへ渡した。
「ハンナ。あなたの村では、これはどのくらい塩を利かせますの」
「たくさんです。手が痛くなるくらい塩を揉み込んで、それから漬けます。おばあちゃんが、けちると腐るって」
ハンナは城下の生まれだけれど、母親の里が峠側の村で、漬け物のことはみなそちらで覚えたのだという。
「けちると、腐る」
「はい。酸っぱくならないと駄目なんです。酸っぱくなったら、もう平気なんですって」
「けちる方が、いらっしゃるの」
「けちるっていうか……塩は割り当てなんです。岩塩は領のもので、村が勝手に掘っていいものじゃないから。……去年は、減らされました」
「村が、ですの」
「村も、城下もです。去年の秋に漬けたものは、どこの家のも薄いはずです」
塩を利かせるから酸が立つ。酸が立つから、そのあと何ヶ月置いても保つ。
この樽では、それが起きていない。起きないまま冬を越して、暖かくなった。
冬に大丈夫だったから春も大丈夫、というわけには参りません。今朝、マルセルはそう言っていた。
「奥方様」
声のほうを見ると、羽根ペンを耳に挟んだ痩せた男が立っていた。三十半ばだろうか。役所の書付を胸に抱えている。
「代官のお役を、いまは代わりに預かっております。レンツと申します」
名は聞いていた。前の代官様の下で、長く帳面を書いていた方だ。
「城下が騒いでおります。四人。……奥方様、帳面には何と書きます。毒、と」
「いいえ」
私はそう申し上げた。
「これは毒ではございません」
言い切ってから、自分でも少し驚いた。
検めたのは、まだこの一樽だけだ。それでも、この土地では私の申したことが通る。……通ってしまうから、順を違えてはいけないのに。
「失礼ながら、四人が同じ朝に倒れております」
「毒は、誰かが入れなければ入りません。四つの家の釜へ、別々に、同じ晩のうちに入れて回った方がいらっしゃると、そう仰いますか」
「釜へ入れる要はございません」
レンツ様は、あっさりとそう仰った。
「壺へ入れておけば足ります。あとは食べた量。よく食べた者が重く、つまんだ者が軽い。四軒で同じ形になりますのは、数の道理でございます」
私は少し、この方を見直した。
帳面を書く方は、数の並びで物を考える。今朝、私が診療所で取り下げたのと同じところへ、この方は自分で行き着いておいでだった。
「では、あの方の壺は」
「は」
「城下のはずれの、お婆様でございます」
私は申し上げた。
「あの壺は、去年の秋に隣の家からいただいたものでございます。冬のあいだ、少しずつ召し上がっておいででした。……秋に入っていたのなら、あの方は冬のうちに倒れておいでです」
レンツ様が、書付を持ち直した。
「あとから入れるほかにございません」
私は続けた。
「けれど、あの壺は棚の上です。あの家へ上がるほかに、手の届く道がございません。あの方はお一人でお暮らしで、誰かが上がればお隣が覚えておいでです。……冬のあいだも、雪が緩んでからも、どなたも上がっておりません。伺って参りました」
答えは無かった。
「四つのうち三つは、辿ってゆけば同じところへ行き着くかもしれません。荷は、上でひとつに繋がっておりますから。……けれど、あの一つだけは、どこからも辿り着けないのです」
配って回るには、この城下は狭すぎる。壺へ入れるには、あの一つが遠すぎる。
「それでも毒だと仰るなら、その方は、四軒のうち三軒には荷で届いて、残る一軒だけは去年の秋に届いていたことになります」
風が、樽の口を鳴らした。
レンツ様は、書付の端を指で揃えた。
「こう書けば、片づきます」
落ち着いた声だった。
「そのお婆様は、フランツ先生の仰る、毎年のお一人でございましょう。冬を越した樽で、毎年一人か二人は当たる。四人のうちお一人がそれなら、残る三軒へ毒が届けば足ります。その三軒は、いま奥方様ご自身が、荷で繋がっていると仰いました」
私は、答えられなかった。
答えられなかった、ということを、この方は見ていた。
「……仰るとおりでございます」
そう申し上げるほかなかった。
「いまの私には、否めません。あのお婆様の壺と、残りの二つを検めるまでは」
「お検めになるまでは、毒でございますな」
「いいえ」
そこだけは、引かなかった。
「これは毒ではございません。……四人がいちどきに倒れたことを、二つの出来事に分けるほうが、私には無理に見えます。それだけでございます。証しにはなりません」
「証しにならないものを、奥方様は仰るのですか」
言われて、指の先が冷たくなった。
毒だと申し上げるほうが、たやすい。当たれば人が助かり、外れても誰も倒れない。
毒ではないと申し上げるのは、その逆だ。
――もし私が違っていたら、次に倒れる方は、私のせいで倒れる。
「では、何だと仰います」
「塩でございます」
私は樽を示した。
「この樽は、塩が足りません。ですから酸が立たず、酸が立たなかったものが、暖かくなって崩れました。四人が同じころに倒れたのは、四つの樽が同じころに崩れたからでございます。……別々の家の樽が同じころに崩れますのは、同じ秋に、同じだけ薄く漬けられていれば、偶然ではございません」
レンツ様は、しばらく樽を見ていた。
それから、ゆっくりと城下のほうへ顔を向けた。
「奥方様。それは、この城下の者が塩をけちった、と仰るのと同じでございますね」
「そうは申しておりません」
「城下はそう聞きます」
その言い方は、丁寧だった。丁寧で、隙がなかった。北へ来てから、私はその種類の丁寧さをいくつも見てきた。
「なるほど。その三つでございますね」
レンツ様が、はじめてこちらの目を見た。
「奥方様がいま仰いました。四つのうち三つは、辿ってゆけば同じところへ行き着く、と」
――ああ。
「市へ酸漬けを出しておりますのは、峠側の村でございます。……去年、割り当てを減らされて、いちばん声を上げましたのが、あの村でございました。役所に書付が残っております」
ハンナの手から、柄杓が落ちた。
「……うちの村です」
*
鐘が鳴った。
昼だった。
人垣が割れて、黒い背が広場へ入ってきた。誰も何も言わなかったのに、市の者たちが道を空けた。
「戻らなかったな」
夫はそれだけ言った。
「申し訳ございません」
「詫びは要らん」
レンツ様が、深く腰を折った。
「大公閣下。城下で四人が倒れました。毒でございます。奥方様は、そうではないと仰せですが」
「そうか」
夫は、レンツ様を見なかった。
私を見て、それから、樽を見た。
「妻が違うと言うなら、違うのだろう」
「閣下。しかしながら――」
「あんたの仕事は、あんたの帳面だ」
黒衣が、樽の前で止まった。
「俺の妻の仕事は、こっちだ」
レンツ様は、それきり何も仰らなかった。
夫が私のほうを向いた。
「何が要る」
「人手を。壺を三つ、屋敷まで運びとうございます。……こぼさずに」
「それだけか」
「……それから、明日、峠側の村へ参ります」
言ってから、ハンナのほうを見られなくなった。
この娘に、私はまだ何も約束していない。約束できることが、一つもない。
夫は少しのあいだ黙って、それから言った。
「送る」
「はい」
「壺は俺が運ぶ」
「アレクシス様が、でございますか」
「こぼさずに運べと言ったのは、君だ」
黒衣の背が、樽のあいだをくぐって歩いていく。
その後ろを、私は追いかけた。追いかけながら、指の先がまだ冷たいことに気がついた。




